アート・アーカイブ探求
ポール・ゴーガン《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》──人間再生の問い「六人部昭典」
影山幸一
2018年07月15日号
熱帯の森から聴こえてくる
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」。人生のなかで時々ふっと思い出すこの問いに少し胸騒ぎはするが、時の流れのなかに自己を置いて眺める呪文のように、ほっとする人間もいるのではないだろうか。ポール・ゴーガンの絵画作品《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》(ボストン美術館蔵)である。この大作にゴーガンはなぜ、祈りにも似たタイトルをつけたのか。作品を探求してみたいと思った。ゴーガンはゴーギャンとも表記されることが多いが、フランス語の発音に近いゴーガンとしたい。
幻想的な深さを湛えた青緑色が支配する画面に、オレンジ系の肌色をしたさまざまな形の人物を点在させ、猫や犬、鳥や山羊、うねる木々や山などは演劇の舞台のように配置し、天空と大地をつなぐ人物と偶像は、正面を向き直立して呼応する。熱帯の島の森から荘厳な音楽が聴こえてくる。生命あるものは時を生き、時は終わりを告げる。
フランス人のゴーガンは、タヒチ島でこの絵を描いたという。ハワイ群島の南方、南太平洋フランス領ポリネシアに属するソシエテ諸島にあるタヒチ島は、面積1,045km2で沖縄本島(1,206km2)よりも少し小さい。ゴーガンにとってタヒチは楽園だったのだろうか。
フランスのモダンアート史が専門で、ゴーガンについても書かれている『二十世紀美術におけるプリミティヴィズム』(共訳、淡交社、1995)の翻訳者であり、『もっと知りたい ゴーギャン 生涯と作品』(東京美術、2009)の著者でもある、実践女子大学教授の六人部(むとべ)昭典氏(以下、六人部氏)に、《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》の見方を伺いたいと思った。東京・渋谷の実践女子大学へ向かった。
進化論的モダンアート史
六人部氏を研究者として決定づけたのは、パリのオランジュリー美術館で見たモネの《睡蓮》だった。「モネ70歳台の作品で、肩を使った大きなストローク描法の痕跡と向かい合い、これはいままでの進化論的なモダンアート史の枠組みに収まるような画家ではない」と思ったという。絵画によって、建築空間がつくられるというスケール感や、見るということが身体的な行為として、絵画に包まれながら絵画を鑑賞するという体験が他の絵画作品とは違っていた。
印象派→ポスト印象派→20世紀美術のマチス(1869-1954)・ピカソ(1881-1973)→抽象絵画と、進化論的なモダンアート史が主流だった当時、印象派の代表のモネは過去の人だった。印象派は、ポスト印象派のセザンヌ(1839-1906)やゴーガンによって乗り越えられたという見方をすると、印象派とポスト印象派の差異を比較するうえで、ゴーガンが研究対象になるのは時間の問題だった。
六人部氏が、初めて《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》を見たのは、30歳頃アメリカの美術館巡りをしていたときだった。「大作というがサイズは思いのほか小さい」というのが第一印象。しかし、その後時間が経つにつれて内容が大作であり、ゴーガン作品の集大成であることを実感したという。
内在する対比
ポール・ゴーガンは、1848年にパリに生まれた。父クローヴィス・ゴーガンは共産主義のジャーナリスト、母アリーヌは女性社会運動家フローラ・トリスタンの娘だった。ゴーガンの1歳上に姉のマリーがいる。パリに起こった二月革命の弾圧から逃れるため、ゴーガンが1歳のときに、一家はアリーヌの大叔父トリスタン・デ・モスコソが副王に就くペルーのリマに赴く。その船上で38歳の父が急逝したが、家族はリマで歓待され6年間過ごした。
1855年ゴーガン7歳のとき、ペルーで市民戦争が起き、父方の祖父の死去もあり、一家はペルーからフランスへ帰国する。ゴーガンは、パリの南西116kmにあるオルレアンのカトリックの寄宿学校に入学。スペイン語は話せたがフランス語は上手に話せず、母国に戻っても異国を感じ、周囲に馴染めなかった。
17歳で商船の見習い水夫となり、南米リオデジャネイロへ向かう。世界を航海したが、航行中に母が42歳で亡くなる。母の遺書に後見人として記されていた資産家で美術品コレクターのギュスターヴ・アローザの仲介で、ベルタン商会で株式仲買人として働き始めた。1873年25歳になったゴーガンは、デンマーク人のメット・ソフィー・ガットと結婚、翌年には長男エミールが生まれ、その後ゴーガンは4男1女の父となった。職場の同僚シュフネッケルの勧めで画塾に通い始め、この頃印象派のカミーユ・ピサロ(1830-1903)と出会う。
1879年には第四回印象派展に初めて出品。フランスを襲った金融恐慌を契機に、1883年画家になる決意をする。翌年妻メットは子どもたちとコペンハーゲンの実家に戻り、ゴーガンもその年末に妻のもとへ身を寄せ、半年ほど共に暮らす。
「絵画がつまずきの石であり、それこそが、私を踏みとどまらせる」とピサロに手紙を書き、妻宛ての手紙に「インディアンと感じやすい人間、私のなかに二つの性質がある」と記している。リマからパリへ、水夫から株式仲買人と変遷を経て、対立する思想の原型を内在させた画家として歩み出した。
「総合主義」の確立
1886年コペンハーゲンを去ったゴーガンは、フランスの北西部ブルターニュ地方ポン=タヴェン村に向かい、さまざまな国の画家たちと交友し制作に励んだ。プリミティブな粗い造形に惹かれ、陶作品と木彫レリーフも制作している。この村はケルト文化の伝統に根差した素朴な営みが続く、フランスの中の異国とも言える地域だった。
1887年、姉マリーが暮らすパナマへ出航し、カリブ海に浮かぶフランス領土の小島・マルティニック島に落ち着いた。熱帯という異国の地で風景画《熱帯の植物》(1887、スコットランド国立美術館蔵)などを描いた。
40歳となったゴーガンは、再びブルターニュ地方のポン=タヴェンに向かった。そして、同僚であったシュフネッケルにこう書き送る。「私はブルターニュが好きだ。私はここに野性を、原始を見出す。木靴が花崗岩の大地に音を立てるとき、私は、絵画の中に探し求めている鈍い、こもった、力強い響きを聴く」(六人部昭典『花美術館』Vol.55、p.11)。
音に敏感だったゴーガンは素朴なブルターニュの魅力を語り、目に見える素朴さではなく、目に見えない内面の素朴さを描いた《説教の後の幻影(ヤコブと天使の闘い)》(1888、スコットランド国立美術館蔵)を誕生させた。印象派を乗り越えた平坦な色面、輪郭線が強調された単純な形態、大胆な構図は、日本の浮世絵(ジャポニスム)や、また、画家エミール・ベルナール(1868-1941)のステンドグラスにインスピレーションを得たクロワゾニスム 絵画から学んだものと考えられ、ゴーガンは「総合主義」と名づけた。それは、様式の面で共通した特徴を認めるのは難しいが、形態と色彩の総合であるとともに、目に見える世界と、目に見えない世界の総合でもあった。1880年代後半に台頭した神秘や観念など、内的な世界を表現した象徴主義 のなかに位置づけられる。
野性を求めて
ゴーガンは、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)の誘いで、1888年10月下旬アルルへ向かった。ゴッホは、ゴーガンをリーダーとする画家の共同体をつくろうと考えた。しかし、ゴーガンはゴッホの弟テオがパリの画商であり、経済的援助も視野にあったようだ。「黄色い家」での2人の共同生活は、目に見ないものを描くゴーガンと、目に見えるものを描くゴッホの絵画に対する考え方がまったく異なったため、2人の生活にいさかいが起こり12月23日の夜に限界に達し、2カ月で終焉した。パリに去ったゴーガン。
1889年フランス革命百周年を記念するパリ万博が開催され、近代技術や世界の珍しい文物をゴーガンは実見した。「印象主義者と総合主義者のグループによる絵画展」をゴーガンは万博に合わせて開催したが、期待した成果は得られなかった。失意のなかポン=タヴェンへ戻り、画家のメイエル・デ・ハーン(1852-1895)ら数人と近くのル・プルデュに移る。《デ・ハーンの肖像》(1889、ニューヨーク近代美術館蔵)を制作し、共同生活の食堂の扉を飾った。そこには詩人ジョン・ミルトンの『失楽園』と、文学者トマス・カーライルの『衣服哲学』の本が描かれていた。
43歳になったゴーガンは、野性と原始のなかに新たな芸術を求めて、1891年4月にマルセイユからタヒチへ出航した。タヒチは植民地としてフランス的になり、昔の姿は消えていた。それでも《海辺(ファタタ・テ・ミティ)》(1892、ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)や《かぐわしき大地(テ・ナヴェ・ナヴェ・フェヌア)》(1892、大原美術館蔵)など、2年間で油彩画40点以上を制作した。
19世紀ヨーロッパでは異国に対する関心と、列強による植民地化を背景とした宗主(そうしゅ)国と植民地という力関係も加わっていた。ゴーガンは、フランスの美術局長から無報酬の政府派遣芸術特使という肩書を得て渡航し、現地女性テハマナと同棲する。
1893年タヒチを出てフランスに帰国したゴーガンは、パリで個展を開くが期待どおりにはいかなかった。失望したがタヒチの思い出を『ノア・ノア』(タヒチ語で「かぐわしい香り」)と題した本にまとめようと計画。そして1895年再びタヒチへ向かう。
1897年長女アリーヌの死を知り衝撃を受けた。目の感染病、足の傷の合併症、湿疹、梅毒を患い、孤独のなかで大作《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》を制作。自殺を試みたが未遂に終わる。1901年タヒチ島を出航し、フランス領ポリネシアの最果て地、マルキーズ諸島のヒヴァ・オワ島へ野性を求めて移った。「逸楽の家」を建て、死の間際まで制作し、1903年3月に死去した。55歳だった。
近代都市パリと熱帯の島タヒチの間で野性を求めたゴーガンは、人間の存在を問い、西洋の芸術を変えようとした。西欧文明を否定するダダとシュルレアリスムが、ゴーガンの問いを継承したとも言えよう。
【我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのかの見方】
(1)タイトル
我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか。英題:Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?
(2)モチーフ
黒い犬、眠る赤ん坊、背を向ける女、口元に手をやり肘をつく2人の女性、赤茶色の服を着て立つ2人、座って右腕を挙げて2人を眺める人物、禁断の果実を採る人、子どものそばに2匹の猫、牡山羊、カラフルな羽の鳥、真横を向いて立つ女、両腕をV字形に折る神像、小さくうずくまる女性、大地に腕をつく若い女、老婆、足でとかげを掴んだ白い鳥、曲がりくねった木、民家の屋根、海と空、島の山々。
(3)制作年
1897-98年。タヒチ島にて制作、ゴーガン49歳。病気を抱え、老いもあり家族関係もなくなり孤独が深まっていった時期。
(4)画材
キャンバス、油彩(ゴーガンによれば、結び目だらけのざらざらの麻袋のキャンバスに描いたため、粗削りに見えるという)。
(5)サイズ
縦139.1×横374.6cm。
(6)構図
横長の画面右から左へ、人間の誕生から死への歩みを展開。中央のやや右には垂直に立つ人体が天地をつなぐ。遠近法を使わずに、時間の流れや人類の歴史を意識した構図。
(7)色彩
多色。青と緑を基調とし、補色関係である青と黄色の各グラデーションを用いて画面にリズム感と奥行き感を出している。
(8)技法
過去のゴーガン作品のモチーフを引用し、パッチワークのように画面に配置。輪郭線を強調して、人体を単純化し、色彩は平塗り。ポスト印象派の様式が見られる。
(9)サイン
画面右上に「P.Gauguin 1897」の署名。左上にはフランス語で「D’où Venons Nous / Que Sommes Nous / Où Allons Nous」の書き込み。
(10)鑑賞のポイント
熱帯の島にある森に流れる小川のほとりの木陰の情景。画面中央には原罪を負った人間の起源が暗示され、神の戒めに背き赤い果実を摘む最初の人物が描かれている。そのポーズはレンブラント派の裸体デッサン(ルーブル美術館蔵)を参照したといわれる。眠る赤ん坊は生命の誕生と原罪以前の人間を示し、画面左下には大地に腕をつく若い女と死を象徴する老女が並び、白い鳥が生命の輪廻を示唆する。画面の前景では右から左へと東洋の絵巻物のように人間の一生を描き、中景では左から右へ視線を誘導し、再び誕生へ戻るよう再生を暗示した。生と死、天と地、人間と自然、西洋と東洋、大人と子ども、精神と物質、野蛮と文明など、相反するイメージが有機的につながり、各部分のモチーフが画面のなかで統合されていった。作品の不可解さは鑑賞者の内部に割り切れないものとしてよどみ、もどかしさと想像力を喚起させながら、忘れられない刻印を残す。画面左上には題名にもなった3つの問いが書かれている。ゴーガンは「題名ではなく、署名」と語っている。この問いは、ゴーガンにとって絵を描くことそのものであり、彼の生涯を貫くものだった。ゴーガンは作品完成後山に入り、砒素を飲んで自死を図ったが未遂に終わった。精神的な遺言であるゴーガン最大の作品であり、ゴーガンの人生観や世界観を描いた集大成。
『失楽園』と『衣服哲学』
六人部氏は、《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》について「ゴーガンは、パリ万博で見たペルーの膝を抱えて座るミイラに着想を得て、大作の画面左下にくすんだ灰褐色の肌をした老婆を描き、孤独と絶望感を表わした。またその隣の奇妙な白い鳥は虚ろな言葉を表わし、すべてを言葉で説明しようとする無用性を示している。ゴーガンは若い女性と白い鳥が描かれた《ヴァイルマティ》(1897、オルセー美術館蔵)と、2人の女性を寒色と暖色で描き分けた《生と死》(1889、ムハンマド・マハムード・カリール夫妻美術館蔵)を引用し、老婆と若い女性を合成したと考えられる。このほかにも、この畢生の大作にはゴーガンが咀嚼し、反芻してきたさまざまなモチーフが用いられている。タイトルにもなっているゴーガンの問いについては、《デ・ハーンの肖像》に描かれている2冊の本『失楽園』と『衣服哲学』が関係していると思っている。ジョン・ミルトンの『失楽園』では、神に反逆するサタンが、地獄に堕ちた天使だったことにゴーガンは「背信の天使」という二面性を自らの姿に重ねたかもしれない。またトマス・カーライルの『衣服哲学』は、近代の物質文明に対する疑問を呈していた文学における早い例であり、ゴーガンの問題意識と同じ方向性だ。画家デ・ハーンはすごい読書家だったので、ゴーガンはデ・ハーンから本を貸してもらい読んだ可能性がある。『衣服哲学』のなかに出てくる苦難に立ち向かう主人公が、未知の国を行く放浪者であり、主人公は“私は誰であるのか”と自らに問いかけている。次の『衣服哲学』の文章が注目される」と語った。
「思索型の人々にとっては、驚異と不安を感じながら、私は誰であるのか、“私”と呼ぶものの本質は如何、というあの解答不能な質問を自らに向かって発する時間、瞑想的な、甘美な、しかも厳粛な時節が、いずれやってくる。[……]私は誰であるか、この〈私〉はなんであるか。声であるか、動きであるか、ひとつの現象であるか。[……]しかし私はどこからきたのか。どういうふうにしてきたのか、どこへ行くのか。その答えは、われわれの身辺のいたる所に転がっている。それは、千姿万態を有し、さまざまな声調をもって現われながら、しかも調和のとれている大自然の中に、あらゆる色彩と動きをもって書かれ、あらゆる歓喜と悲泣の調子で発声されている」(トマス・カーライル著、宇山直亮訳『衣服の哲学』pp.63-64)
差別への問い
2009年に東京国立近代美術館で「ゴーギャン展」を企画開催した主任研究員鈴木勝雄氏は「ゴーギャンは、19世紀末の終末論的な時代の空気のなかで、近代文明に対する徹底的な懐疑をふまえ、人類が向かうべき処方箋の一つを提示しようとしたのではないか。世界を暴力的に裁断してしまう二元論を超えるためには、対立と闘争によって発展的に統一をめざす止揚ではなく、ヒナ神や両性具有者に表象されるような、両者の境界を柔らかに溶かしていく循環的な発想が求められる。ゴーギャンはタヒチのなかに、その可能性を秘めた身体的な知を発見し、それを『野性』と名づけたのではないだろうか」(『ゴーギャン展』図録p.124)と記している。
人間の規範はヨーロッパにあったが、ゴーガンは異国へのまなざしを通してそれを問おうとしていたのではないか、と六人部氏は言う。異国を通して見た人間再生の規範を求めていた。ゴーガンが旅先から妻や友人に送った手紙からは、再生あるいは輪廻を考えていた様子が伺える。
19世紀末のヨーロッパは、表面的には産業革命以降の物質文明の華飾的な発展を謳歌していた。しかし、ゴーガンがタヒチに行ったように、近代化に疑問を感じていた芸術家は少なくなかった。現在の世界の情勢は、飢餓や貧困など、ゴーガンの時代とはまったく違うかたちで人々が国境を越えているが、それを生み出しているのは、目に見えない差別であろう、と六人部氏は述べた。
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」というゴーガンの問いの答えは、外在的なものではなく、問いと向き合った各個人の内にあるのかもしれない。この問いはいま私たちに一層強く迫ってきている。
六人部昭典(むとべ・あきのり)
ポール・ゴーガン(Paul Gauguin)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献