アート・アーカイブ探求
サンドロ・ボッティチェリ《プリマヴェーラ(春)》──清福のステップ「小佐野重利」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2019年01月15日号
※《プリマヴェーラ(春)》の画像は2019年1月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
春と出会う
思いがけない出会いだった。《プリマヴェーラ(春)》との邂逅は、イタリア・ウフィツィ美術館で行なわれた所蔵作品のデジタル撮影現場に立ち会う幸運に恵まれてのことであった。作品の埃を丁寧に払いながら、時間をかけて進められる休館日の撮影の場に観光客はおらず、美術館を独占したような静かな空間での対面となった。サンドロ・ボッティチェリの《プリマヴェーラ(春)》は見る者を包み込む大きさで迎えてくれた。等身大の人物像の迫力に対する色彩表現の繊細さ、装飾的で温かく柔らかいルネサンス期の西洋画に、透明感のある上村松園(1875-1949)の日本画の色使いを思い出し、違和感なく見入ってしまった。美しさと優しさが調和する絵画に出会うと、時を経て忘れてしまうことがあるが、15年を経過してもあの感動のひとときは甦ってくる。
プリマヴェーラは、イタリア語で「primavera」、つまり春のことだが、この絵には春が来た喜びの絵にとどまらない深遠な美がありそうだ。果樹林のアーチに立つ中央の女性に後光が射しているようだが眼差しは遠く、花を撒く裸足の女性の表情も冷静だ。なぜか女性はみな妊婦のようにお腹が膨れている。華麗なる《プリマヴェーラ(春)》に秘められたものは何なのか。東京大学大学院教育学研究科特任教授でイタリア中世・ルネサンス美術を専門とする小佐野重利氏(以下、小佐野氏)に《プリマヴェーラ(春)》の見方を伺ってみたいと思った。
小佐野氏は『西洋美術の歴史4 ルネサンスⅠ──百花繚乱のイタリア、新たな精神と新たな表現』(共著、中央公論新社、2016)を出版し、「ウフィツィ美術館展」(2014)や「ボッティチェリ展」(2016)の監修を務められている。東京大学の赤門に隣接する赤門総合研究棟へ向かった。
東洋史から西洋美術史への覚悟
イチョウの落葉が黄色の絨毯のように敷き詰められた東京大学の校内は美しく、青空の下で観光客が楽しそうに写真を撮っていた。富士の裾野で野球やスケートをして子ども時代を過ごしていたという小佐野氏は、山梨県の河口湖畔に生まれた。歴史好きでシルクロードの敦煌(とんこう)や楼蘭(ろーらん)などに憧れて、東京大学文学部の東洋史学へ進学。
イタリア人のマルコ・ポーロ(1254-1324)の旅行記『東方見聞録』を原著で読みたいと思い、東洋史研究者になる予定だった。ところが東洋史学へ進学すると、中国古代史の西嶋定生(1919-1998)先生から不可をもらってしまった。暗澹とした思いもあったが、一方で、駒場の教養課程で、美学者の小林太市郎(1901-1963)の本を読んだことから美術にも関心を持ち始めた。「美術は高尚なもので、私のような田舎者が関心を持つものではないという先入観が高校時代まであった」という。イタリア語を学んでいた小佐野氏だったが、マルコ・ポーロの初版本がフランス語だったことをあとで知る。
小佐野氏は1975年、大学3年生の終わりに東洋史から美術史へ転専修したいと、西洋美術史の前川誠郎(1920-2010)先生のところへお願いに行った。前川先生は「君の真意がよくわからん。一度卒業して学士入学をしなさい」と。追い返された小佐野氏は、4年生になり、学士入学の方法を伺いに行くと、今度は「決心したのか。しかし、うちの研究室は学士入学を受け入れていないことをすっかり忘れていた」と平然とおっしゃった。狐につままれた気がしたという小佐野氏だが、結局3年生から美術史をやり直す条件で転専修を認めてもらう。そして15世紀イタリア美術史、なかでも国際ゴシック様式
の画家であるピサネッロ(1395頃-1455頃)や、その周辺のヴェローナ絵画の研究をはじめ、4年間前川先生に鍛えられた。その後、20年ほど時が経った1998年に中国古代史の西嶋先生が亡くなられた。西洋美術史の前川先生から小佐野氏の自宅に電話があった。「西嶋先生が亡くなったね。やぁ、彼のことで君のことを思い出すんだよ。君が東洋史から美術史に移りたいと言ったときのことだ。西嶋君と、君の覚悟のほどをじっくり試すことにしようかと相談したのだよ」と話された。東京大学の文学部教授になっていた小佐野氏は、恩師の結託話をここで知った。前川先生の深慮をありがたく思い、不肖の弟子の理解の至らなさに恥入り、仏さまの温かい掌に抱かれてきたような気持ちになったそうだ。
メディチ家の画家となる
サンドロ・ボッティチェリは、1444年頃にイタリア・フィレンツェの革なめし職人の四男に生まれた。本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピだが、酒樽のように太っている長男のボティチェロ(小さな樽)というあだ名が、弟であるサンドロ(アレッサンドロの略称)の呼称となり、サンドロ・ボッティチェリとなった。
ボッティチェリは、最初次男の仕事と同じ金細工の工房に入門したが、15歳頃画家のフィリッポ・リッピ(1406-69)に弟子入りする。その7年後アンドレア・デル・ヴェロッキオ(1435頃-1488)の工房に参加し、7歳ほど年下のレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)と出会う。二人の記録が残っていると小佐野氏。ダ・ヴィンチは、ボッティチェリに対して「遠近法がわかっていない。風景の勉強をしようとしなかった」と苦言を呈したが、ボッティチェリは「水に浸したスポンジを壁に投げればそこに風景ができる」と返した。
二人の師であるヴェロッキオは、メディチ家のお抱え彫刻家であり、ボッティチェリはロレンツォ・イル・マニーフィコ(豪華王とも。1449-92)が、当主時代にメディチ家の画家となった。キリスト教思想と古代思想とを統一融合しようとした新プラトン主義
の考えが広まっており、ボッティチェリもその影響を受けた。フィレンツェを基盤に商業と金融で勃興したメディチ家であるが、フィレンツェを実質的に統治していたロレンツォ自身が作詩、作曲をする文化人でもあり、15世紀に全盛を迎える。
青春の美
1478年、メディチ家の転覆を企てたパッツィ家の陰謀事件が起きた。メディチ家の当主ロレンツォは難を逃れたが、弟のジュリアーノ(1453-78)が暗殺された。見せしめに事件の首謀者8人は処刑され、ボッティチェリにその絞首刑の図を描くように命が下る。メディチ家を支援していたフィレンツェ市民の怒りはそれだけでは収まらず、100人近いパッツィ家の人々が処刑された。パッツィ家を支持するローマ教皇シクストゥス4世(1414-1484)は陰謀への関わりを否定したが、メディチ家の振る舞いに激怒してフィレンツェ市民が教会へ行くことを禁じた。1481年にシクストゥス4世は禁止令を解き、システィーナ礼拝堂の壁画を描くため、ボッティチェリ、ペルジーノ(1448頃-1523)、ドメニコ・ギルランダイオ(1449-1494)、コジモ・ロッセリ(1439-1507)を招く。フィレンツェの画家たちをロレンツォがローマへ派遣したことにより、メディチ家と教皇は和解。芸術による政治を行なったロレンツォは1492年に死去した。フィレンツェの黄金時代が幕を閉じた。
師匠フィリッポ・リッピの息子のフィリッピーノ・リッピ(1457?-1504)を徒弟として工房を開いていたボッティチェリであるが、晩年は宗教主題の作品が多く、世俗画も描いていた。1510年、生家の近くにあるオニサンティ聖堂墓地に眠る。享年65または66歳。15世紀後半のルネサンス美術を代表する画家であった。
没後はラファエロやミケランジェロが一般にもよく知られ、ボッティチェリは忘れ去られていった。《プリマヴェーラ(春)》は、理性による野蛮の統御を描いた《パラスとケンタウロス》(1482頃)とともに、ロレンツォの又従弟(またいとこ)であるピエール・フランチェスコ(1463-1503)の部屋にひっそりと置かれていた。ボッティチェリの再発見は、19世紀のイギリス人たちによってであった。文学者ジョン・ラスキン(1819-1900)やラファエル前派の画家ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1827-1882)、ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-1896)らによって、そこはかとない艶かしさと、清々しさをあわせ持つ青春の美が再評価されたのである。
【プリマヴェーラ(春)の見方】
(1)タイトル
プリマヴェーラ(春)(ぷりまべーら・はる)。英題:The Primavera (Spring)
(2)モチーフ
9人に擬人化された神々、花、草、木、オレンジ。バラ、スミレ、アネモネ、タンポポ、ナデシコ、ヒナギク、シダなど40種類以上の草花が描かれている。
(3)制作年
1478年~1482年頃。ボッティチェリ33歳~37歳頃の作品。
(4)画材
板・テンペラ。
(5)サイズ
縦203×横314cm。
(6)構図
演劇の舞台を思わせる人体像の配置が正面性を強調しているが、奥行感は少なく平面的な構図。西洋画では横長の画面の場合、一般的には左から右に移行するが《プリマヴェーラ(春)》は右から左へ展開している。
(7)色彩
白、赤、オレンジ、緑、深緑、青、水色、黄、ベージュ、ピンク、金、紫、茶、灰、黒など多色。
(8)技法
板の上にジェッソ(石膏)を塗り、その白い地色が映えるように薄塗りを重ねて透明感を出している。日本でいう裏彩色のような効果が出る。
(9)サイン
なし。ボッティチェリの作品にはサインがほとんどない。
(10)鑑賞のポイント
草花が萌え出す春の訪れの過程を寓話的に描き出している。美と愛の女神ヴィーナスの領地に神々が集う様子を擬人化した。右から登場してくる好色な西風の神ゼフュロスが頬を膨らませて、暖かな西風を凍てついた大地に吹き、大地の女神クロリスに触れる。その瞬間春となり、クロリスの口元からは花が溢れ出し、花柄の衣装をまとった花の女神フローラに変貌する。薄物をまとい手を組んで輪舞する三美神は、ルネサンスの生み出したもっとも優美な女性像と言われる。個性的な髪の結い方に当時のヘアスタイルを見るようだ。花の女神フローラと三美神を象徴するように、中央でヴィーナスが春の到来を統治し、ヴィーナスの子で恋愛の神であるキューピッドは目隠をして矢を射る。「矢は三美神の真ん中の女性を狙っている。ルネサンス、あるいは古代の図像を知っていれば三美神の二人は既婚者。それで既婚者は、真珠の首飾りやペンダントを付けたりと宝飾で飾る。背中を向けている女性だけが何も付けていない。キューピードの矢はそこを狙っていることがわかる」と小佐野氏。質素で清らかな「貞節」(中)が「愛」(左)との接触によって「美」(右)に生まれ変わる。左には伝令神メルクリウスが2匹の蛇の絡み付いた杖(カドゥケウス)で空の雲を払う。詩人アンジェロ・ポリツィアーノ(1454-1494)の詩「ジョストラ(馬上槍試合)」などから着想を得たとされている。ルネサンス美術を代表するボッティチェリの名作。
白樺派と《松浦屏風》
ボッティチェリを日本でもっとも早く受容したのは、人道主義・理想主義を標榜した近代文学の白樺派の人たちだと小佐野氏は言う。明治43(1910)年に創刊された雑誌『白樺』を読んでいた美術史家の矢代幸雄(1890-1975)は、ボッティチェリ研究の成果を英文で書き、ロンドンのMedici Societyより『Sandro Botticelli』(1925)全3巻を刊行した。ボッティチェリ研究で成果を上げていた矢代は、ヨーロッパ留学から帰国後、美術研究所(現 東京文化財研究所)の設立に参画し、大和文華館では初代館長に就任した。
大和文華館で矢代が買い入れた作品のひとつに、《松浦屏風(婦女遊楽図屏風)》がある。矢代はこの作品を国宝に導いた。重要文化財で特に学術的価値が高く、美術的に優れた文化史的意義の深いものが国宝として指定される。しかし、この国宝作品に疑問の声が上がっている、と小佐野氏は言う。「《松浦屏風》は、《プリマヴェーラ(春)》と同じように人物が横に並び、類似性がある。おそらく矢代の念頭に置かれた《プリマヴェーラ(春)》が《松浦屏風》を国宝にまでしたのだろう」。
矢代の大著『日本美術の特質』では、喜多川歌麿(?- 1806)とボッティチェリとを比較している。「歌麿の描く女には着ている着物にまで女体の神経が憑(のりうつ)り、着物自身に人間感覚が移転したように、不思議に着物が生きているのである。ボッティチェリの女の着物の描き方とその特別なる美しさが、まさにそれである」(矢代幸雄『日本美術の特質』p.670)。矢代の脳裏から離れなかった、その特別なる美しさは、《松浦屏風》をも東洋の《プリマヴェーラ(春)》に見せたのかもしれない。美と愛の女神ヴィーナスが統治した《プリマヴェーラ(春)》は矢代をも魅了していた。
青、そして指
ボッティチェリの描写の特徴について「線描と色彩が優れている。彼自身の繊細さがあるが、兄が金細工師ということもあって、金の細かい表現には本物の金を使い、ライトをかざすと輝きを発する。とりわけ目を引くのがボッティチェリの青。ラピスラズリを使った青色だ。その一方で、手の指の描き方はごつく節くれ立ち、爪の回りを輪郭線で縁取る特徴がある。指に焦点を置きボッティチェリ作か、工房作かと研究した19世紀の研究者がいた」と小佐野氏は語る。
「ルネサンス時代には、ダンスが良家の子女の礼儀作法であり、習いごとだった。通常ルネサンス舞踏は、女性ひとりに男性が二人、あるいは女性二人で男性がひとり。2対1の関係の3人で踊る。《プリマヴェーラ(春)》は、ひとりの舞踏家のステップを統合し、女性三人の三美神として表現したものだろう。裸足の足元を見るとダブルステップと一回転という『バッサ・ダンツァ
』の舞踏の動作のようだ」と小佐野氏は《プリマヴェーラ(春)》を踊りから読み解く。また、メディチ家の当主ロレンツォは、田園の詩を書き、自作のバッサ・ダンツァを2曲残し、そのひとつがヴィーナスの曲だった。ロレンツォがこの絵に関与していたことはほぼ間違いないとし、自分のためか、あるいは1482年7月に結婚した又従弟にあたるピエール・フランチェスコのために描かせたのか、《プリマヴェーラ(春)》の注文主は定かではないという。主題は、諸説あるという小佐野氏は「まさに春の象徴ととらえるか、野原にアイリスが群生していたフィレンツェに町が生まれて、フィレンツェ市紋章の意匠が「剣ユリ(fleur-de-lis)」になった、という伝承から花の都フィレンツェを讃美したことも想像できる。また、1478年のパッツィ家の陰謀事件でメディチ家当主ロレンツォの功績によって、メディチ家と教皇が和解し、フィレンツェに春の時代が生まれたという解釈もできる。フィレンツェの美術史家クリスティーナ・アチディーニ(1951-)のとらえ方が現代的であろう」と言う。アチディーニは《プリマヴェーラ(春)》を「ギリシア・ローマの神話から引き出した人物たちを通して、近い時期に幸福な結末へと至った出来事に照らしてメディチ家とフィレンツェを寓意的に称揚するものと解釈される」(『ボッティチェリ展』図録、p.17)と記している。神々が集う美と愛のヴィーナスの領国では優美な輪舞が披露され、清福の風が吹きはじめ、季節は巡る。
小佐野重利(おさの・しげとし)
サンドロ・ボッティチェリ(Sandro Botticelli)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献