アート・アーカイブ探求
パブロ・ピカソ《ゲルニカ》──絶望は運命なのか「松田健児」
影山幸一
2018年06月15日号
※《ゲルニカ》の画像は2018年6月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
幻想の《ゲルニカ》
ニューヨークへ初めて行ったのは1989年だった。ニューヨーク近代美術館(MoMA)へ直行したことを覚えている。このモダンアートの殿堂に何を目的に勇んで行ったのか。長年《ゲルニカ》の実物をMoMAで見ていたと思い込んでいた。しかし、そんなはずはなかったのだ。ネットで調べてみると、現在スペインのマドリードにある国立ソフィア王妃芸術センターに寄託、展示されている《ゲルニカ》は、すでに1981年にはMoMAからスペインへ帰還され、マドリードのプラド美術館へ移送されていた。私が見たのは実物大の写真だったのだろうか、幻であった《ゲルニカ》。MoMAと言えば《ゲルニカ》というイメージができていた。
《ゲルニカ》は多くの人が知っている。20世紀を代表する反戦と平和のシンボルとして有名だ。戦争の恐怖を絵具で厚塗りした絵肌ではなく、好きな色を塗っていいと言わんばかりに、塗り絵のように親しみやすいモノクロ画面で、ピカソ独特の人間の悲劇と喜劇を昇華させた表現となっている。日本の《ゲルニカ》と思わせるJR上野駅に掲げられた平和への希求作品、猪熊弦一郎の壁画《自由》(1951)を思い浮かべた。
ピカソも《ゲルニカ》も知っているつもりだったが、幻想に思えてきた。ピカソの《ゲルニカ》を探求してみよう。スペインは太陽の光、闘牛の赤、フラメンコの赤いバラのイメージだが、単一的な日本とは異なりカスティーリア人・カタルーニャ人・ガリシア人・バスク人・アラゴン人・ロマ(ジプシー)で構成され、多様で生活にコントラストがありそうだ。
スペイン美術史を専門とする慶應義塾大学商学部の准教授、松田健児氏(以下、松田氏)に《ゲルニカ》の見方を伺いたいと思った。松田氏は『もっと知りたいピカソ 生涯と作品』(東京美術、2006)の著者であり、2017年にはゲルニカの講義を東京・美学校で行なっている。松田氏の研究室を訪ねて、神奈川県横浜市の慶應義塾大学日吉キャンパスへ向かった。
スペインと神吉先生
東急・日吉駅の正面にあるいちょう並木の坂を上ると、研究室のある近代的な建物が左手に見えた。体格のいい松田氏が研究室前で迎えてくれた。高校に入学するまで美術館へ行った記憶がないという松田氏は、1974年熊本県生まれ。高校2年生のときにバルセロナオリンピックが開催され、街ではスペインの紹介や、アントニ・ガウディ(1852-1926)写真展などが催されていた。「ここ面白そう」と松田氏は魅惑的なスペインに興味を持った。語学が好きだった松田氏は、外国語を学びたいと思っていた。スペイン語に関心を持ち、東京の大学を目指して、1992年に大学選定のため上智大学と東京外国語大学を尋ねた。その帰路、東武美術館で開催されていた「栄光のハプスブルク家展」へ寄り、ディエゴ・ベラスケス(1599-1669)の《青いドレスの王女マルガリータ》(1659、ウィーン美術史美術館蔵)を見て打たれた。美術のことを勉強したいと思ったという。
上智大学外国語学部イスパニア語学科へ入学した松田氏は、日本で最初にスペイン美術を学術的に研究した神吉(かんき)敬三先生(1932-1996)に学んだ。先生の人間性にすっかり憧れてしまい、スペイン美術研究の道へ進む決心をした。神吉先生に大学院へ行きたいと意気込むと「人生棒に振るぞ。やめろ」と鼻柱を折られたが、3年生の秋学期にスペインへ留学した。やはりそのときも先生に相談し、古代から現代までスペイン美術が広く見えるマドリードを選び、コンプルテンセ大学に決めた。スペイン留学中の1996年春、神吉先生が突然亡くなった。目標を失った松田氏は放心してしまったという。プラド美術館へ通いながら、美術が好きなことを改めて確認して1996年秋に帰国した。神吉先生の後任の大髙保二郎先生(1945-)に卒業論文の「ピカソの闘牛について」を見てもらった。松田氏のピカソ研究はここから始まった。フランス主導で行なわれていたピカソ研究を、松田氏はスペイン側から見る。学習院大学大学院での修士論文は「ゲルニカ」だ。ゲルニカ研究は、一次資料が近年出てきており研究が進んでいるという。松田氏の参考文献『PICASSO 1927-1939:DEL MINOTAURO AL GUERNICA』(Josep Palau i Fabre, Ediciones Polígrafa, 2011)を見せていただいた。
松田氏が最初に《ゲルニカ》を見たのは、スペインへ初めて行った大学2年生のときだった。「わからなかった。何だこれ。なんでこれがすごいとみんなが言うのだろう。何かすごいことがあるはずだ。でも自分にはわからない」と、修論にピカソを選んだのは、わからなかったからと松田氏は述べた。
キュビスムの誕生
パブロ・ピカソは、1881年スペインの最南端、アンダルシア地方の港町マラガに死産同然で生まれたと伝えられる。父はサン・テルモ美術工芸学校の教師ドン・ホセ・ルイス・ブラスコ、母はマリア・ピカソ・ロペス。幼い頃から鳩と闘牛が大好きだったというピカソは、作風がめまぐるしく変化した画家であり、彫刻家であり、版画家であり、陶芸家としても有名だ。ジョルジュ・ブラック(1882-1963)と共に、キュビスム
の創始者として知られ、生涯におよそ1万3,500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4,000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家であると『ギネスブック』に記されている。ピカソは、9歳頃に父の指導のもとに絵を描き始め、油絵《ピカドール》を制作した。14歳のときに描いた《ひげをはやした老人の肖像》(1895、マヤ・ルイス=ピカソ・コレクション蔵)を見た父は、その才能に驚き、絵筆を絶ったという伝説がある(瀬木慎一『ピカソ』p.30)。1895年カタルーニャ地方の古い都で、近代的な海港都市でもあるバルセロナへ一家で転居する。バルセロナは首都マドリードに次ぐ大都市で文化的にも進歩的だった。1886年《初聖体拝領(はつせいたいはいりょう)》をバルセロナ市展に出品。1897年ピカソはアトリエを持ち《科学と慈愛》を制作、マドリードの官展へ出品して選外佳作となり、その後故郷のマラガの展覧会では金賞を受賞した。ピカソはマドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学する。
1904年フランス・パリへ移住し、アトリエ「洗濯船」に住む。画面上を色彩が主張する「青の時代」や「バラ色の時代」を経て、さようならルネサンス、こんにちはキュビスムと、アフリカ彫刻の影響を受けて、1907年にキュビスムの誕生を予告する記念碑的大作《アヴィニョンの娘たち》を描いた。
フォルムと色彩の源泉
ピカソをめぐる女性たちは多い。女性はピカソにとって最も身近な存在となり、モデルともなったが、画風の変貌をすべて女性遍歴に還元することはできないようだ。ピカソは「わたしを最初に感動させた人間は次第にその現実の姿を消していき、フォルムと色彩に化していく」(松田健児『もっと知りたいピカソ 生涯と作品』p.48)と言う。ピカソがどのような女性に感動して、生活を共にしたかは興味深い。パリに暮らし始めてから、亡くなるまで7人の女性たちの名が残っている。
ピカソが「洗濯船」に住み始めた頃知り合ったフェルナンド・オリヴィエ、キュビスム時期の伴侶であるエヴァ、ロシア・バレエ団のダンサーで1918年に最初の妻となり、長男ポールの母であるオルガのほか、17歳でピカソと知り合い2人目の子どもとなる娘マヤの母マリ・テレーズ、ユーゴスラビア人の写真家で流暢なスペイン語を話すドラ・マール、画学生であったフランソワーズ・ジローは息子クロードと娘パロマの母となった。そして45歳若いジャクリーヌ・ロックとは1961年、オルガの死後結婚。特異な女性関係をつくったピカソ。人間と自由に対する抑圧に闘いを挑んだピカソの存在感が、作品の実在感と重なりピカソの神話を生んでいる。
連作の変遷
ピカソは1915年頃から豹変する。のちにエコール・ド・パリと呼ばれたピカソは、中心主題が人物像となり、スタイルに多様性を示した。キュビスムに属する1921年の《三人の楽士たち》や新古典主義の1922年の人物像《海辺を走る二人の女》、記号化の展開である1926年の《画家とモデル》、記号の統一性と同時性を追求した1932年の《鏡の前の少女》、そして1937年に《ゲルニカ》が誕生する。第二次世界大戦が1939年に勃発したが、同年MoMAでは回顧展「ピカソ芸術の40年」が開催され、《ゲルニカ》をはじめピカソ作品が全米各都市を3年間巡回した。ピカソは、フランス共産党に入党して作画を続けていた。
戦後のピカソは、過去の名作のバリエーションを展開する。ウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)の《アルジェの女たち》(1954)、ベラスケスの《ラス・メニーナス》(1957)、エドゥアール・マネ(1832-1883)の《草の上の食事》(1959)と、大規模な連作を制作していく。
日本では1951年に東京高島屋や大阪市立美術館で大規模なピカソ展が開かれ、1962年11月には、東京・国立西洋美術館で「ピカソ・ゲルニカ展」が開催された。原画を除く《ゲルニカ》関連作品や資料が展示され、1964年にも東京国立近代美術館で「ピカソ展」が開催されている。《ゲルニカ》は、壁画のほかに版画《フランコの夢と嘘》など、その前後に描かれた61点の油絵、水彩、デッサン、版画、タピストリーからなる連作の総称でもある。
1971年ピカソ90歳の誕生日を記念して、ルーヴル美術館で回顧展が開かれ、1973年4月8日ピカソはフランス・ムージャンにて91歳で逝った。ポール・セザンヌ(1839-1906)を父と慕ったピカソ。セザンヌの生まれ故郷であるフランス南部のエクス・アン・プロヴァンスのサント・ヴィクトワール山の麓にある古城ヴォーヴナルグの庭に埋葬されている。
【ゲルニカの見方】
(1)タイトル
ゲルニカ。自分の作品にピカソは題名をつけることをせず、画商や研究家がつけていたが、本作はピカソ自身が命名した珍しい作品。英題:Guernica
(2)モチーフ
牡牛、馬、母、子、電燈、ランプ、女、兵士、花、テーブル、鳥。
(3)制作年
1937年。ピカソ56歳。ゲルニカ爆撃から6日目の5月1日、制作に着手。初日に6枚の素描を描き、中心的な主題が決定した。馬の部分ではジェッソ(下地用の白色絵具)で地塗りした板の上に鉛筆で素描するなど、部分と画面構成の習作を重ね、5月11日には壁画のための巨大なキャンバスに着手し、6月4日頃に完成。
(4)画材
キャンバス、油彩。
(5)サイズ
縦349.3×横776.6cm。展示スペースに合わせて制作したサイト・スペシフィックな作品。
(6)構図
女の差し出したランプを頂点とする三角形の構図。悲嘆や苦痛に身をよじる人物や動物など、多様なモチーフは不連続のまま折り重なり迷路的だが、モチーフのすべての表情が牡牛へ向かい、空間的連続性を実現している。
(7)色彩
黒、灰、白。モノクロームだが青みや褐色がかったグレーも見える。
(8)技法
主に線描表現によるキュビスム、新古典主義
、シュルレアリスム の造形要素を持っている。しかし、いずれにも収斂していない。古典と現代、三次元と二次元、具象と抽象を内包し、対極を巧みに駆使している。(9)サイン
なし。
(10)鑑賞のポイント
スペイン・バスク地方の文化的中心だった古都ゲルニカが、1937年4月26日壊滅した。スペイン共和国政府に対し蜂起したフランコ将軍と、共謀したナチス・ドイツの無差別空爆によるものだ。1936年ピカソは在仏のまま共和国政府からマドリードのプラド美術館館長に任命されていた。1937年スペイン共和国政府への資金援助のため、ピカソはパリでフランコをばけ物化した銅版画《フランコの夢と嘘》を制作。またパリ万博スペイン館の壁画制作を共和国政府から依頼された。しかしなかなか壁画のテーマが見つからなかった。アトリエで絵を描く画家とモデルで、芸術と戦争を対峙させ、芸術家の自由を訴えようと考えていた。そこへゲルニカ爆撃のニュース。『ス・ソワール』紙の報道写真などで惨事を知ったピカソは、罪のない市民に恐怖心を与えた無差別空爆に心を動かされ、壁画のテーマをゲルニカにすると決断した。「絵はアパートを装飾するために制作されるものではありません。それは不正に対抗する攻防の武器です」(富永惣一『ピカソ・ゲルニカ展』図録より)とピカソは言う。内戦はフランコの勝利に終わり、ピカソは亡命者になったがフランスの国籍も取らずスペイン人としてこの世を去った。美的な鑑賞を許さず、多義性と普遍性を内在させた、20世紀という戦争の世紀を象徴する絵画。絶望は運命なのか、人間の野望なのかと考えさせられる。ピカソの代表作。
牛は牛、馬は馬
第一次世界大戦と第二次世界大戦、ファシズムと反ファシズム、民主主義支持を背景に《ゲルニカ》は誕生した。反戦の絵といわれるが、ファシズムと戦うために描かれた武器で加害者はいない。モチーフが何を表わしているかをピカソは「牛は牛、馬は馬だ」と言う。解釈は自由なのだと松田氏。しかし《ゲルニカ》は横7メートル以上と大きく、全体を一望できない。そのため絵の一部分を見ていくことになり、絵画空間が演劇のように舞台になる。モチーフの電燈は当初の太陽から変化し、ゲルニカの空爆が室内で起きている出来事のようだ。ピカソは舞台を見せるような構成を考えたかもしれない、と松田氏は語る。
「《ゲルニカ》は初め、フランコ側の暴挙をパリ万博で訴え、共和国政府側に援助を求める内容だった。フランコが勝利して内戦が終わり、第二次大戦へ惨禍が広がるとヨーロッパ全土の戦争の悲劇と解釈されるようになった。《ゲルニカ》が1939年にアメリカへ渡り、MoMAの所蔵となったころ、ベトナム戦争が泥沼化していくと、反戦の普遍的絵画、また学問的解釈の対象として、ピカソの絵は意味がどんどん広がった。ピカソはフランコが生きている間はスペインへ返しては駄目だと言っていた。1975年にフランコが亡くなると、スペインは独裁政権から民主化した。《ゲルニカ》は1981年にスペインへ戻ったとき、最後の亡命者の帰還、と大きく報道され、和解の象徴・スペイン民主化の象徴になった。《ゲルニカ》がすごいのは、もともとあった文脈から異なる文脈にあてはめても解釈できる幅の広さ。展示される場所や時代によって、見え方や意味が変わる懐の深さだ」と松田氏は言う。
普遍性と万博ルール
美術史家の高階秀爾氏(1932-)は「二十世紀の全絵画史の中でも記念碑的なこの作品に関しては、別に詳述する機会があることと思うが、その有力な『剽窃』源となったひとつの作品だけは、いまここで指摘しておきたい。それは、十九世紀の彫刻家、アントワーヌ・プレオーの「殺戮」と題された浮き彫りである。現在、フランス、シャルトルの美術館に所蔵されているこの作品を見ればすぐわかるとおり、左手の赤子を抱いて大きく天を仰いでいる母親の姿、眼を覆わしめる惨劇の中に大きく誇張されて表現される恐怖にわななく手、そして何より右下から左上に大きく斜めに画面を横切って全体の構図を支配する髪を長く後ろに引いた女の横顔等、ピカソの作品への影響はあまりにも明らかであろう」(高階秀爾『ピカソ 剽窃の論理』pp.135-136)と、《ゲルニカ》と《殺戮》の関連を指摘している。奔放に自己の絵画を築いているように見えながら、絵画の外の世界を自己の作品に積極的に反映させる吸収力と創作力をピカソは持っていた。
今日《ゲルニカ》の制作過程を見ることができるのは、ピカソの恋人であり写真家・画家であったドラ・マールが《ゲルニカ》の写真8枚を美術雑誌『カイエ・ダール』に掲載していたからだ。松田氏は「《ゲルニカ》は万博という政治的な場に置かれたプロパガンダ絵画だが、制作していくなかでピカソは具体的な描写から象徴へと、政治的なシンボルを消していった。左翼のシンボルとしての突き上げたにぎり拳が描き始めた頃にはあったが、制作の過程で消えていった。何ひとつゲルニカの町を示すものは描かずに、タイトルだけが具体的。他の町で同様のことが起こったときに同じ文脈で絵を読み込むことができる。題名の具体性が普遍性へとつながっていった。政治的なシンボルを取り除いた理由には、政治的なメッセージを使ってはいけない政治不干渉・非介入主義という万博ルールがあった」と言う。
日本国内には2つの「ゲルニカ」がある。東京駅丸の内北口前のOAZOビルの1階に原寸大に複製された美術陶板の《ゲルニカ》と、群馬県立近代美術館が所蔵する《ゲルニカ・タピスリー》である。《ゲルニカ》はいまでも時空を超えて平和、自由、愛を発信している。パリのピカソ美術館では「ゲルニカ展」(2018.3.27〜7.29)が、《ゲルニカ》制作80周年を記念して開催されている。
松田健児(まつだ・けんじ)
パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)
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参考文献