2019年05月15日号
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アート・アーカイブ探求

サンドロ・ボッティチェリ《プリマヴェーラ(春)》──清福のステップ「小佐野重利」

影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)

2019年01月15日号

サンドロ・ボッティチェリ《プリマヴェーラ(春)》1478-82年頃、板・テンペラ、203cm×314cm、ウフィツィ美術館蔵
Photo: Bridgeman Images / DNPartcom 無許可転載・転用を禁止

春と出会う

思いがけない出会いだった。《プリマヴェーラ(春)》との邂逅は、イタリア・ウフィツィ美術館で行なわれた所蔵作品のデジタル撮影現場に立ち会う幸運に恵まれてのことであった。作品の埃を丁寧に払いながら、時間をかけて進められる休館日の撮影の場に観光客はおらず、美術館を独占したような静かな空間での対面となった。サンドロ・ボッティチェリの《プリマヴェーラ(春)》は見る者を包み込む大きさで迎えてくれた。等身大の人物像の迫力に対する色彩表現の繊細さ、装飾的で温かく柔らかいルネサンス期の西洋画に、透明感のある上村松園(1875-1949)の日本画の色使いを思い出し、違和感なく見入ってしまった。美しさと優しさが調和する絵画に出会うと、時を経て忘れてしまうことがあるが、15年を経過してもあの感動のひとときは甦ってくる。

プリマヴェーラは、イタリア語で「primavera」、つまり春のことだが、この絵には春が来た喜びの絵にとどまらない深遠な美がありそうだ。果樹林のアーチに立つ中央の女性に後光が射しているようだが眼差しは遠く、花を撒く裸足の女性の表情も冷静だ。なぜか女性はみな妊婦のようにお腹が膨れている。華麗なる《プリマヴェーラ(春)》に秘められたものは何なのか。東京大学大学院教育学研究科特任教授でイタリア中世・ルネサンス美術を専門とする小佐野重利氏(以下、小佐野氏)に《プリマヴェーラ(春)》の見方を伺ってみたいと思った。

小佐野氏は『西洋美術の歴史4 ルネサンスⅠ──百花繚乱のイタリア、新たな精神と新たな表現』(共著、中央公論新社、2016)を出版し、「ウフィツィ美術館展」(2014)や「ボッティチェリ展」(2016)の監修を務められている。東京大学の赤門に隣接する赤門総合研究棟へ向かった。


小佐野重利氏

東洋史から西洋美術史への覚悟

イチョウの落葉が黄色の絨毯のように敷き詰められた東京大学の校内は美しく、青空の下で観光客が楽しそうに写真を撮っていた。富士の裾野で野球やスケートをして子ども時代を過ごしていたという小佐野氏は、山梨県の河口湖畔に生まれた。歴史好きでシルクロードの敦煌(とんこう)や楼蘭(ろーらん)などに憧れて、東京大学文学部の東洋史学へ進学。

イタリア人のマルコ・ポーロ(1254-1324)の旅行記『東方見聞録』を原著で読みたいと思い、東洋史研究者になる予定だった。ところが東洋史学へ進学すると、中国古代史の西嶋定生(1919-1998)先生から不可をもらってしまった。暗澹とした思いもあったが、一方で、駒場の教養課程で、美学者の小林太市郎(1901-1963)の本を読んだことから美術にも関心を持ち始めた。「美術は高尚なもので、私のような田舎者が関心を持つものではないという先入観が高校時代まであった」という。イタリア語を学んでいた小佐野氏だったが、マルコ・ポーロの初版本がフランス語だったことをあとで知る。

小佐野氏は1975年、大学3年生の終わりに東洋史から美術史へ転専修したいと、西洋美術史の前川誠郎(1920-2010)先生のところへお願いに行った。前川先生は「君の真意がよくわからん。一度卒業して学士入学をしなさい」と。追い返された小佐野氏は、4年生になり、学士入学の方法を伺いに行くと、今度は「決心したのか。しかし、うちの研究室は学士入学を受け入れていないことをすっかり忘れていた」と平然とおっしゃった。狐につままれた気がしたという小佐野氏だが、結局3年生から美術史をやり直す条件で転専修を認めてもらう。そして15世紀イタリア美術史、なかでも国際ゴシック様式★1の画家であるピサネッロ(1395頃-1455頃)や、その周辺のヴェローナ絵画の研究をはじめ、4年間前川先生に鍛えられた。

その後、20年ほど時が経った1998年に中国古代史の西嶋先生が亡くなられた。西洋美術史の前川先生から小佐野氏の自宅に電話があった。「西嶋先生が亡くなったね。やぁ、彼のことで君のことを思い出すんだよ。君が東洋史から美術史に移りたいと言ったときのことだ。西嶋君と、君の覚悟のほどをじっくり試すことにしようかと相談したのだよ」と話された。東京大学の文学部教授になっていた小佐野氏は、恩師の結託話をここで知った。前川先生の深慮をありがたく思い、不肖の弟子の理解の至らなさに恥入り、仏さまの温かい掌に抱かれてきたような気持ちになったそうだ。

★1──貴族社会に新興富裕層が台頭した1380~1430年頃、ヨーロッパ各地の絵画、写本彩飾画、彫刻、つづれ織り(タピスリー)などの宝飾工芸品に見られた均質な造形要素のこと。特徴は、1.調和ある幻想、優雅でありながら奇抜なアラベスク表現を生み出す躍動感ある線描偏重。2.空間的な曖昧さへの嗜好。3.非現実性の意識的追求。4.画題の如何を問わずに見られる世俗趣味。5.作品の制作地割り出しにおける困難さ。広範な地域にわたって流布した様式が、国民国家的精神の高揚を刺激した(小佐野重利『西洋美術の歴史4 ルネサンスⅠ』p.141-142より抜粋)。

メディチ家の画家となる

サンドロ・ボッティチェリは、1444年頃にイタリア・フィレンツェの革なめし職人の四男に生まれた。本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピだが、酒樽のように太っている長男のボティチェロ(小さな樽)というあだ名が、弟であるサンドロ(アレッサンドロの略称)の呼称となり、サンドロ・ボッティチェリとなった。

ボッティチェリは、最初次男の仕事と同じ金細工の工房に入門したが、15歳頃画家のフィリッポ・リッピ(1406-69)に弟子入りする。その7年後アンドレア・デル・ヴェロッキオ(1435頃-1488)の工房に参加し、7歳ほど年下のレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)と出会う。二人の記録が残っていると小佐野氏。ダ・ヴィンチは、ボッティチェリに対して「遠近法がわかっていない。風景の勉強をしようとしなかった」と苦言を呈したが、ボッティチェリは「水に浸したスポンジを壁に投げればそこに風景ができる」と返した。

二人の師であるヴェロッキオは、メディチ家のお抱え彫刻家であり、ボッティチェリはロレンツォ・イル・マニーフィコ(豪華王とも。1449-92)が、当主時代にメディチ家の画家となった。キリスト教思想と古代思想とを統一融合しようとした新プラトン主義★2の考えが広まっており、ボッティチェリもその影響を受けた。フィレンツェを基盤に商業と金融で勃興したメディチ家であるが、フィレンツェを実質的に統治していたロレンツォ自身が作詩、作曲をする文化人でもあり、15世紀に全盛を迎える。

★2──プラトンの思想を中心に、新ピタゴラス学派・ストア派・アリストテレスなど古代諸思想を総合する。超越的絶対者としての一者(いっしゃ。世界の根源をなす第一なるもの、最高の原理、善)とその流出・観照を説く壮大で神秘的な形而上学的側面を持つ。西欧の神秘主義思想に大きな影響を与えた。

青春の美

1478年、メディチ家の転覆を企てたパッツィ家の陰謀事件が起きた。メディチ家の当主ロレンツォは難を逃れたが、弟のジュリアーノ(1453-78)が暗殺された。見せしめに事件の首謀者8人は処刑され、ボッティチェリにその絞首刑の図を描くように命が下る。メディチ家を支援していたフィレンツェ市民の怒りはそれだけでは収まらず、100人近いパッツィ家の人々が処刑された。パッツィ家を支持するローマ教皇シクストゥス4世(1414-1484)は陰謀への関わりを否定したが、メディチ家の振る舞いに激怒してフィレンツェ市民が教会へ行くことを禁じた。1481年にシクストゥス4世は禁止令を解き、システィーナ礼拝堂の壁画を描くため、ボッティチェリ、ペルジーノ(1448頃-1523)、ドメニコ・ギルランダイオ(1449-1494)、コジモ・ロッセリ(1439-1507)を招く。フィレンツェの画家たちをロレンツォがローマへ派遣したことにより、メディチ家と教皇は和解。芸術による政治を行なったロレンツォは1492年に死去した。フィレンツェの黄金時代が幕を閉じた。

師匠フィリッポ・リッピの息子のフィリッピーノ・リッピ(1457?-1504)を徒弟として工房を開いていたボッティチェリであるが、晩年は宗教主題の作品が多く、世俗画も描いていた。1510年、生家の近くにあるオニサンティ聖堂墓地に眠る。享年65または66歳。15世紀後半のルネサンス美術を代表する画家であった。

没後はラファエロやミケランジェロが一般にもよく知られ、ボッティチェリは忘れ去られていった。《プリマヴェーラ(春)》は、理性による野蛮の統御を描いた《パラスとケンタウロス》(1482頃)とともに、ロレンツォの又従弟(またいとこ)であるピエール・フランチェスコ(1463-1503)の部屋にひっそりと置かれていた。ボッティチェリの再発見は、19世紀のイギリス人たちによってであった。文学者ジョン・ラスキン(1819-1900)やラファエル前派の画家ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1827-1882)、ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-1896)らによって、そこはかとない艶かしさと、清々しさをあわせ持つ青春の美が再評価されたのである。

【プリマヴェーラ(春)の見方】

(1)タイトル

プリマヴェーラ(春)(ぷりまべーら・はる)。英題:The Primavera (Spring)

(2)モチーフ

9人に擬人化された神々、花、草、木、オレンジ。バラ、スミレ、アネモネ、タンポポ、ナデシコ、ヒナギク、シダなど40種類以上の草花が描かれている。

(3)制作年

1478年~1482年頃。ボッティチェリ33歳~37歳頃の作品。

(4)画材

板・テンペラ。

(5)サイズ

縦203×横314cm。

(6)構図

演劇の舞台を思わせる人体像の配置が正面性を強調しているが、奥行感は少なく平面的な構図。西洋画では横長の画面の場合、一般的には左から右に移行するが《プリマヴェーラ(春)》は右から左へ展開している。

(7)色彩

白、赤、オレンジ、緑、深緑、青、水色、黄、ベージュ、ピンク、金、紫、茶、灰、黒など多色。

(8)技法

板の上にジェッソ(石膏)を塗り、その白い地色が映えるように薄塗りを重ねて透明感を出している。日本でいう裏彩色のような効果が出る。

(9)サイン

なし。ボッティチェリの作品にはサインがほとんどない。

(10)鑑賞のポイント

草花が萌え出す春の訪れの過程を寓話的に描き出している。美と愛の女神ヴィーナスの領地に神々が集う様子を擬人化した。右から登場してくる好色な西風の神ゼフュロスが頬を膨らませて、暖かな西風を凍てついた大地に吹き、大地の女神クロリスに触れる。その瞬間春となり、クロリスの口元からは花が溢れ出し、花柄の衣装をまとった花の女神フローラに変貌する[図1]。薄物をまとい手を組んで輪舞する三美神は、ルネサンスの生み出したもっとも優美な女性像と言われる。個性的な髪の結い方に当時のヘアスタイルを見るようだ。花の女神フローラと三美神を象徴するように、中央でヴィーナスが春の到来を統治し、ヴィーナスの子で恋愛の神であるキューピッドは目隠をして矢を射る。「矢は三美神の真ん中の女性を狙っている。ルネサンス、あるいは古代の図像を知っていれば三美神の二人は既婚者。それで既婚者は、真珠の首飾りやペンダントを付けたりと宝飾で飾る。背中を向けている女性だけが何も付けていない。キューピードの矢はそこを狙っていることがわかる」と小佐野氏。質素で清らかな「貞節」(中)が「愛」(左)との接触によって「美」(右)に生まれ変わる[図2]。左には伝令神メルクリウスが2匹の蛇の絡み付いた杖(カドゥケウス)で空の雲を払う。詩人アンジェロ・ポリツィアーノ(1454-1494)の詩「ジョストラ(馬上槍試合)」などから着想を得たとされている。ルネサンス美術を代表するボッティチェリの名作。

図1 フローラ、クロリス、ゼフュロス(《プリマヴェーラ(春)》部分)



図2 三美神(《プリマヴェーラ(春)》部分)

白樺派と《松浦屏風》

ボッティチェリを日本でもっとも早く受容したのは、人道主義・理想主義を標榜した近代文学の白樺派の人たちだと小佐野氏は言う。明治43(1910)年に創刊された雑誌『白樺』を読んでいた美術史家の矢代幸雄(1890-1975)は、ボッティチェリ研究の成果を英文で書き、ロンドンのMedici Societyより『Sandro Botticelli』(1925)全3巻を刊行した。ボッティチェリ研究で成果を上げていた矢代は、ヨーロッパ留学から帰国後、美術研究所(現 東京文化財研究所)の設立に参画し、大和文華館では初代館長に就任した。

大和文華館で矢代が買い入れた作品のひとつに、《松浦屏風(婦女遊楽図屏風)》がある。矢代はこの作品を国宝に導いた。重要文化財で特に学術的価値が高く、美術的に優れた文化史的意義の深いものが国宝として指定される。しかし、この国宝作品に疑問の声が上がっている、と小佐野氏は言う。「《松浦屏風》は、《プリマヴェーラ(春)》と同じように人物が横に並び、類似性がある。おそらく矢代の念頭に置かれた《プリマヴェーラ(春)》が《松浦屏風》を国宝にまでしたのだろう」。

矢代の大著『日本美術の特質』では、喜多川歌麿(?- 1806)とボッティチェリとを比較している。「歌麿の描く女には着ている着物にまで女体の神経が憑(のりうつ)り、着物自身に人間感覚が移転したように、不思議に着物が生きているのである。ボッティチェリの女の着物の描き方とその特別なる美しさが、まさにそれである」(矢代幸雄『日本美術の特質』p.670)。矢代の脳裏から離れなかった、その特別なる美しさは、《松浦屏風》をも東洋の《プリマヴェーラ(春)》に見せたのかもしれない。美と愛の女神ヴィーナスが統治した《プリマヴェーラ(春)》は矢代をも魅了していた。

青、そして指

ボッティチェリの描写の特徴について「線描と色彩が優れている。彼自身の繊細さがあるが、兄が金細工師ということもあって、金の細かい表現には本物の金を使い、ライトをかざすと輝きを発する。とりわけ目を引くのがボッティチェリの青。ラピスラズリを使った青色だ。その一方で、手の指の描き方はごつく節くれ立ち、爪の回りを輪郭線で縁取る特徴がある。指に焦点を置きボッティチェリ作か、工房作かと研究した19世紀の研究者がいた」と小佐野氏は語る。

「ルネサンス時代には、ダンスが良家の子女の礼儀作法であり、習いごとだった。通常ルネサンス舞踏は、女性ひとりに男性が二人、あるいは女性二人で男性がひとり。2対1の関係の3人で踊る。《プリマヴェーラ(春)》は、ひとりの舞踏家のステップを統合し、女性三人の三美神として表現したものだろう。裸足の足元を見るとダブルステップと一回転という『バッサ・ダンツァ★3』の舞踏の動作のようだ」と小佐野氏は《プリマヴェーラ(春)》を踊りから読み解く。また、メディチ家の当主ロレンツォは、田園の詩を書き、自作のバッサ・ダンツァを2曲残し、そのひとつがヴィーナスの曲だった。ロレンツォがこの絵に関与していたことはほぼ間違いないとし、自分のためか、あるいは1482年7月に結婚した又従弟にあたるピエール・フランチェスコのために描かせたのか、《プリマヴェーラ(春)》の注文主は定かではないという。

主題は、諸説あるという小佐野氏は「まさに春の象徴ととらえるか、野原にアイリスが群生していたフィレンツェに町が生まれて、フィレンツェ市紋章の意匠が「剣ユリ(fleur-de-lis)」になった、という伝承から花の都フィレンツェを讃美したことも想像できる。また、1478年のパッツィ家の陰謀事件でメディチ家当主ロレンツォの功績によって、メディチ家と教皇が和解し、フィレンツェに春の時代が生まれたという解釈もできる。フィレンツェの美術史家クリスティーナ・アチディーニ(1951-)のとらえ方が現代的であろう」と言う。アチディーニは《プリマヴェーラ(春)》を「ギリシア・ローマの神話から引き出した人物たちを通して、近い時期に幸福な結末へと至った出来事に照らしてメディチ家とフィレンツェを寓意的に称揚するものと解釈される」(『ボッティチェリ展』図録、p.17)と記している。神々が集う美と愛のヴィーナスの領国では優美な輪舞が披露され、清福の風が吹きはじめ、季節は巡る。

★3──「舞踏の女王」と称えられた優美なダンス。軽やかなすり足で踊る威厳のある男女の行列の踊りで、ステップの種類や組み合わせを変えながら前進、ときに後退し、延々と続く。「ルネサンスの舞踊は個人の表現ではなかった。盆踊りではありませんが、先導役について行けば誰でも踊れた。バッサ・ダンツァは、舞踏会の入場時などに楽士の演奏に乗って踊られた。教会の典礼を起源とするとも言います(吉田稔美)」(内田洋一「美の美 絵画は踊る②」『日本経済新聞』2006.2.12、20面)。



小佐野重利(おさの・しげとし)

東京大学名誉教授・学生相談ネットワーク本部長・大学院教育学研究科特任教授。1951年山梨県生まれ。1978年東京大学文学部美術史学専修課程卒業、同大大学院入学、1980-82年パドヴァ大学美術史学科在学(イタリア政府給費留学生)、1983年同大大学院人文科学研究科美術史学修士課程修了、1985年同博士課程中退。1985年東京大学文学部助手、1987年多摩美術大学美術学部西洋美術史講師、1989年東京工業大学工学部(一般教育等芸術)助教授、1993年東京大学文学部美術史学科助教授、1994年同教授、1995年同大大学院人文社会系研究科教授(文学部教授兼担、同年9~12月ジョン・ポール・ゲッティ財団ゲッティ美術史人文学研究所招聘)、2005年同人文社会系研究科・文学部次世代人文学開発センター(先端構想部門)教授を兼任、2013年同人文社会系研究科研究科長・文学部長(兼務)、2015年同大学学生相談ネットワーク本部長(兼務)、2017年より現職。専門:西洋美術史(イタリア中世・ルネサンス美術、アルプス南北の美術交流、比較美術史)。所属学会:国際美術史学会(副会長)、日本学術会議会員、アンブロジャーナ・アカデミー会員(ミラノ)。 受賞歴:第16回マルコ・ポーロ賞(1992)、イタリア連帯の星騎士・騎士勲位章(2003)、同星騎士・コメンダトーレ勲位章(2009)。主な著書:『記憶の中の古代――ルネサンス美術にみられる古代の受容』(中央公論美術出版、1992)、『旅を糧とする芸術家』(三元社、2006)、『知性の眼 イタリア美術史七講』(中央公論美術出版、2007)、『西洋美術の歴史4:ルネサンスⅠ』(共著、中央公論新社、2016)、『《伊東マンショの肖像》の謎に迫る:1585年のヴェネツィア』(三元社、2017)など。主な展覧会監修:「レオナルド・ダ・ヴィンチ展―─天才の肖像」(2013)、「ボッティチェリ展」(2016)など。

サンドロ・ボッティチェリ(Sandro Botticelli)

イタリアの画家。1444頃〜1510年。初期ルネサンスのフィレンツェに、革なめし職人マリアーノ・ディ・フィリペーピとズメラルダの四男末っ子として生まれる。本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ。名称は酒樽のように太っていた長男のあだ名ボッティチェロ(小さな樽の意)から、サンドロはアレッサンドロの略称。金細工師に見習い修業。15歳頃、隣町プラートに工房を構えていた画家フィリッポ・リッピに弟子入り。1467年アンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に参加、同僚に7歳年下のレオナルド・ダ・ヴィンチがいた。1470年実家に工房を構える。フィレンツェの商業評議所の注文で《剛毅》を描く。2年後、画家の所属する聖ルカ同信会に入会。1478年パッツィ家陰謀による首謀者の絞首刑をメディチ家の命で描く。1481年ローマ教皇シクストゥス四世に招かれ、システィーナ礼拝堂の壁画3点を制作。のちの10年間はメディチ家をはじめ貴族、公的機関からの依頼により、画家の最盛期。1504年ミケランジェロの彫刻《ダヴィデ》設置委員会の委員となる。1510年死去、生家に近いオニサンティ聖堂墓地に眠る。主な作品:《プリマヴェーラ(春)》《ヴィーナスの誕生》《ラーマ家の東方三博士の礼拝》《システィーナ礼拝堂壁画(モーゼの試練)(モーゼへの反逆)(キリストの試練)》《パラスとケンタウロス》《聖母子と3人の天使》《神秘の降誕》など。

デジタル画像のメタデータ

タイトル:プリマヴェーラ。作者:影山幸一。主題:世界の絵画。内容記述:サンドロ・ボッティチェリ《プリマヴェーラ(春)》1478-82年頃、板・テンペラ、縦203cm×横314cm、ウフィツィ美術館蔵。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者: ウフィツィ美術館、Bridgeman Images、(株)DNPアートコミュニケーションズ。日付:─。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Jpeg形式306.1MB(300dpi、RGB、8bit)。資源識別子: BAL558(Jpeg、306.1MB、300dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールなし)、Bridgeman Images / DNPartcom。情報源:(株)DNPアートコミュニケーションズ。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:ウフィツィ美術館、Bridgeman Images、(株)DNPアートコミュニケーションズ。



【画像製作レポート】

《プリマヴェーラ(春)》の画像は、DNPアートコミュニケーションズ(DNPAC)へメールで依頼した。後日、作品画像のURLが記載されたDNPACのメールから画像をダウンロードして入手(Jpeg、306.1MB、300dpi、RGB、8bit、カラーガイド・グレースケールなし)。作品画像の掲載は1年間。
iMac 21インチモニターをEye-One Display2(X-Rite)によってモニター画面を調整する。《プリマヴェーラ(春)》のモニター上の画像と、Webや書籍の作品写真とを比較しながら色彩調整を行なった。特に三美神とクロリスの透けた着衣の白に含まれる空色と、空の水色とが呼応する関係になるよう意識した。また、セキュリティを考慮して、高解像度画像高速表示データ「ZOOFLA for HTML5」を用い、拡大表示を可能としている。
改正著作権法(http://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/hokaisei/kantaiheiyo_hokaisei/pdf/r1408266_01.pdf)が2018年12月30日から施行され、著作権の保護期間が著作者の死後50年から70年となった。過去の著作物を利用する機会が減少し、文化の活性化が停滞することが懸念されるが、保護期間を度外視したオープンライセンスや、著作権者へのアクセスの簡便化、あるいはAIやブロックチェーンなどの新技術が法律とあいまって、著作権者と著作物利用者をつなぐ新しい仕組みが実現されることを期待したい。



参考文献

・矢代幸雄『日本美術の特質 第二版』(岩波書店、1965)
・高階秀爾『名画を見る眼』(岩波書店、1969)
・小川正隆『ボッティチェルリ』(新潮社、1975)
・生田圓編集解説、東山魁夷特別寄稿『グランド世界美術 第10巻 ボッティチェリとフィレンツェの絵画』(講談社、1976)
・辻邦夫『春の戴冠(上)』(新潮社、1977)
・『世界美術全集4 ボッティチェルリ〈愛蔵普及版〉』(集英社、1978)
・佐々木英也、森田義之責任編集『世界美術大全集 第11巻 イタリア・ルネサンス1』(小学館、1992)
・ブルーノ・サンティ、関根秀一訳『イタリア・ルネサンスの巨匠たち14 ボッティチェリ』(東京書籍、1994)
・バルバラ・ダイムリング『サンドロ・ボッティチェッリ』(タッシェン・ジャパン、2001)
・ホルスト・ブレデカンプ、中江彬訳『ボッティチェリ《プリマヴェーラ》 ヴィーナスの園としてのフィレンツェ』(三元社、2002)
・内田洋一「美の美 絵画は踊る②」『日本経済新聞』2006.2.12、20-21面)
・石鍋真澄監修『ルネサンス美術館』(小学館、2008)
・京谷啓徳『もっと知りたいボッティチェッリ 生涯と作品』(東京美術、2009)
・利倉隆『イメージの森のなかへ ボッティチェリ 春の祭典』(二玄社、2010)
・小佐野重利「仏のような温かい掌の上で」(図録『美の軌跡──デューラーから中村彜まで 前川誠郎の美学』、新潟県立近代美術館、2011、pp.12-13)
・ステファノ・ズッフィ、神原正明監修、内藤憲吾訳『西洋名画の読み方4:イタリア・ルネサンス』(創元社、2013)
・図録『ウフィツィ美術館展──黄金のルネサンス ボッティチェリからブロンヅィーノまで』(TBSテレビ、2014)
・クリストフ・ポンセ、ヒロ・ヒライ監修、豊岡愛美翻訳『ボッティチェリ《プリマヴェーラ(春)》の謎:ルネサンスの芸術と知のコスモス、そしてタロット』(勁草書房、2016)
・京谷啓徳「ボッティチェリをもっと知るための6章」(『芸術新潮』No.793、新潮社、2016.1、pp.82-91、94-99、104-118)
・小佐野重利、京谷啓徳、水野千依『西洋美術の歴史4 ルネサンスⅠ──百花繚乱のイタリア、新たな精神と新たな表現』(中央公論新社、2016)
・図録『ボッティチェリ展』(朝日新聞社、2016)
・Webサイト:成瀬不二雄「国宝松浦屏風の制作年代とその制作の指導者について」(『神戸大学人文科学研究科・文学部』)2019.1.4閲覧(http://www.lit.kobe-u.ac.jp/art-history/ronshu/6-1.pdf)
・Webサイト:Yukio Yashiro「Sandro Botticelli and the Florentine Renaissance」(『Internet Archive』)2019.1.4閲覧(https://archive.org/details/BotticelliVol1
・Webサイト:「Primavera-Spring」(『VIRTUAL UFFIZI GALLERY』)2019.1.4閲覧(https://www.virtualuffizi.com/botticelli-primavera-spring.html)
・Webサイト:「PRIMAVERA」(『Uffizi.COM』)2019.1.4閲覧(https://www.florence.net/painting-primavera-uffizi-gallery.aspx
・Webサイト:「Spring」(『LE GALLERIE DEGLI UFFIZI』)2019.1.4閲覧(https://www.uffizi.it/en/artworks/botticelli-spring




掲載画家出身地マップ
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2019年1月

  • サンドロ・ボッティチェリ《プリマヴェーラ(春)》──清福のステップ「小佐野重利」

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