アート・アーカイブ探求
エドヴァルド・ムンク《叫び》──震える魂「田中正之」
影山幸一
2018年10月15日号
※《叫び》の画像は2018年10月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
白熱電球のような顔
耳をふさぎ、何かにおののいているような男か女か、大人か子どもか、あるいは幽霊なのか。両手にはさまれた白熱電球のような顔。丸坊主で身体をくねらせて正面を向いたポーズが強烈な印象を残す。赤・青・黄の三原色の曲線画が目を引く。不気味でありながら、どこかユーモラス。心の底から「ワァー!」と声が聞こえてきそうだ。エドヴァルド・ムンクの《叫び》(オスロ・国立美術館蔵)である。
ムンクがノルウェー王国の画家と知り、北欧の地図を調べて見た。イギリスの北東、雄大な自然景観のスカンディナヴィア半島の西岸にノルウェーはあった。東岸にはスウェーデン。ノルウェーは一部が北緯66度以北の北極圏にあり、南東のフィヨルドの良港に首都のオスロがある。日本とほぼ同じ面積38.6万平方キロメートル、人口は約525万人。国技はスキーで、劇作家のヘンリック・イプセン(1828-1906)や3人組バンドa-ha、DJで音楽プロデューサーのKygo(カイゴ)などが知られ、ノーベル平和賞はノルウェーで決定されるという。
《叫び》も、ムンクも日本で知る人は多く、両手で頬を包むポーズを真似する人もいる。しかし、強いイメージに比べて絵について語られることは少ない。絵に秘められた人気の秘密はなんなのだろう。2007年、国立西洋美術館で開催された「ムンク展」を企画担当した田中正之氏(以下、田中氏)に《叫び》の見方を伺いたいと思った。西洋近現代美術史を専門とする田中氏は現在、武蔵野美術大学教授として教鞭を執る。今秋2018年9月には『ムンクの世界 魂を叫ぶひと』(平凡社)を出版された。東京・国分寺駅からバスに乗り武蔵野美術大学へ向かった。
絵を言葉で理解する
駅から20分、バス停を降りるとすぐ前に大学があった。田中氏は1963年東京に生まれ、絵が好きな子どもで中学、高校も美術部だったという。中学3年生のときに、クラス担任の先生が美術部の顧問で美術の先生でもあった。その先生が中学校最後の授業といって画集を持って来て、ピカソの《泣く女》(テート・モダン蔵)と尾形光琳の《紅白梅図屏風》(MOA美術館蔵)について話をした。「こういうふうに描かれているだろ」と絵を見ながら解説をし、「なぜそう描いたのか」と生徒たちに尋ね、「こう描けばこういう効果が出るね」と、田中氏は当時を振り返る。絵を言葉で聞く初めての体験をした。なんとなく思っていたものが、こんなにも理解として入っていける。衝撃的な瞬間だった。田中氏はこれほど面白い体験はないと思ったという。
高校に入ると、国語の先生が副教材として、いつも西洋美術史家の高階秀爾(1932-)の本を使っていた。その影響で高階の本を読むようになった。大学の入試が迫り、大学案内を見ていると高階秀爾の名を発見、ここへ行くしかないと決心した。そして、高階が教える東京大学文学部美術史学科へ入学。卒論はドイツ表現主義の画家エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー(1880-1938)について書いた。
ムンクに関心を持ったのは、大学院生のときだったという。卒論でのドイツ表現主義を理解するため、ドイツ表現主義に影響を与えたムンクらの先行美術について学ぶ必要があった。1990年に博士課程へ進学したが、その頃読んでいた本の執筆者がニューヨーク大学関係者が多かったことがあり、5年間ニューヨーク大学美術史研究所へ留学した。辛かったけど面白かったという。
その後、1996年より国立西洋美術館の研究員となり、「ピカソ」展(2000)、「マティス」展(2004)、「ムンク」展(2007)などを担当。田中氏はつくり手の現場に関心をもち、2007年から武蔵野美術大学に勤務している。
クリスチャニア・ボヘミアン
エドヴァルド・ムンクは、1863年ノルウェーの南部ローテンに生まれた。5人兄弟の2番目で、父クリスチャンは軍医、母ラウラは結核のためムンクが5歳のときに亡くなった。貧民街での医療活動に打ち込んでいた父は、家庭では荒れて子どもに暴力をふるった。病弱なムンクを支えたのは亡母の妹カーレンだった。カーレンは子どもたちを深い愛情で包んだ。しかしムンクが14歳のときに、姉ソフィーエも結核で世を去る。ムンクは絵を描くことで落ち着き、描くことによって、人間の内面を見つめ、自分の悩みや苦しみを乗り越えることを覚えた。
建築家になるために父の意向で通っていた工業学校をやめ、18歳でクリスチャニア画学校に入学。当時アヴァンギャルドな自然主義(社会の現実を深く見つめる)の画家クリスチャン・クローグ(1852-1925)に指導を受け、前衛的芸術集団「クリスチャニア・ボヘミアン」に加わり、そのリーダーで思想家のハンス・イェーゲル(1854-1910)に感化された。ムンクはこの2人の影響を受け、イェーゲルの「自らの生について書かねばならない」という教えを守り、その後の芸術活動の指針とした。
1889年パリの万国博覧会の年にムンクはパリに出て、カミーユ・ピサロ(1830-1903)、ポール・ゴーガン(1848-1903)、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)、ジョルジュ・スーラ(1859-1891)、トゥールーズ=ロートレック(1864-1901)など、当時の最新の絵画活動に触れて、世紀末的様式を育んでいった。
「生のフリーズ」の誕生
1890年代から1900年代にかけてのムンクは、実り豊かな活動が続き、1892年にはドイツのベルリン芸術家協会に招待され、油彩55点を展示した。しかし、その個展は開催初日から新聞や雑誌で「グロテスク」と酷評され論争を巻き起こし、わずか1週間で閉鎖した。「ベルリン・スキャンダル(ムンク事件とも)」と呼ばれ、画家を一躍有名にした。また1893年には本作の《叫び》を制作し、1894年からは版画に取り組んだ。この頃、妹ラウラが精神病院に入院し、弟アンドレアスが肺炎で亡くなっている。
1902年、ベルリンにアトリエを借りベルリン分離派展に《叫び》を含む22点を「フリーズ
:生のイメージの連作の展示」 というタイトルで出展した。人間の「愛と性」「不安」「生と死」といった主題を「生命の連鎖」ととらえ、人間の運命を自らの芸術に取り込もうと4つのセクション(愛の芽生え・愛の開花と移ろい・生の不安・死)に分けて空間を装飾するように展示した。ムンクは生涯結婚しなかったが、19歳のとき人妻との初恋に嫉妬や罪悪感に悩まされ翻弄された経験から、婚約をしながらも結婚を拒んでいた。拳銃で自殺をほのめかす婚約者トゥッラ・ラーセンと揉み合ううちに銃が暴発。ムンクは左手中指の第一関節から先を失い、愛することに終わりを告げた。1908年ムンク45歳、身近に死を感じ精神症にかかり、8カ月間入院する。
第一次世界大戦(1914〜18)が始まったさなか、1916年国家を象徴するオスロ大学の講堂の壁画《太陽》や《歴史》など11の画面が完成した。1930年67歳になったムンクは眼病を患う。1933年フランスとノルウェーから勲章を授与される。1937年ナチスがドイツ国内のムンク作品82点を退廃芸術として押収する。第二次世界大戦(1939〜45)が開始され、ノルウェーはナチス・ドイツ軍に占領された。1944年自宅にて永眠。享年80歳。遺言により絵画1,100点、版画1万8,000点、水彩と素描4,500点、彫刻13点、手紙や手稿などすべてがオスロ市に寄贈された。
【叫びの見方】
(1)タイトル
叫び(さけび)。英題:The Scream。
(2)モチーフ
人、歩道、欄干、海、舟、空。
(3)制作年
1893年。ムンク30歳の作品。同年ベルリンでの個展に「『愛の連作』のための習作」として6点(《夏の夜:声》《キス》《吸血鬼》《マドンナ》《メランコリー》《叫び》)が出品された。
(4)画材
厚紙・テンペラ
・クレヨン。
(5)サイズ
縦91.0×横73.5cm。
(6)構図
背景の要素が前景の人物に、すべて集約されていく逆三角形をつくり、不安定さを感じさせる構図である。
(7)色彩
オレンジ、黄、青、緑、紫、茶、ベージュ、黒、白など多色。ムンクが感じた主観的な色彩。
(8)技法
アール・ヌーヴォーに見られる有機的曲線が特徴。絵具は薄くかすれ、太い直線と波状の曲線が、大胆な遠近法と調和して劇的な効果を高めている。
(9)サイン
「E. Munch 1893」と茶とオレンジの2色で左下に署名。
(10)鑑賞のポイント
氷河によって形成された入江のフィヨルドと、オスロで見られるという縞模様の空を、ゴッホ(1853-1890)の《星月夜》(1889、ニューヨーク近代美術館蔵)と類似した曲線で表わしている。耳をふさぎ口を開け、両手ではさんだ単純化された顔には頭髪や眉毛はなく、目はくぼみ、左目には×印、青い唇からは言葉にならない不安が漂ってくる。左上には「Kan kun være malet af en gal mand !(狂人にしか描けなかっただろう)」という鉛筆による書き込みがかすかに見える。ムンクの日記には「友達二人と道を歩いていた──太陽が沈もうとしていた──物憂い気分のようなものに襲われた。突然、空が血のように赤くなった──僕は立ち止まり、フェンスにもたれた。ひどく疲れていた──血のように、剣のように、燃えさかる雲──青く沈んだ港湾と街を見た──友達は歩き続けた──僕はそこに立ったまま、不安で身をすくませていた──ぞっとするような、果てしない叫びが自然を貫くのを感じていた」(図録『ムンク展』1997、p.58)と記されている。ムンクの心像とも見える人物のおののく様子を、遠ざかる2人は気づきもしない。自然の移ろいは、言いようのない神秘と不安に満ち、生命に対する恐れをムンクは過敏に感じとっていた。心の内的映像を表現している。《叫び》は全5点(1893・テンペラ、1893・パステル、1895・パステル、1895・リトグラフ、1910?・テンペラ)が存在する。この作品は、ムンクが連作とした「生のフリーズ」を構成する一作品であり、裏面には同じモチーフのラフ画が描かれている。ムンクの代表作。
光景と心理が共振する
ムンクは、ひとつの作品を独立したものではなく、複数の作品をひとつの作品として見ることが重要であると考えていた。そのため作品が販売されて手元に作品がなくなると、その代りを描いた。《叫び》にバリエーションがあるのは、そのイメージが手元に必要だからであった。
《叫び》について田中氏は、「この《叫び》には『狂人にしか描けなかっただろう』と書き込みがある。ムンクの筆跡か、他人が書いたのかは不明だが、ムンクの生前に書かれており、ムンクはその言葉を消すことはなかった。絵を見ている人たちはこの言葉に誘導される。実はムンクはこの絵を2年間かけて描いている。試行錯誤を繰り返した理知的な絵であり、狂った人間が勢いで描いたものではない。自然の光景と人物の心理とが共振しながら、どこからともなく叫び声が響き、そして人物も叫んでいる。その人物の身体は、不安によって自己の存在が脅かされ、血のような赤い空の下で揺らいでいる。また、空や海と対照をなすのが、極端な遠近法によって描かれた道。画面に鋭い緊迫感を与え、2人の人物が一気に遠ざかり、離れ去って行ったかのような効果をつくり出している。そのため前景で叫ぶ人物の孤独感が、いっそう強調されることになる。絵の右端にある茶色の奇妙な柱部分については解明されていないが、ムンクは本当は切りたかったところを色を塗って終わらせてしまったと思う。額縁で隠す方がムンクは嬉しいかもしれないが、そのままにしている。テンペラなどの画材についてもその真意はわからない。狂人にしか描けなかったとは、いままでの絵画の歴史にはない、誰もなしえなかった新しい独特な表現をつくり出したことに対する、ムンク自身の自負の表われととらえた方がいいだろう。《叫び》の舞台となった場所は『エーケベルグの丘』と言われるが定かではない」と語った。
高階秀爾は「われわれは『叫び』の画面の前に立つ時、ムンクのその不安とおののきを、はっきりと感じ取ることができる。いったいムンクの感じた不安の正体とは、何だったのだろうか。それは、強いて言うなら、ムンク自身の心のなかにあった不安としか言いようがない」(高階秀爾『続 名画を見る眼』p.126)と記している。
実存的な葛藤
日本ではこれまで「ムンク展」は、神奈川県立近代美術館(1970)、東京国立近代美術館(1981)、出光美術館(1993)、世田谷美術館(1997)、そして、2007年の田中氏が国立西洋美術館で担当した「ムンク展」と続いてきた。田中氏は、「愛と死と苦悩と狂気という、いままでムンクに用いられてきた言葉を使わない、新しいムンクの世界を企画しようと思った」と言う。
ムンク作品を「デコラティブ(装飾)」という概念でとらえようとする、新しい視点による研究があることをアメリカ留学のときに知った田中氏。装飾という問題は、西洋近現代美術史で長く見過ごされてきたテーマだった。個人の内面の表現という作品理解の仕方とはまったく違う、社会・政治とも結びつく観点が出てくる。ムンクが考えていた「生のフリーズ」の装飾展示を、日本で再現しようと田中氏はチャレンジした。そして2007年の「ムンク展」は「デコラティブ」の問題を示す内容となった。
田中氏は「ムンクは絵を描き、文章も発表し、展示にも凝る。自己の名声をどうやってつくるかをしたたかに考えた人。ムンクという画家はまだまだとらえ直すことができる」と述べた。ムンクを「狂気の画家」と見なすようにしたのは、ムンク自身の巧妙な自己演出によるものだった。
戦争が続いた世紀末、ムンクは鋭敏な感受性によって人間の内部に存在する神秘をとらえた。ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)やデンマークの哲学者セーレン・キルケゴールの主張と響きあい、ノルウェーの劇作家ヘンリック・イプセンと重なり合う世界を絵に描いた。「彼らはみな、現代社会のなかで生きる人々の実存的な心理的葛藤への思索を深め、とらえようとしていた」と田中氏。《叫び》はその象徴的な作品だ。現代人の得体の知れない不安を、ムンクの不安が鏡となって希望の光につなげてくれるかもしれない。
東京都美術館にて「ムンク展──共鳴する魂の叫び」(2018.10.27〜2019.1.20)が開催される。本作は展示されないが、オスロ市立ムンク美術館が所蔵する1910年作と伝わる《叫び》が初来日する。
田中正之(たなか・まさゆき)
エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献