アート・アーカイブ探求
絵金《浮世柄比翼稲妻 鈴ヶ森》邪気を払う妖美──「横田恵」
影山幸一
2017年08月01日号
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土佐の風土に息づく日本の絵画
蝋燭のともし火で絵を見る機会は多くないが、電気のなかった時代に描かれた名画は、炎の光輝で鑑賞すると当時の雰囲気が蘇り、魅力は増すに違いない。数年前に夏の高知で「絵金(えきん)祭り」が開催されていることを知り、いつか実物を見てみたいと思っていた。首に汗が流れてくる季節になると絵金の夏が来たと思う。絵金とは、幕末・明治の激動期に土佐(高知県)で活躍した町絵師で、芝居絵屏風を大成した弘瀬金蔵である。浮世絵の芝居絵や芝居の絵看板とは異なり、青森のねぶたに似た日本独特の民俗的な美である。
太平洋に面した高知県香南市赤岡町では、須留田(するだ)八幡宮の神祭(じんさい)に五穀豊穣と平和安泰を祈願するため、江戸時代末期より芝居や芝居絵を奉納し、宵宮(よいみや)にあたる7月14日・15日の夜には街灯を消して、氏子である商家の軒先に芝居絵屏風を広げ、厳かに蝋燭の灯りで屏風絵を照らしてきた。現在はこの神祭のほか、赤岡の夏の一大イベントとなった「絵金祭り」が7月第3土曜・日曜日にも賑やかに行なわれている。毎年7月の年一回、神祭には芝居絵屏風絵が18点、「絵金祭り」には23点が赤岡町の本町商店街に並ぶ。展示時間は一日2時間ほど。
氏子である町民は、美術品としてではなく、祭時の奉納品として絵画を身近にし、絵画とともに生活を送っているという。土佐の風土に息づく日本の絵画。夜の商店街に並ぶ芝居絵屏風とはどのようなものなのか。地元で長年絵金研究に尽力されている横田恵氏(以下、横田氏)に絵の見方を伺ってみたいと思った。絵金の代表作のひとつである《浮世柄比翼稲妻 鈴ヶ森(うきよづかひよくのいなずま すずがもり)》(団体蔵)を見に、高知県の赤岡町へ行ってきた。
血まみれの絵を受容した先祖たち
横田氏は、赤岡町にある絵金の作品を保管・展示する「絵金蔵(えきんぐら)」(図1)の蔵長(くらおさ)として、また学芸員として2005年より12年間、絵金作品の調査研究と「絵金蔵」の維持発展のために、地域の人たちとともに貢献してきた。2017年からは赤岡町を離れ、野市町の民間会社が経営する「創造広場アクトランド」の学芸員として「絵金派アートギャラリー」を拠点に、フィールドワークを拡大し、高知県内に残る絵金に関する作品や資料の調査、収集、整理、保管に努めている。
「もともと絵金は地元の人なので、絵金ってこんなにすごい絵を描いたのだろうというよりは、私たちの先祖はなんでこれを受け入れたのだろう、という視点から入っていった。どう考えても血まみれのグロテスクな特異な絵。町の人たちがこぞって絵金に注文していたので、それを受け入れる側がすごいなと思ったのが20歳、絵金研究の始まりだった。そして大学3回生の21歳のときに初めて絵金の実物を見ることができた。赤岡の「絵金祭り」の喧騒のなかで、この絵が祭りにどうして出るのか実際に見てもピンとこなかったが、絵金を研究テーマとすることに対しては結構スルッと受け入れてしまった」と横田氏はほほ笑んだ。
1978年高知県生まれの横田氏は、父が大工の棟梁で進学よりも職に就けという家庭に育ったといい、可愛がってくれた祖父は太夫(たゆう。神職)で、「般若心経」や「日本書記」などの話をしてくれた。歴史のあるものを身近にしていたためか、「源氏物語」や「とりかへばや物語」など、平安時代の作品が好きになり、高知県立高知女子大学(現高知県立大学)の文学部国文学科へ入学。卒業論文は絵金について書き、大学院へ進んで美術史を専攻した。
国宰画師から“絵金”へ
絵金は、1812(文化9)年、高知城下新市町(現高知市はりまや町)に髪結いの木下専蔵(せんぞう)の長男として生まれ、金蔵と命名された。絵を描くことだけが無性に好きな子で南画家の仁尾鱗江(におりんこう)に手習い、16歳頃には土佐藩御用絵師の池添楊斎(ようさい)の弟子となり、美高(よしたか)と名乗る。18歳のとき参勤交代の供として駕籠かきに加わり、江戸土佐藩御用絵師・前村洞和(?-1841)に学び、駿河台狩野にも入門した。金蔵の10年遅れの弟弟子に河鍋暁斎(1831-1889)がいる。江戸は葛飾北斎がブームで、金蔵は江戸の風俗画に親しんだと思われる。金蔵の光に対する感覚は、葛飾北斎の娘である葛飾応為の光と影をとらえる科学的な眼差しと共通するものがありそうだ。21歳で帰藩した後、土佐藩家老桐間(きりま)家の御用絵師となり、名字帯刀を許され藩医師の林家を買取り、林洞意と名乗った。師・楊斎の仲立ちで初菊と結婚し、房太郎と俊三郎、糸萩をもうけ、「林金蔵 号洞意 蓮池町 山内国宰画師(やまうちこくさいえし)」と名簿に記録された。金蔵の弟子には、坂本龍馬と盟約を結んでいた土佐を代表する知識人の河田小龍(1824-1898)や、土佐勤王党党首の武市半平太(1829-1865)らがいた。ところが33歳の頃、伝写をした狩野探幽の《蘆雁図》に、偽造された探幽の落款印章を押されて売りに出され、贋作を描いたと嫌疑をかけられ城下追放となる。「ただ贋作事件の資料がまったく残されていない」と横田氏は指摘する。
町絵師に下野し、町医者弘瀬の姓を買い、弘瀬柳栄と名乗り、号を友竹として金蔵は各地を放浪した。上方で芝居に触れたり、絵馬提灯や五月幟(のぼり)、押絵、凧絵、フラフ などを制作、露天業で食いつないだ。金蔵は弘瀬洞意、友竹斎、後に雀七、晩年には雀翁と、たびたび名を変えたが、世間では絵師金蔵を略し「絵金」と呼ばれた。
赤岡の旦那衆
絵金はやがておばの住む赤岡(高知県香南市)を拠点として、庶民が熱狂した芝居を題材に独自の芝居絵屏風を大成していく。赤岡の町人たちは競うように絵金に芝居絵を依頼し、神社へ奉納した。絵金の芝居絵屏風は、相撲の「力競べ」のように「絵競べ」という年占いにもなり、商売繁昌、子孫繁栄、悪霊払いであった。絵金の特徴である、血赤と呼ばれる赤色は、疫病や悪霊払いの色であり、芝居絵屏風を家の外側へ向けて見せるのは邪気を家に入れないという意味もある。
赤岡は当時、高知の城下から離れて武士の力も及ばず、一種の商人自治区だった。近世にできた商人の町であり、豪商が多く芸能が盛んで、買芝居というプロの巡回芝居で金比羅歌舞伎などを招いていたという。そういう旦那衆が絵金に絵を描かせていた。須留田八幡宮へ行くと、いまでも寄進された燈籠などが残っており、絵金にとっては氏子というよりパトロンであり、その氏子が力を入れる須留田八幡宮の夏祭りのために、絵金が芝居絵屏風を描き、芝居絵屏風の奉納が始まった。「芸術のためにお祭りがあるのではなく、お祭りがあって、そのなかに絵金の絵がある」と横田氏は考えている。
絵金は掛軸や絵馬、白描も描いていたが、独自に開発した極彩色や空間を大胆に演出する遠近法、時間を超越した構成力(異時同図法)、登場人物の躍動美とほとばしる情念など、斬新な画風を採り入れた芝居絵屏風は絶大な人気を博し、“絵金”は絵師の代名詞となった。
後年絵金は高知に戻り、1876(明治9)年弘瀬金蔵として65歳で死去。高知市薊野(あぞうの)の真宗寺山中の墓地に妻初菊と共に眠っている(図2)。土佐の濃厚な文化と言える絵金形式は、多くの弟子たちに受け継がれ、“絵金派”と称され、昭和6、7年くらいまで描き続けられた、と横田氏は言う。
【浮世柄比翼稲妻 鈴ヶ森の見方】
(1)タイトル
浮世柄比翼稲妻 鈴ヶ森(うきよづかひよくのいなずま すずがもり)。英題:Ukiyozuka Hiyoku no Inazuma, Suzugamori
(2)モチーフ
白井権八、幡随院長兵衛、雲助
、血、月、木、海、船、供養塔、小田原提灯。(3)制作年
江戸時代末期。1861(文久元)年から1868(慶応4)年頃の絵金50歳台と推測される。
(4)画材
紙本彩色。地紙は生漉(きず)きの土佐和紙、墨は「深みどり」という銘柄の大型の墨を愛用、絵具は墨、胡粉、水銀朱、辰砂(しんしゃ)、緑青、岩群青など、一般的な日本画の顔料。
(5)サイズ
縦169.0×横182.0cm。二曲一隻。上方芝居の看板絵と同じく、襖二枚合せの大きさ。
(6)構図
大胆なポーズの人物や事物は、正面性を意識した配置で安定感のある構図。長兵衛の顔を手前に、奥には月を配して遠近感を出している。
(7)色彩
赤、黒、緑、青、黄、茶、灰、白。血赤と呼ばれる赤色が意識的に配置され、赤と緑などコントラストの強い色彩を組み合わせている。
(8)技法
屏風を床に寝かせて置き、全体的な構図の要点を木炭で印し、墨をたっぷり含ませた筆で一気に骨描(こつが)き
をする。特に顔の表情に力を注いでおり、右側の長兵衛には鉛を熱してつくった赤色粉末の光明丹(こうみょうたん)を薄めたかき色に胡粉をまぜ、権八の肌にはえんじに胡粉をまぜた肉色で、薄く顔全体を塗りつぶす。その下塗り後、他の塗りにかかり、最後に顔の仕上げに入る。茶の濃淡で顔に陰影の隈をつけて、一度塗りつぶした骨描きの上を墨線で描き上げ、白まなこをぼかしてまつげの影をつけ、瞳を点じて終わる。毛髪の仕上げには、墨に胡粉をまぜて線描きをしている。(典拠:『異端画家 絵金の芸術』)狩野派や浮世絵の技法を吸収し、肥痩(ひそう)が少なくストロークの長い衣紋線には、円山四条派の影響も見られる。(9)落款
画面中央上部の題目供養塔の石碑に「友竹」の署名が幽かに見える。印章はない。絵金作品のなかでも最もわかりにくい隠し落款と言われている。
(10)鑑賞のポイント
歌舞伎《浮世柄比翼稲妻 鈴ヶ森》の名場面を屏風絵に採り入れた。1823(文政6)年の初演時、七代目市川団十郎(幡随院長兵衛役)と五代目岩井半四郎(白井権八役)の衆道(男色の道)が演技に反映し評判となった。大きな目が特徴だった団十郎の目を活かした長兵衛の顔を真正面に(図3)、また女形半四郎の「眼千両」と称賛された色気を湛えた権八の目(図4)を印象的に描いている。刑死者をとむらう題目供養塔(図5)が立つ鈴ヶ森刑場での妖しい色香を漂わす出会い。男盛りの貫録を装う伊達な長兵衛が差し出した小田原提燈の左側には半四郎の屋号「大和屋」が書かれ、右側には「品川宿」とある。黒小袖着ながしの権八が、踵を接して「八」の字に開いた足のポーズは歌舞伎特有で、江戸の浮世絵師、歌川豊国(1769-1825)以後の歌川派の役者絵に出てくる形である。夜祭りに蝋燭の灯りで見る血赤に驚きはするが、土に転がる雲助たちの首はどこか滑稽。画面にスピード感を与える墨線や、死体にまき散らした血しぶきと着物の赤色が共鳴し、供養塔に伸びた雲助の白い手が上空の三日月へと誘い、おどろおどろしい幽玄の世界へ導く(図6)。屏風絵の代金は二両、当時の一年分の米代に相当。蝋燭の灯りのもとで絵金は一日でこの絵を仕上げたと言われる。2009年に高知県保護有形文化財に指定。
陰惨さと美しさの対比
歌舞伎は、舞台全体を一枚の絵になるように構図や色彩配合、姿態を静止する「絵面の見得(えめんのみえ)」という方法が求められ、絵に化することが志向されているという。横田氏は《浮世柄比翼稲妻 鈴ヶ森》は、現実の歌舞伎舞台で行なわれている鈴ヶ森のシーンを写実的に描いたものではなく、鈴ヶ森の場面を凝縮し創造的に表現した作品と語り、ひとつの画面に対比したものが重層的に表現されているところが見どころ、と述べた。
「主人公二人の対比。若いきれいな男性と、男盛りの壮年男性の対比。黒と原色の対比。きれいな男性を引き立たせる雲助たちの醜い生首。画面を左右に分け、また事物の大小を意識的に描いており、陰惨さのなかに美しさが引き出されているのが面白い。この絵のテーマは対比だと思っている。しかもそれがひとつの歌舞伎のストーリーになっている。また幡随院長兵衛が持つ小田原提灯と、現実の「絵金祭り」で蝋燭の灯りが丁度重なるように見え、絵の世界と現実が交わる。絵金の絵を血みどろというが、当時の文化として幽霊や妖怪がはやり、死絵も縛り絵も珍しい絵ではなかった。髪の毛や目の白目に胡粉で筋描きをしているため、蝋燭の炎の揺れによって、チラチラと動く。これは写真でも、電気の光でも、レプリカでもわからない。おそらくここで三味線を弾きながら義太夫が語っていたかもしれない」と横田氏は語る。対比的な絵の中の緊張感に、鑑賞者を引き込む仕掛けがある。
絵金文化のエネルギー
「絵金の芸術は、中央と地方、近代と前近代、純粋芸術と大衆芸術といった区分を突き崩し、美術館や芸術のあり方への再考を促してやまない」(宮下規久朗『図書』p.14)と美術史家の宮下規久朗は述べており、絵金を考えることが現代社会そのものにリンクした問題だと気づかせてくれる。
南国土佐の夏の陽射しは強烈に強く、午後7時を過ぎる頃からようやく薄暮になり少し涼しくなった。夜のとばりが下りる頃、わずかに潮風が吹き神祭が始まる。須留田八幡宮(図7)の境内には芝居絵屏風のレプリカが5点飾られ(図8)、赤岡町本町商店街では絵金蔵から戻ってきた本物の芝居絵屏風を絵の所有者が家の前に広げ、蝋燭に火を灯していく(図9)。神祭にも「絵金祭り」にも商店街には芝居絵屏風が展示されるが、両祭事の雰囲気はまったく異なる。神祭は、街灯が消され、観光客は少なく提灯と蝋燭の灯りだけが芝居絵屏風を照らす静かな神事である。一方「絵金祭り」は、街灯も屋台の電球も明るく、来場者が2万人訪れるともいわれる華やかなお祭りだ。
祭りの暗闇から会話が生まれる体験は、美術鑑賞に留まらず、コミュニケーションを促がし、芝居、小説、映画など、さまざまな表現活動を創造させている。既成概念を打ち砕くエネルギーに満ちた土佐の絵金文化。赤岡町のほかに屏風を飾る夏祭りは約10カ所で開催され、絵金の芝居絵屏風は高知県外にはなく、県内におよそ200点存在していると言われている。
横田恵(よこた・めぐみ)
絵金(えきん)
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参考文献