アート・アーカイブ探求
猪熊弦一郎《自由》──平和への扉「古野華奈子」
影山幸一
2017年09月15日号
壁画が見ていた
鉄道ファンにとって国鉄上野駅は聖地であった。1970年代、中学生のときだった。東北や北陸へ向けて次々と発車と到着を繰り返す「はつかり」や「とき」など、特急電車の発着時刻と番線を時刻表で調べては、ホームからホームへと一日中足早に移動していた。旅した気分で、先頭車両の雄姿を、緊張しながら父親から借りたカメラのシャッターを押していたのだ。デジタルではない時代のモノクロ写真は、一枚30円くらいだった。
東海道新幹線が開通した東京駅とは異なり、上野駅は薄暗く汚れた構内であったが、荷物運搬車が人混みをかき分けて市場のような活気があった。中央改札口では、硬券切符を切るカチャカチャカチャという軽快な改札はさみの金属音がリズミカルに鳴り響き、列車名ごとに行き先と時刻が書かれた縦85×横30cmほどの木札が、改札上部の空中に張られたワイヤーに吊るされて横一列に並んでいた。改札口上の暗闇には、何やら多様な人々が描かれた大きな壁画があったことを憶えている。しっかりと見上げることもなく何度もその下を通り過ぎてきた。壁画が、せわしなく行き交う人々を見てきたのだ。
駅の改装により構内が明るくなると、壁画の存在感が増して、絵に見られていたことに改めて気づかされた。日本国内で半世紀以上もの間、公共の場で公開されてきた絵画作品がほかにあるだろうか。敗戦から立ち上がってきた庶民の姿を見守ってきたパブリックアート、猪熊弦一郎の代表作《自由》(東日本旅客鉄道株式会社蔵)である。
終戦6年後の物資が不足している時代に、美術館のように作品が保全される環境ではない駅の改札口に掲げられ、21世紀のいまも存在する大壁画《自由》。その見方を丸亀市猪熊弦一郎現代美術館学芸員の古野華奈子氏(以下、古野氏)に伺うため、香川県JR丸亀駅前にある美術館へ向かった。
絵本『いのくまさん』
丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(以下、MIMOCA〔ミモカ〕:Marugame Genichiro-Inokuma Museum of Contemporary Art)は、公益財団法人ミモカ美術振興財団が指定管理者として運営を行なっており、財団職員の古野氏は財団では事務局次長を務める。1970年福岡県に生まれ香川県丸亀市に育った古野氏は、道端などに生えている植物や虫をじーっと見ている女の子だった。中学、高校でも遺伝子や細胞に関心があり、自分を知るうえで生物の授業は面白かったそうだ。そして生物学科のある神戸大学へ進学。研究の主流は遺伝子などのミクロ生物学ではなく、マクロ生物学のエコロジーだったが、視野が広がり楽しかったという。卒業後は東京の企業へ就職し、秘書をしていた。しかし阪神・淡路大震災をきっかけに丸亀市へ戻った。丸亀市役所のアルバイトを始め、美術館の仕事の誘いを受けて1997年よりMIMOCAの庶務をし、2004年に学芸員となる。子どもたちへもっと猪熊芸術を広めたいと思案した結果、絵本に辿り着き『いのくまさん』(文:谷川俊太郎、小学館刊)を企画し出版した。
猪熊の後輩でもある古野氏が、香川県立丸亀高等学校に在学していたとき、新しい図書館ができ、そこに猪熊の壁画《風車と太陽》が入った。古野氏は初めて猪熊を知り、同時に抽象画という表現を認識した。「美術のことはMIMOCAに入ってからの叩き上げです」と言う。《自由》は、「戦後すぐに制作された作品であり、質のよくない画材で描かれているが、上野駅の構内にいまも現実に存在しているということに、また実物の大きさにも驚く」と語った。
「お前の絵はうますぎる」
猪熊弦一郎は、1902(明治35)年香川県高松市に生まれ、本名は玄一郎である。1921年旧制丸亀中学校(現 香川県立丸亀高等学校)を卒業後上京し、岡田三郎助(1869-1939)が主宰する本郷洋画研究所へ通い、翌1922年東京美術学校(現 東京藝術大学)西洋画科に入学。同期生に牛島憲之(1900-97)、荻須高徳(1901-86)、岡田謙三(1902-82)、山口長男(1902-1983)、小磯良平(1903-88)らがいた。しかし、病気のため休学を余儀なくされて帰郷する。1924年に1年下の2年生に留年し、その翌春に生涯の師となる藤島武二(1867-1943)教室に入ることができた。
1926年5月片岡文子と結婚、10月に第7回帝展で《婦人像》が初入選したが、1927年美校を中退することになる。その後、帝展や光風会展を活動の場とし、光風賞や帝展では《座像》で特選受賞となったが、1936年帝展の改組をきっかけに官展に関与せず政治的工作を否定する新制作派協会(現 新制作協会)を小磯らと結成した。
1938年に靖国丸で渡欧した猪熊は、フランス、イタリア、スイスなどに遊学し、ニースのアンリ・マティス(1869-1954)を訪ねると「お前の絵はうますぎる」と言われた。「思ったことを素直な、虚飾のない姿でカンバスにぶっつけることこそ一番大切だ」と猪熊は解釈し、人生で最も大きな教訓を得たと回想している。パリでは藤田嗣治(1886-1968)と親交を深め、1940年欧州大戦を避けて白山丸で帰国の途につくことになる。
1941年猪熊は、中国文化視察のため佐藤敬(1906-1978)と南京方面へ派遣、12月の太平洋戦争開戦により1942年には陸軍省派遣画家に選ばれ、フィリピン戦線に向かう。この年の9月第7回新制作派協会展に《B17の残骸》《飛行機の残骸》《戦ひの後(コレヒドール)》《マニラ港》を出品。また1943年にも新戦場従軍画家26名に選ばれ、ビルマ(現 ミャンマー)に派遣された。第8回新制作派協会展には《籠を頭にのせた女》《椅子によれる女1》《椅子によれる女2》《南の子供》を出品している。1944年陸軍美術展(東京都美術館)に《○○方面鉄道建設》を出品後、猪熊は腎臓を患い手術を受け、神奈川県津久井郡吉野町に疎開することになる。戦後72年のいま、戦争と美術、戦争と画家について検証が始まってきている。
ニューヨーク20年
戦後間もなく猪熊は、新制作派協会に建築部をつくり、後進作家の育成を始めた。東京大田区に田園調布純粋美術研究室を開設し、ヌードデッサンや作品の講評を行なう画談会をはじめ、再び絵を描けることの喜びや希望を体現していたようだ。そして日本洋画壇を展望することができる第1回美術団体連合展(毎日新聞社主催、1947)に参加する。1950 年には多くの人々が日常目にする三越百貨店の包装紙をデザイン。猪熊は、戦後の世の中に「何か強いものを」と千葉県の犬吠崎で遊んだ時に拾った石をモチーフに、人々が荒波に耐える石のように強くなってほしいと願いを込め、赤と白のシンプルなデザインとした。後日「華ひらく」と名付けられた。
1949年には建築家・谷口吉郎(1904-1979)が設計した慶應義塾大学学生ホールの壁画《デモクラシー》、1950年名古屋丸栄ホテルの壁画《愛の誕生》を制作し、そして翌年上野駅に大壁画《自由》が完成した。猪熊は洋画家の脇田和(1908-2005)、月光荘画材店創業者の橋本兵蔵、作曲家の服部良一、ミキモト社長の御木本美隆、広告代理店の宣弘社社長・小林利雄らと資金を出し合い、1955年軽井沢に長屋形式の別荘「画架の森」を谷口吉郎の設計で建てた。同年猪熊は勉強するためパリへ向かうが、途中立ち寄ったニューヨークのエネルギーに魅せられ、そのままニューヨークに留まり、20年間暮らし創作活動の拠点とした。
1958年香川県庁舎に陶画《和敬清寂》、ニューヨーク高島屋に壁画を制作。1964年朝日生命新宿本社ビルにガラスモザイク壁画《愉快な散歩》。1966年帝国劇場のロビーにはステンドグラス《律動》。1969年にはホテルフジタ京都のラウンジに壁画《都市流動》。1971年東京会館のロビーに壁画《都市・窓》を制作した。
猪熊は「絵画は独占するものでなくより多くの人々を喜ばせ、みちびくもの、多くの人々のためになるべきものだ」と壁画を多数手がけてきた。「最も優れた芸術は建築である」と晩年語っていた猪熊は、芸術を総合するものとして建築が、困難でなおかつ面白いと認識していた画家であり、建築家と協同してきた壁画家でもある。建築物の中に芸術作品をあとづけで設置するのではなく、設計の段階から建築家とともに建築空間にあった絵画表現を実践した。猪熊はサイト・スペシフィックな考え方を、敗戦で人心も暮らしもすべてが荒廃した当時から抱いていた。1973年猪熊は脳血栓により倒れ、1975年制作拠点であったニューヨークを離れてハワイで静養、1976年より東京を拠点とした。
絵には勇気がいる
1979年東京国立近代美術館の評議員となった。猪熊は誰に対しても平等で否定的なことを言わない人だった。同年箱根にある彫刻の森美術館にモザイク壁画《音の世界》を制作。1987年には母校の丸亀高校の図書館に壁画《風車と太陽》を制作した。1988年に妻文子が死去し、人間の表情を曼陀羅風の構成で描く「顔シリーズ」をスタートさせた。同年、香川県県民ホールに壁画《21世紀に贈るメッセージ》と、緞帳《太陽と月の住むところ》を制作、地下鉄半蔵門線三越前駅のホームにも壁画《創造の街》36面を制作した。
1991年日本IBM本社ビルに壁画《極点》を制作。MIMOCAゲートプラザに壁画《創造の広場》を制作し、谷口吉生(1937-)設計によるMIMOCAが落成。幼少期から晩年まで約2万点の猪熊作品が収蔵されている。猪熊はMIMOCAの開館記念スピーチで「世の中に美がわかる人を増やしたい。そうすることで世の中が平和になると思う。美がわかる人は人の気持ちがわかる。人の気持ちがわかる人が増えれば、戦争がなくなる」と語ったと古野氏が教えてくれた。
1993年には川崎市第三庁舎市民ホールの壁画《ロボット誕生》を制作。絵画のほか、グラフィック・デザイン、挿絵、家具にも取り組み、個展、グループ展、国際展と多数参加し、絵画をキャンバスから解放してきた猪熊弦一郎。モダニズム志向の具象から幾何学的構成による抽象、そして再び「顔シリーズ」で具象的要素が現われた猪熊芸術。明快な色彩でありながら簡潔な構成のうちに、人間味豊かな作風を展開した。その根底には一貫して「絵として美しいこと」を描き出すための追求があった。自宅に藤島武二の写真を飾り、猪熊は「絵には勇気がいる」と言葉を残し、1993年5月17日、東京にて死去。享年90歳。クリスチャンだった猪熊は墓石のデザインを済ませ、埼玉県の所沢聖地霊園に妻文子と眠っている(図1)。
【自由の見方】
(1)タイトル
自由(じゆう)。英題:Freedom
(2)モチーフ
スキー(図2)、人物20人、馬4頭(図3)、牛1頭、犬2匹、りんご、魚、森、温泉、木材、のこぎり、鳥、ライフル(図4)。
(3)制作年
1951(昭和26)年12月。猪熊49歳。完成記念に記念切符を添えた、壁画のジグソーパズルが作成された。日本光学工業株式会社(現 ニコン)の津田山工場
跡地にて制作。丸太で二層の足場を組み、4名の弟子とともに1カ月ほどで制作した。トラックでの搬送のときには死傷者がでるほどの事故があったという。修復は二度行なわれ、1984(昭和59)年6月(図5)と2002(平成14)年12月である。
(4)画材
合板(厚さ15mm)、油絵具、エナメル。進駐軍を通してアメリカ製のペンキを入手し、油絵具は、広い面積を平滑に塗れるように東京銀座の月光荘画材店が猪熊の依頼を受けて製造。
(5)サイズ
天地485.9×左右2665.0cm。駅舎に合わせた横長の五角形。
(6)構図
無背景に正面性の強いモチーフをバランスよく配置し、奥行き感のない平面的な構成。
(7)色彩
明るいパステル調の白、黒、灰、茶、青紫、深緑、橙色、桃色、水色。
(8)技法
一枚四畳半くらいの合板を14枚つなぎ、下塗りにラッカーを3、4度塗り重ね、その上に20分の1で描いた下絵を基に拡大し、白チョークで輪郭を写し取る。内部を白で塗りつぶし、背景の青を塗布した後、細部の色を入れていく。絵筆で描いたタッチを消し、立体的な深みを出さないように色の調子だけでフラットに仕上げている。背景の水色にはペンキを使用し、人物や動物のモチーフ部分は油絵具。仕上げに薄くワニス
を塗布している。(9)サイン
画面右下ののこぎりの刃に「guén 1951」(図6)。
(10)鑑賞のポイント
上野駅を明るくして、心を慰めるような壁画にしたい、という終戦当時に猪熊と親交のあった広告代理店宣弘社の社長小林利雄のアイデアが、3年の月日を経て実現した作品。服部時計店や資生堂などをスポンサーに、壁画の制作を猪熊に依頼した。「戦後の物のない殺伐たる時代。もっと自由な気持ちで物の本質を見よう、と“人間の自由”を訴えたかった」(『アサヒグラフ』No.3209、p.7)と猪熊は述べている。東北・北陸の産物や風習、風景に因んだモチーフが郷愁を誘い、三角形屋根のもと男と女、大人も子どもも、馬も牛も犬も集い、大きな家に暮らす家族にも見える。簡略化された人体だが、デフォルメされた手足が人間の存在を強調し、中央上部の逆さまの馬は常識を覆し、天地を超えた希望を喚起させる。淡い寒色系の画面に柔らかな暖色を分散させ、ひとり傘をさしている子ども(図7)が絵に詩情とロマンを与えるモダンで優しい壁画。気品漂う猪熊の代表作。
時代を表現する責任
上野駅は、当時浮浪者や孤児たちが一杯で暗くて怖い場所だった。そこに猪熊は明るくモダンな絵を描いた。「東北の玄関口であるということをこの壁画は表わそうとしている。パッと目に入るのは、スキー板で、冬でも夏でもあるのが面白い。それから猪熊の大きい絵には馬が出てくるが、馬は美しく親しみをもてるモチーフ。ヌードがあるのも当時としてはセンセーショナル。具象画を描いているが、写実的な絵ではなく、構成を熟慮したうえの色と形である。一般の人でも親しめるように美しいものとして、東北という意味合いで一生懸命考えたと思う。生命や生活にも密着した、優しく明るい猪熊らしい作品である。戦後の傷ついた人の心を慰めるようなモチーフで、全体を眺めてもいいし、各モチーフに思いを寄せて見てもいい。芸術というのは、一部の限られた人のためにあるのではなく、生活のなかにあってこそ皆がそれを共有して、世の中を美しくしたいという考えがあった。それは戦争によるものだと思う。しかし猪熊は戦争のことを語らなかった」と古野氏。
猪熊は亡くなる3日前に「芸術家というのはうまいとか下手とかいう問題ではなく、自分自身を出すこととその時代が表現に入っているか。その時代を表現する責任がある」と話していたという。
猪熊の戦争をテーマにした初めての展覧会「猪熊弦一郎展 戦時下の画業」(2017.9.16〜11.30)がMIMOCAで開催されている。現存する一点の作戦記録画、ビルマの泰緬(たいめん)鉄道建設現場を描いた《○○方面鉄道建設》(東京国立近代美術館蔵)を戦後初公開。約90点の絵画のほか、写真、日記、書籍、書簡等の資料を展示している。戦争に抗えず、飲み込まれていった画家であるが、絵の力を純粋に信じ貫いた猪熊の「平和」への祈りが、壁画《自由》となった。テロや大陸間弾道ミサイルと戦争の火種がくすぶり始めた現在、かけがえのない《自由》が上野駅に残されてきたことの意義は大きい。
古野華奈子(ふるの・かなこ)
猪熊弦一郎(いのくま・げんいちろう)
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【画像製作レポート】
参考文献