アート・アーカイブ探求
照屋勇賢《結い, You-I》──多次元の美の問いかけ「翁長直樹」
影山幸一
2018年03月15日号
見るということ
東京・上野の森美術館で毎年3月に開催される現代美術を展望する「VOCA(ヴォーカ)展──新しい平面作家たち」を毎回見て来た。今年も「VOCA展2018」(3.15〜3.30)が開かれている。絵画を見続け、審美眼を鍛えてきた全国の美術館学芸員、ジャーナリスト、研究者などに選ばれた各地の若手画家たちが描いた新しい絵画との出会いが楽しみだ。
作品は自由に見なさいとよくいわれるが、どこか取りつく島はあったほうがいい。好きな作家の作品でもあるいは好きな絵画の様式や技法でもいいのだ。自分なりの見る基準をつくると断然見やすくなり、意志を持てば経験が重ねられる。しかし大切なことは、基準外とした作品も見落とさず見ることだ。「VOCA展2002」でその“見る”ことの奥深さを経験した。
見たことのない新鮮な絵画を求めて、「VOCA展2002」の会場内を回っていたとき、突然着物が出てきて戸惑った。パラシュートが描かれたポップなデザインの着物。兵器を紅型(びんがた)で染め、個々の絵柄も着物も既視感がある。異質なものを同化させた組み合わせの妙か、と作品の前を通り過ぎた。それから16年、紅型模様の繊細で美しい表現が記憶から立ち上がってきた。普通の生活のなかに米軍基地がある、沖縄の置かれている複雑な環境が、優美な伝統工芸と重なり思い出されてきた。時間を経て感覚が醸成されていた。
照屋勇賢の《結い, You-I》(2002、第一生命保険株式会社蔵)である。伝統的装飾表現のなかに、現代の米軍兵器を潜ませた。美しい着物を裏切るアイロニーだけではないだろう。《結い, You-I》をVOCA展に推薦した美術評論家の翁長直樹氏(以下、翁長氏)に、作品の見方を伺ってみたいと思った。
翁長氏は、戦後の沖縄美術史に詳しく、沖縄県立博物館・美術館では副館長を務め、2007年の美術館開館記念展の「沖縄文化の軌跡:1872-2007」では企画を担当された。早朝、沖縄へ向かった。
少し引く、ポップ的センス
2月というのに沖縄はバスにクーラーが入っていた。着ていたコートが重い荷物になった。ホテルの喫茶店で待ち合わせた翁長氏は病後で体調が万全ではない様子だったが、それでも快くインタビューに応じていただいた。
翁長氏は、1951年に基地の町、沖縄県うるま市に4人兄弟の次男として生まれた。小学生の頃から絵を描くのが好きで、よく父や兄と一緒に「沖展」(沖縄タイムス社主催の県内最大規模の総合美術展)へ行っていたという。大学は、大阪教育大学の英文科に入学したものの教育英語中心であることに疑問を感じ中退し、琉球大学の教育学部美術工芸科へ入り直した。マチスが好きだった翁長氏は油彩画を専攻、映画研究会を立ち上げて映画を撮って過ごした。卒業後は東京へ行き、複数の大学で聴講しながら美術史の勉強をした。
1986年に新設された沖縄県立開邦高校に1987年に就職、美術の教員となる。開邦高校の4期生で翁長氏の教え子が照屋勇賢という。「努力家でよく考える子でした。筆を1回動かすのに30分かかるとか。高校時代からプロになることを決めていたようです」。教え子にはほかに、元NPO法人前島アートセンター理事長で、現在は那覇市若狭公民館の館長を務めている宮城潤(1972-)や、現代美術家・映像作家の山城知佳子(1976-)もいる。
開邦高校の教員時代に翁長氏は、1年間ほどアメリカの大学へ行き、ミュージアム・スタディーズを学んだ。そして1995年沖縄県立開邦高校を退職し、沖縄県立美術館設立準備室に勤務。2001年アメリカで経験してきたことを活かして「前島アートセンター」の設立に携わった。現代美術の社会的な可能性を日本で具現化した早期のプロジェクトである。2007年沖縄県立博物館・美術館の学芸員となり開館記念展を企画し、2009年同館副館長に就任、2011年に退職した。現在、美術評論活動のほか、OKINAWA ARTIST INTERVIEW PROJECT顧問・監修として沖縄にゆかりのある美術家の映像記録アーカイブを続けている。
《結い, You-I》を初めて見たとき「ショックでした。反戦や基地反対など、直接的な表現はいままであったが、それだけではいけないだろう、と少し引くところ、ポップ的なセンスが必要と思っていたら、こういう作家が出てきた。これはいけると思った」と翁長氏は語った。
いまの本当の沖縄
1973年、照屋勇賢は沖縄県南風原町(はえばるちょう)に生まれた。7つ下の妹がいる。「絵がうまくたって食ってはいけない。美術はいったい何の役に立つんだ」と、手に職をつけることを照屋に進めたのは電気工の父だった。一方、母は自然保護運動をしており、絵で賞を取って来ると「もっとやれ、もっと才能を伸ばせ」と手放しで喜んだ。この2人の間で、鉛筆と紙さえあれば充分という絵が好きな子として育った。中学3年のときに両親は離婚し、照屋は双方の家を行き来し、沖縄で開かれる展覧会には父と再婚した義母や実母も一緒に、家族みながやって来た。
高校を卒業すると沖縄を離れ、東京の多摩美術大学で油絵を学ぶ。大学卒業後に開催された社会とアートについて問題を提起しようとした展覧会「Atopic Site」展(1996、東京国際展示場)には、沖縄担当キュレーターに選ばれていた翁長氏と参加した。ミリタリーの文字が入ったTシャツの背中側に日本語訳を加えてカラフルに物干し竿にかけた。「Marine」の裏には「海兵隊」と書き入れ、見に来た人たちのTシャツと交換するアートイベントを展開した。
照屋はその後、日本と距離をおいて沖縄を見たいと思い、2年間浪人してアメリカへ留学。「本気でやるならアルバイトはするな。仕送りするから、卒業までに結果を出せ」と送り出してくれたのは父であった。
アメリカでは油絵ではなく、身近な素材やテーマに取り組んだ。渡米前に沖縄・首里城の催しで女性たちが身にまとっていた紅型。県花の花デイゴの花に蝶の柄が描かれていたが、現実の沖縄は森が減り、戦闘機がひっきりなしに飛んでいる。いまの本当の沖縄を表現したいと思い、兵器をデザインした紅型模様を描いた。職人に製作を依頼すると「焼野原から復興を紅型に託した人たちの気持ちを、あなたはわかっているのか」と怒られた。紅型は沖縄の歴史を物語っている。新しい紅型のあり方を模索していた工芸士の金城宏次氏が製作を引き受けてくれた。そして《結い, You-I》は誕生した。
フランスのポンピドゥ・センター・メッス別館で開催された「ジャパノラマ Japanorama 1970年以降の新しい日本のアート」展(2017.10.20〜2018.3.5)に《結い, You-I》が展示された。キュレーターの長谷川祐子氏(東京都現代美術館参事・東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科教授)は、「ポリティクスを超える詩学(ポエティクス)というセクションに奈良さんや古賀春江作品などと一緒に展示しました。慎ましく小さな文様の変化に政治性を超えた人間性へのメッセージが感じられ、その美学は紙袋の作品にも共通しているのですが、《結い, You-I》は記号としての強さと本来の文様の中へのポリティカルな記号の介入が、あたかもそれを含めてあるがままの世界を身体にまとうという照屋さんのスケールの大きさを感じさせます。日本の70年代以降を語るにおいて重要な作品と考え選出いたしました」と、メールで選出した理由を寄せていただいた。
照屋は、ニューヨークのスクールオブビジュアルアーツ修士課程を修了した2001年以降、ニューヨークと沖縄をベースに活動を続ける。紙袋やトイレットペーパーの芯から木の芽が生える作品など、環境問題や、沖縄を題材に作品を発表。日本のほか、アメリカ、ドイツ、イギリス、オーストラリアなどの美術館に作品が収蔵されている。
【結い, You-Iの見方】
(1)タイトル
「結い, You-I」と表記し、「ゆい、ゆい」とリズム感をもって読む。「結い」は沖縄の言葉で「ゆいまーる」、相互扶助を平等に行なう人のつながりを意味する。日本語の発音に近似した「You-I」は、他者(あなた)と自己(わたし)。人間関係の最小単位であり、すべての関係の基本でもあるYouとIは、国家と国家の関係にもつながる。英題:You-I, You-I
(2)モチーフ
花、木、鳥、蝶、水、橋、落下傘降下兵、戦闘機、オスプレイ、ジュゴン。
(3)制作年
2002年。
(4)画材
麻・顔料。
(5)サイズ
縦180.0×横140.0cm。紅型(びんがた)振袖仕立。身八つ口
が開いている着物仕立ての、袖口が狭い小袖で、袖丈をやや長くし、日常の日本の着物として着用できる形。(6)構図
中央に余白を取り、上下にモチーフを集めた構図。
(7)色彩
多色。柔らかい色彩で白や金、銀は使われていない。
(8)技法
“紅”は色を“型”は模様を示すという紅型の典型的な作風である鎖大模様型(くさりおおもようがた)を基にした照屋勇賢の下絵に、紅型の沖縄県工芸士・金城宏次が型彫り(型紙)
から染めまでを担当し、製作した。かつて鎖大模様型は琉球の貴族と舞踊用にのみ許された多彩な文様の型染め。(9)サイン
なし。
(10)鑑賞のポイント
沖縄の伝統的型染めである紅型の着物で、藤の花だった伝統的な文様はパラシュート兵が下降する姿へと変化している。花がまがまがしいものに変わる美と皮肉が共存する魅力にハッとする。裾の方では沖縄の基地に配備されたオスプレイが飛び、辺野古の海に生息する希少種ジュゴンが泳ぐ。展示方法は、着物を衣桁に掛けて見せるのではなく、四角いキャンバスの木枠を外し、そのキャンバスをハンガーに掛けて壁に吊るしたように紅型を見せている。西洋と東洋を問わない絵画本来の意味をも考えさせる。基地の重圧のもとでも自然と調和することを見失わない沖縄の人々の知恵と、自然破壊と戦争への警告が託されている。すべてを取り込むという紅型のなかに、形式を批判する照屋の表現がある。美しい着物の文様に見紛うほど定着した他者とは何か、多次元表現が見る側に問いかける。2002年VOCA奨励賞受賞作。現在《結い, You-I》は沖縄県立博物館・美術館佐喜眞美術館など、色や文様を変えた作品が全部で7点ある。
や
“Ties over Time”
平面絵画の展覧会である「VOCA展」に翁長氏はなぜ着物を推薦したのだろうか。「VOCA展への推薦候補作品を見に行ったら着物なんですね。柄を見ると見たことのない紅型で、これはいけると思った。VOCAという現代美術の展覧会に、伝統工芸品とみまがう作品を滑り込ませることによって、展覧会そのものを批判しながら、なおかつ沖縄の位置を知らしめるような作品になると思い、推薦を決めた。彼のお父さんは伝統ある紅型を汚すことはできないと反対。それでお父さんを説得した。世界の人たちがこの作品を見て、それで紅型に目が行くようになるんだと話した覚えがある」と語った。
「VOCA展2002」でゲスト選考委員だった長谷川祐子氏は、「VOCA展においてはこれが『絵画』かという議論が審査のなかでありました。私は着物はその展示の方法および人が着ることも含めて、ウェラブルな絵画と考えていましたのでそのように説明しました。ポリティクスを直接話法ではなく、高次のメタファーとして表現するときの、繊細で入念な過程をこの作品から感じました」と当時を振り返り、審査の熱気をメールで伝えていただいた。
東京・アメリカ大使公邸でのグループ展「Ties over Time:Japanese Artists and America」に展示された《結い, You-I》
。昭和天皇とマッカーサーの歴史的写真が撮られた場所に飾られた。ルース元大使夫妻が公邸で催したこの「時を超えたつながり展」では10人の作家の作品が展示されたが、《結い, You-I》は公邸が借り受けるかたちで展覧会後も展示された。照屋はメールで「美術作品という方法で、沖縄の現状やメッセージが、いろんな制約や政治性を飛び越えて、アメリカの政治の現場で発表されたことは意義があると強く確信できた展覧会です。ある意味、沖縄の問題を意識しているという意思表示ともいえるかもしれません」と写真を添付してくれた。
美しく非武装化
沖縄の造形文化は、日本や中国、朝鮮や南方諸国の文化を取り入れながら、複合的なかたちでつくられてきた。絵画も薩摩の狩野派の画壇と中国の福建画題とが交錯して発展してきたが、見事な変容を遂げるメタモルフォーゼ自体が沖縄であり、照屋作品の特質なのかもしれない。
沖縄に「ニシムイ美術村」という画家たちの居住地が1948年に建設された(現在の那覇市儀保4丁目)。首里城から見て北側に位置するその「ニシムイ」は、沖縄の言葉で「西森」の字が当てられ「北の森」を意味する。画家たちは米軍関係者に作品を売り、生活の糧を得てグループ展を開催しながら、戦後の美術活動復興の礎を築いた。アメリカ人と日本人、支配する者とされる者の隔たりを越えて交流をした両者の間にはアートがあった。言葉も国境も必要なく、1枚の絵があれば心を通わせることができた。
翁長氏は言う。「『ニシムイ』と照屋は共通のものがあり、つながっていると思う。また照屋勇賢は平和主義というか、融和精神があって反基地を表わしている。基地との共存を表現しているようにも見えるが、そうではなく反戦の表現と見るべきだろう。日本とアメリカ、伝統と現代を横断する作品だ。技術的にも沖縄の伝統工芸に発注した現代美術作品で、いままでありそうでなかった。沖縄には何でも取り込んでいくチャンプルー文化があるが、《結い, You-I》は基地をも取り込んで行きつつ、美しく非武装化していく方向性が示され、沖縄のリアリティーがある」。
翁長直樹(おなが・なおき)
照屋勇賢(てるや・ゆうけん)
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参考文献