アート・アーカイブ探求
フィンセント・ファン・ゴッホ《星月夜》──祈りの風景「圀府寺 司」
影山幸一
2018年12月15日号
※《星月夜》の画像は2018年12月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
宇宙へ届けられる魂
2023年にはベンチャー企業家や画家、音楽家などの民間人が、世界初の月旅行へ出るのだという。「地球は青かった」と言葉を残したガガーリンが、単身で世界発の宇宙飛行をしたのは1961年。月面に第一歩を踏み下ろしたアームストロングは、1969年「ひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」と言った。それから約半世紀。アーティストを乗せた宇宙船が、壮大な旅に出る。無限に広がる漆黒の宇宙では、何が見えて、何が聞こえてくるのだろうか。宇宙を少し身近に感じる今日この頃。フィンセント・ファン・ゴッホの《星月夜》(ニューヨーク近代美術館蔵)が思い浮かんできた。
夜空に三日月と星がこうこうと黄色く輝き、山並みや村の様子までが鮮明に描かれている。夜にもかかわらず、地上は昼の景観だ。月と太陽が合体したのであろうか、昼夜が一体となった時間のない世界に、空には天の川のような気流が渦巻いている。情感こもる線描の細かいタッチと鮮やかな色彩。赤い屋根の家の脇に一本の大きな木が立ち、教会の尖塔と呼応しながら青い天空を指している。地表の魂が宇宙へ届けられて星になっていくようだ。ファン・ゴッホは何を見ていたのだろう。
大阪大学教授の圀府寺(こうでら)司氏(以下、圀府寺氏)に、ファン・ゴッホの代表作である《星月夜》の見方を伺いたいと思った。圀府寺氏は、日本のゴッホ研究の第一人者として『ファン・ゴッホ──自然と宗教の闘争』(小学館)や、『ゴッホ──日本の夢に懸けた芸術家』(角川書店)など多数の著作のほか、美術館でのゴッホ展の企画・監修などもされている。新幹線で大阪へ向かった。
将来を決めた『名画を見る眼』
地下鉄とモノレールを乗り継ぎ大阪大学の豊中キャンパスに着くと、さまざまな形の棟が並ぶ高低差のあるキャンパスで迷いそうになったが、無事に芸術研究棟へ到着。圀府寺研究室のドアをノックすると、圀府寺氏がすぐに出てこられ、西洋美術史研究室で応対していただいた。
子どもの頃から絵を描くのが好きだった圀府寺氏は、幼稚園から小学5年生くらいまでお絵かき教室に通っていたという。絵を描いては絵の内容を説明し、母親は根気よく聴いてくれて、それがいまの原点になっているかもしれない、と圀府寺氏。しかし、中学・高校と野球少年になり、甲子園出場を目指すほどの意気込みだったが、高校1年のときに推薦図書だった高階秀爾の『名画を見る眼』(岩波書店)を読んで、美術について語るという仕事を初めて知り、圀府寺氏の将来は決まった。
一刻も早くフランスへ留学と考えていた圀府寺氏は、大阪大学文学部美学科へ入学した。そして卒業論文をファン・ゴッホと決めて、学部3年生のときにヨーロッパへ1カ月ほどひとり旅に出た。ファン・ゴッホは10代前半から気になる画家だったが、1978年にオランダの美術史家ヤン・フルスカー(1907-2002)著の日本語版『ヴァン・ゴッホ全画集』(講談社)が出版されて、とりあえず基礎文献はあるからという理由もあった。
アムステルダムへ行くとファン・ゴッホ美術館では、予約もせずに行った日本の学生にファン・ゴッホ兄弟が収集した四百数十点の日本の浮世絵を収蔵庫で全部見せてくれた。圀府寺氏は、行く先々でオープンなオランダが面白いと思った。大阪大学の大学院へ進み、アムステルダム大学美術史研究所へ留学。オランダ語の辞書が日本にない時代で、アメリカ人向けのオランダ語教材を買い、2年の予定がファン・ゴッホの博士論文を書くことをすすめられて、7年間の滞在となった。その博士論文に対し、1989年オランダ・エラスムス財団よりエラスムス研究賞が与えられた。
初めて《星月夜》を見たのは、1985年のニューヨーク近代美術館だった。「絵具の状態がとてもよくびっくりし、そして予想どおりいい作品と思った。傑作の定義を個人的につくっている。作品がたくさん言葉を吸い寄せて、絵の前に言葉が充満するのが傑作だと思っており、謎が残っている必要がある。《星月夜》はこの傑作の条件を揃えていた」と圀府寺氏は述べた。
ドミノクラシーに育まれる
フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年オランダ南部のフロート・ズンデルトの村で、プロテスタントの牧師だった父テオドルス・ファン・ゴッホと、母アンナ・コルネリア・カルベントゥスの三男三女の長男として生まれた。ちょうど1年前に生まれた兄は死産だった。牧師になるためにアムステルダム大学の神学部を目指して、家庭教師にラテン語、ギリシア語を教わっていた。
19世紀のオランダの牧師たち、特に「牧師詩人」と呼ばれた人々がオランダ文化を支配していた時代は、オランダ語でプロテスタントの牧師を意味する「ドミネー」からの造語で「ドミノクラシー」と呼ぶ。牧師たちは神学者や説教師の仕事のほか、ゲーテやアンデルセンなど外国の近代文学を翻訳し、芸術雑誌を刊行した。芸術から自然科学にわたる広範なテーマについて講演をする文化的指導者でもあった。
この牧師文化・ドミノクラシーの時代に牧師の息子として育ったファン・ゴッホ。気難しい性格が災いして中学校を中退、16歳のときに伯父が経営するグーピル画廊に入社。ハーグ支店、ロンドン支店、パリ本店と転勤して順調に見えたが、ロンドン時代の失恋が精神的ダメージとなり、聖書の研究に没頭するようになった。7年ほど勤めた会社から解雇を宣告され、聖職者や伝道師になろうとするが挫折する。
ドミノクラシー時代から近代文化への移行期に入り、ファン・ゴッホは失意のなか、各地を転々としながら絵を描くようになった。1880年ファン・ゴッホ27歳、画家になることを決意。グーピル画廊に就職していた4歳下の弟のテオが経済的・精神的に支援を続けてくれ、風景画で成功した義理の従兄のアントン・マウフェ(1838-1888)に手ほどきを受けるなど、絵画技法を習得していった。しかし、親身に接していたマウフェも徐々に手を焼くようになり、ファン・ゴッホ29歳のとき関係は解消された。このマウフェとの同時期に、ファン・ゴッホは従姉で未亡人のケー・フォス=ストリッケルと、娼婦のクリスティーヌと二度の失恋を経験している。
1885年、ジャン・フランソワ・ミレー(1814-1875)やレンブラント・ファン・レイン(1606-1669)らによる、人々の生活を描いた作品に感銘を受け、ファン・ゴッホはフランス自然主義文学に傾倒し、ベルギーのアントウェルペンにある王立芸術学院に入学した。しかし教師と衝突して長くは続かなかった。
ポスト印象派へ
1886年33歳になったファン・ゴッホはパリ行きを決めた。パリで画商をしていたテオから刺激的な情報がもたらされ、テオと一緒に暮らし始める。印象派ポール・ゴーガン(1848-1903)、ポール・シニャック(1863-1935)らとも親交を深めていった。また、画商ビングの店の屋根裏で1万枚を超える浮世絵を見る機会に恵まれ、絵具商のジュリアン・タンギーとも出会い、浮世絵で背景を埋め尽くした《タンギー爺さんの肖像》(1887)を描いた。これを機にファン・ゴッホはジャポニスムの旗手としての道を歩み始めていく。しかし、作品は1点も売れず、パリの生活に疲れ、1888年パリから南仏の田舎町アルルへ向かった。
のクロード・モネ(1840-1926)や、新印象派 のジョルジュ・スーラ(1859-1891)などの作品に接し衝撃を受ける。画家フェルナン・コルモン(1845-1924)の画塾に入り、アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレック(1864-1901)やエミール・ベルナール(1868-1941)らの前衛画家と出会い、カミーユ・ピサロ(1830-1903)、陽光と色彩にあふれるアルルで、ファン・ゴッホはパリ時代に養った感性が花開き、生涯で最も希望に満ちた時間を過ごした。パリで意気投合したゴーガンを招き、通称「黄色い家」で共同生活をスタートさせた。タイプの異なる2人だったが、新しい芸術を求めて認め合う部分も多く、見えるものしか描けなかったファン・ゴッホは、ゴーガンから目に見えないものを想像で描くことの重要性を教えられた。しかし、ゴーガンはわずか2カ月でパリへ帰った。ファン・ゴッホが剃刀を持ってうしろからゴーガンをおどそうとし、睨まれたファン・ゴッホは家に戻り、左耳を切り取って馴染の娼婦に届け、血まみれになって倒れていた、とゴーガンが伝えている。だがその真実はわからない。
その後、ファン・ゴッホは幻覚に苦しむようになると、自ら南仏のサン・レミにある精神病院サン・ポール・ド・モーゾール療養院へ入院した。1889年5月からの約1年間の入院生活中に《星月夜》を含む140点以上を描き、その多くが名作となった。療養院を退院するとパリ近郊のオーヴェール・シュル・オワーズで療養し、アマチュア画家でもあるポール・フェルディナン・ガシェ医師の診察を受け、徐々に回復に向かい2カ月間で80点以上の絵を仕上げた。しかし、1890年7月27日銃弾を腹に受けて重症。自殺とみられるが他殺説もある。2日後の29日テオに抱えられて永眠、享年37歳。10年間の波瀾の画業のなかで、明るい色彩と光をとらえた独自のタッチを生み出し、デッサン、石版画、油彩画とポスト印象派
の画家として2,000点以上の作品を残した。現在、オーヴェールの共同墓地にテオとともに埋葬されている。
【星月夜の見方】
(1)タイトル
星月夜(ほしづきよ)。ファン・ゴッホ自身はテオとの手紙のなかで「星空の夜」と呼んでいた。英題:The Starry Night
(2)モチーフ
金星を含む11の星、月、空、山、糸杉、教会、家。
(3)制作年
1889(明治22)年6月。「耳切り事件」の半年後に描かれたファン・ゴッホ36歳の作品。
(4)画材
キャンバス・油彩。顔料は、夜空にはウルトラマリンとコバルトブルー、星や月にはインディアンイエローと亜鉛イエロー、カドミウムイエロー、エメラルドグリーン、糸杉にはアンバー、プルシャンブルーなどが使われている。
(5)サイズ
縦73.7×横92.1cm。同サイズで対の作品として考えられているのが《アルピーユ山脈を背景にしたオリーブ園》(72.6×91.4cm、1889、ニューヨーク近代美術館蔵)。
(6)構図
画面の上部3分の2を空が占め、中央にS字形をした気流のようなものが躍動感を生んでいる。前景には北ヨーロッパで死を象徴するといわれる糸杉をクローズアップし、背景の教会や星空との対照によってダイナミックに遠近感を表している。なだらかな山脈の稜線に対し、垂直に伸びた糸杉が十字を切る。
(7)色彩
黄、青、緑、白、赤、茶、灰、黒など多色。彩度の高い明るく鮮やかな色彩。
(8)技法
南仏サン・レミのサン・ポール・ド・モーゾール療養院の2階から、夜明け前に東側のアルピーユ山脈の上空を眺めた星と月の記憶イメージ。そこに架空のオランダ風の教会と村の風景を配置した。印象派の影響を受けて明るい発色の絵具を用い、規則的に短い筆致で描いている。絵肌に絵具の凹凸はあるが、意外にもキャンバス地が見える部分があり、薄塗りの箇所もある。
(9)サイン
なし。
(10)鑑賞のポイント
サン・レミの療養院の2階の病室から明け方の東の空を見た記憶をもとに描いたといわれている。曲線を用いた炎のような糸杉と、直線で描かれた教会の塔が呼応する。しかし、実際には村や教会はなく、天空に渦巻いている天の川のようなものは謎である。ファン・ゴッホは、アルル時代(1888.2〜1889.5)に青と黄色を基調色とした唯一の宗教画《オリーブ園のキリストと天使》を描いたが、失敗作として二度にわたって掻き削ってしまい、この絵は現存しないと思われる。キリストは青、天使は黄色だったことがテオとの手紙からわかっており、その色は《星月夜》の色と一致する。《星月夜》と合わせてファン・ゴッホの手紙のなかで触れることが多いのが《アルピーユ山脈を背景にしたオリーブ園》で、この作品と《星月夜》の2点は対であると考えられている。キリストがユダの裏切りによって捕縛される前に、星空の下で祈りながら苦悩し、天使が現われて力添えをする場面である。聖書の主題「ゲッセマネ
ゲッセマネの苦悩
《星月夜》は謎めいた絵であると圀府寺氏は言う。これまで精神病による幻覚の場面と説明されたり、宗教的に聖書の一節との関連が指摘されたり、近年では当時の星空をプラネタリウムで再現した天文学的な視点からの研究など、解釈は揺れてきたそうだ。
圀府寺氏は「《星月夜》を描く前年にファン・ゴッホは、キリストの苦悩の場面である《オリーブ園のキリストと天使》という宗教画を描いている。模写を除けば自分自身のイニシアティブで宗教画を描いた唯一の作品。二度にわたって掻き削っており、その絵は現在残っていないが、色の記述が残っている。キリストが青で、天使が黄色。アメリカの美術史家であるローレン・ソウスは《オリーブ園のキリストと天使》と《星月夜》が同一の根源的なテーマを持っていると指摘した」と述べた。
ファン・ゴッホの手紙を読んで研究したソウスは、《星月夜》と《アルピーユ山脈を背景にしたオリーブ園》は常にセットで記述され、2点が同じサイズでもあることから探求を深めて行き、そしてこの2点がキリストの祈りの苦悩を表わした絵画作品であると解釈。根拠のひとつに1888年のファン・ゴッホの手紙の一節
を示している。キリストがゲッセマネで祈りを捧げるときの苦悩を、ファン・ゴッホは自分に重ね合わせた。宗教的・聖書的な主題は使わず、自然のモチーフ、色彩、形態だけでその祈りの苦悩を表現しようとした。
宗教と自然の葛藤
圀府寺氏は「ソウスの解釈が最もバランスが取れている。結局最後に収斂していったのは、キリスト教と自然主義との葛藤、宗教と自然の葛藤にほかならない。ファン・ゴッホは手紙に『《星月夜》が〈ロマン主義的、あるいは宗教的な観念への回帰〉ではなく、むしろ〈純粋な田園の自然〉の表現なのだと強調する』(圀府寺司『ファン・ゴッホ』p.241-243)と記している。また、エミール・ゾラ(1840-1902)の文学作品『ムーレ神父の罪』(1875)のなかに出てくる小さな村の教会が巨大な木に圧倒され、木は星に届くという幻覚場面が奇妙に《星月夜》と類似している。両者には宗教と自然という共通のテーマがある。そして『イエスの生涯』の著者エルネスト・ルナン(1823-1892)の名が、この絵について記述したテオとの手紙のなかに現われることも、《星月夜》が宗教の自然化という19世紀的コンテクストのなかでとらえられる。科学と産業革命の台頭で、教会離れが始まった世俗化の時代でもあった。不安や緊張感を取り除くため、人は自然にすがりついた。自然という名前の代替宗教であった。ファン・ゴッホは、教会は軽蔑しているけれども、宗教的な心は持っており、キリストに対しても尊敬の念を持ち続けている。しかし宗教的図像も描きたくない。ファン・ゴッホには葛藤があって、その葛藤のなかで出てきたのが《星月夜》」と語った。 ファン・ゴッホの沸騰するような内面感情が、神を感じさせる自然に触れて、祈る心の風景《星月夜》が描出されていった。
圀府寺 司(こうでら・つかさ)
フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)
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【画像製作レポート】
参考文献