アート・アーカイブ探求
高田誠《野尻湖と妙高》──平凡の尊さ「鴫原悠」
影山幸一
2017年03月15日号
対象美術館
点線の木々
初夏の湖と山の風景画を、風景写真を見ながら描いたことが高校生時代にあった。文化祭に向けて油絵を気乗りしないまま展示直前に一気に仕上げた。その風景画は感動も何もなかった。しかし、その負の体験は無ではなかった。大人になって高田誠の油絵を見たとき、「風景画とはこういう絵だよ」と静かに語りかけられたようで素直な気持ちになり、文化祭の油絵がふっと浮かんできた。寒い季節に思い出す高田の風景画に《野尻湖と妙高》(埼玉県立近代美術館蔵)がある。
堂々と山と向き合い、自然の冷気に包まれながらも楽しそうに絵を描いている高田が見えてくる。葉の落ちた木々が垂直に立ち並び、その隙間から湖と雪の積もった山々が遠方に見える。近づいて見ると、木々の枝はステッチのように点線で描かれ風がサラサラと吹いているようだ。また雪山のせいか、枯れて見える艶のない絵具のためか、寒さが伝わってくるが、同時に湖畔に見える民家や湖に映っている青空などを、控えめな点描で丁寧に描き、寒さを和らげているようにも感じる。静かで優しい芯のある風景画。個性を主張しない風景だが尊い景色である。
埼玉県を代表する画家のひとりである高田誠の《野尻湖と妙高》の見方を、埼玉県立近代美術館の学芸員・鴫原(しぎはら)悠氏(以下、鴫原氏)に伺いたいと思った。鴫原氏は日本近現代美術を専門とし、常設展・収蔵品を担当する学芸員である。埼玉県立近代美術館へ向かった。
地域に根差した美術
JR東京駅と新宿駅のどちらからも電車で約35分の北浦和駅。そこから歩いて3分ほどの北浦和公園内に、埼玉県立近代美術館(MOMAS)はある。噴水の向こうに背の高い落葉樹のトウカエデが並び、美術館が見えた(図1)。美術館では、収蔵作品を核とする「MOMASコレクション第4期」展(1/21〜4/16)が開催されており、展覧会場の正面に《野尻湖と妙高》が展示されていた。
1986年東京に生まれた鴫原氏は、東京大学で美術史を専攻し、卒業後は大学院に進学して文化資源学を学んだ。修士論文は「明治後期における水彩画の流行とアマチュア美術愛好家の様相」を書き上げた。大学院を修了後に就職した愛媛県美術館では、「洲之内徹と現代画廊展」で行なった松山における洲之内徹の調査など、地域に根差した美術の様相を探究する学芸員でもある。2015年より埼玉県立近代美術館の学芸員となった。
鴫原氏は、子どもの頃よく両親と一緒に美術館や博物館へ展覧会を見に行っていたそうだ。絵を描くこととともに、絵や建築を見たり、歴史を調べることが好きだったという。大学に入り「近代化など、時代の転換期において表現がどのように変わっていくのかということや、そのような視覚文化がどのように支えられ、受容されたのか」ということに関心を持つようになり、日本の近代美術を研究しようと思い、美術館でインターンをしているうちに職業としての美術館学芸員が選択肢に出てきたそうだ。
高田誠の作品は、はじめに勤めていた愛媛県美術館に一点収蔵されていたが、意識して見たのは埼玉に来てからだという。《野尻湖と妙高》の第一印象を「点描が主張しすぎず、色の使い方や画面の構成なども緻密に考えられている感じがした」と鴫原氏は言う。洋画家である高田は、埼玉県美術家協会第2代会長も務め県展の運営に携わるなど、県の美術振興の指導者的役割も担い、埼玉県のなかでも重要な作家のひとりだという。
浦和画家
高田誠は、小学校5、6年生のときに初めて油絵を描いたという。1913(大正2)年、埼玉県浦和市に医師である父・源八と母・シゲの次男として生まれた。旧制浦和中学校に入学し、美術教師の福宿(ふくすき)光雄(1901-1970)の指導を受け、跡見泰(ゆたか、1884-1953)、相馬其一(1885-1966)にも師事した。1929年16歳の時、夏休みに一生懸命《浦和風景》を描き、周囲に内緒で二科展に出品し初入選した。新聞に大きく取り上げられ面食らった、と高田は述懐している。
1930(昭和5)年、安井曾太郎に師事し、中学校卒業後は、安井が指導する二科技塾(後の番衆技塾)にて研究。1937年、安井らが創設した一水会に参加した。1940年第4回一水会展に《野尻湖と妙高》《秋の妙高山》《秋の静物》を出品。1942年第5回文展に《松原湖辺》を出品し、特選となる。師安井の画風から離れ、独自の点描による画風が生まれてきていた。戦況は悪化していたが、徴兵検査で丙種判定の高田は兵隊には行かなかった。戦後(1945)になると、高田は小松崎邦雄(1931-1992)や川村親光(1927-)、小川游(1932-)らに師事された。
1955年には埼玉大学教育学部美術科講師、この頃より日動画廊で個展を開催する。1961年埼玉県美術家協会会長を務める。当時、埼玉県美術展覧会(県展)の洋画部門の入選率は30%台でアマチュア画家の晴れの舞台となっていた。須田剋太(1906-1990)や瑛九をはじめ「鎌倉文士に浦和画家」と呼ばれるほど浦和には、多くの画家が住んでいた。1923(大正12)年の関東大震災での災害は少なく、穏やかな気候や、荒川が流れ、国木田独歩の短編集『武蔵野』をイメージさせるその武蔵野の風土、また美術館や芸大のある上野への利便性もあって、浦和は画家たちを引きつけた。
1965年、高田は埼玉文化賞を受賞。新築された埼玉会館の緞帳「武甲山」の原画を制作した。1968年の第11回日展に《雑木林のある雪景》を出品し、文部大臣賞を受賞。また第30回一水会展に出品した《花咲く海辺》を文化庁が買い上げ、埼玉県教育功労者の表彰を受けた。1969年第1回日展に《黒姫山》を出品。1972年第3回日展出品作《残雪暮色》に対し、日本芸術院賞が贈られた。1975年浦和市役所のモザイク壁画の原画「夜叉神峠より見たる白峰三山」を制作する。1978年日本芸術院会員に選ばれ、1980年玉川大学客員教授となる。1983年日展理事長、紺綬褒章を受章。1984年には勲三等瑞宝章を受章した。1985年第1回浦和市文化栄誉賞、1987年文化功労者となり、個人で初の埼玉県民栄誉賞を受章、1990年浦和市名誉市民の称号を受けた。浦和市で1992年死去、享年79歳だった。作品は晩年になるほど明るくピンクが多用され華やかさが増していった。山岳風景や花咲く海辺の光景、献花など、小品と大作をコンスタントに制作し、温厚で誠実な人柄は高田絵画そのものであった。
【野尻湖と妙高の見方】
(1)タイトル
野尻湖と妙高(のじりことみょうこう)。英題:Lake Nojiri and Mt.Myoko
(2)モチーフ
野尻湖、妙高山、落葉松(からまつ)、空、民家。
(3)制作年
1940(昭和15)年。高田誠33歳。日独伊が3国同盟を締結した年。前年に第二次世界大戦が始まった。
(4)画材
キャンバス・油彩。
(5)サイズ
縦112.0×横145.8cm。F80号。
(6)構図
並列した落葉松を近景に、湖を見下ろす中景、山頂を望む遠景へと、奥行き感のある緻密な構成。俯瞰的な広角視野により、山と湖を正面からとらえた。山々の形と湖の形が相似形に見え、また湖に映っている山が、近景と遠景をつなぐ役割も担い、画面に面白みを与えている。
(7)色彩
白、黒、茶、灰、緑、青、黄など多色。彩度を抑えた色調とマットな落ち着いた質感で全体を調和させている。
(8)技法
緻密なタッチの点描。点のリズムとハーモニーに主体が置かれている。科学的な発色の効果を図ったスーラ(1859-1891)やシニャック(1863-1935)の新印象主義の点描法を模倣したものではない。「自然に点描になった」と高田。現場にキャンバスを持ち運び、極力見えているものを忠実に描いていたが、長い日数をかけるため雪が溶けてしまったという。スケッチブックにスケッチをした後、キャンバスに取り掛かるのが高田のスタイルであった。この絵のスケッチは現在まだ見つかっていない。
(9)サイン
画面左下に「昭和十五年 高田誠」の署名。
(10)鑑賞のポイント
野尻湖と妙高の景色を描いた絵であるが、穏やかな高原風景を通じて普遍的な自然を表現したようにも見える。画面の前景には、落葉した高木の落葉松が垂直にリズミカルに描かれ、その木立を透かして中景に、湖と小さな村が見える。そして村のうしろに林が続き、遠景に荘厳な雪山が連り、背景には無限の大空が広がっている。「野尻湖の外人部落
揺るぎない画面構成
鴫原氏は「高田は実際に野尻湖へ行き、写生してその場で油絵を描いている。自分が見て感じたものをてらいなく素直に表現している。背景に山があって、真中に水の景色をはさんで、前景に立ち並ぶ垂直の樹木を描く画面構成は、しばしば高田の絵に出てくる。この絵はその早い段階の作品で1940年、高田が27歳のときに制作された。16歳で二科展に入選した後は安井曾太郎に入門し、安井風の日本的で重厚な油絵を描いていた。徐々に安井先生の影響を脱したいと考えてさまざまな試みをするなかで、1938年頃から少しずつ点描を取り入れていった。“試しに点で描いて見たら感じが出るのでやってみた。意識的に点描を描き出すのは昭和15年頃から”と高田は記している。《野尻湖と妙高》では、点描で色彩のリズムをつくることがうまくいき始めたと感じていたと思う。色彩を鮮やかに、カラフルに使っているわけではなく、抑えた色調で繊細に表現しており、それが丁寧な筆致ともよく合い、緻密に考えられた揺るぎない画面構成になっている。新印象主義の画家たちによる点描は理知的な表現だが、高田のそれは感覚的な部分もありそれによって情緒をつくっている。点描表現は明治期の終わりから大正期にかけて、フランスに留学した埼玉県出身の斎藤豊作(とよさく、1880-1951)らによって紹介された。1920年代に岡鹿之助(1898-1978)などがやはり点描の風景画を制作している。この作品はこうした日本の近代洋画の流れのなかで見ることもできる。また、この作品では広角的な視野で真正面から風景がとらえられている。これも俯瞰的な視点など試行錯誤の末に高田がたどりついた構図である。高田の画業のなかでも重要な作品だと言える」と語った。
寡黙の師、安井曾太郎は「印象派の点描とは違うが面白い」と高田に言ったそうだ。高田の点描は、自然発生的に生まれてきたところが文人画の点苔(てんたい)技法と似ていると言われるが、部分的に用いる点苔とは使い方が異なる。「自然の繊細な色調とそのリズムを抒情的に表現することに関心があったのではないか」と鴫原氏は言う。
平凡の偉大さ
高田の師である安井曾太郎は、《サント・ヴィクトワール山》を描いた印象派の巨匠セザンヌ(1839-1906)に強い影響を受けたという。西洋において風景画がジャンルとして独立したのは17世紀オランダで、ヤーコプ・ファン・ロイスダール(1628/29頃-1682)やメインデルト・ホッベマ(1638-1709)らの作品に見られる。一方、東洋では、世界最高の文明国だった中国の唐の時代(618-907)に水墨画が生まれ、風景画と同義で用いられる山水画が独立した主題として誕生した。8世紀宮廷画家であった呉道玄(ごどうげん、680頃-750頃)が、雄渾な筆法によって唐代の画法に変革をもたらし、山水画の基礎を築いたと言われている。
高田誠の風景画について、美術評論家で東京都現代美術館の名誉館長であった嘉門安雄(1913-2007)は「自然と対立することなく、自然そのものの中へ融合してゆく日本の風景画の一つの典型をみるのである。それは、逃避でもなければ、感傷や単なる詠嘆でもない。自己をみつめる知性の豊かさである」(嘉門安雄「高田誠の展開」『高田誠画集』p.187)と述べている。
また、美術史家の三宅正太郎(1907-1992)は「数年前に高田誠から、彼の前半生について聞き書きしたことがあり、そのいくつかのことを憶えている。その一つに、彼が『私の生涯は平凡であった』といい、“平凡”という言葉を何度かくり返したことがある。この時高田誠はすでに芸術院賞受賞、芸術院会員、日展事務局長(その後理事長)、ほかに日伯美術展を通じてブラジル政府から最高勲章を受け、埼玉県知事から文化功労者として表彰されている(現在埼玉県美術家協会会長)。俗世間的に、あるいは社会的にいえばエリート・コースの峠にさしかかった彼が、自身を平凡と語ったことが多少とも意外感として私の脳裏に残ったわけである」(三宅正太郎「高田誠の絵画世界」(三宅正太郎「高田誠の絵画世界」『高田誠展』図録)と述べている。
時局が困難な時代にあっても平凡と語る高田の姿と、自然の風景を生涯描き続けた高田の画業に、静かに真実を求める高田のしなやかで強い信念を感じる。常識や良識に通じる平凡さ。《野尻湖と妙高》の平和な景色を眺め、平凡の偉大さを実感した。2015年3月に野尻湖と妙高を含む地域が32番目の国立公園として「妙高戸隠連山国立公園」に指定された。
鴫原悠(しぎはら・はるか)
高田誠(たかだ・まこと)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献