アート・アーカイブ探求
グスタフ・クリムト《接吻》──溶け落ちる永遠「千足伸行」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2019年03月15日号
※《接吻》の画像は2019年3月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
発光する正方形
絵画のキャンバスは、見慣れているためか風景なら横長、人物なら縦長の長方形が安定する。四角形以外のキャンバスならば画家の表現として享受できるが、正方形のキャンバスに意表を突かれた。折り紙や市松模様など、四角形の基本と思えた正方形だが、絵画に人工的な香りを立たせる形であることに気づいた。またその画面が金色に発光していたのだから、胸さわぎがしてくる。グスタフ・クリムトの代表作《接吻》(ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館蔵)である。
縦180×横180cmという正方形に凝縮された《接吻》は、男と女が金に包まれ融け合ってひとつになっていくようだ。小花が咲き誇る可憐な花園、その一部でもあるかのような女性。垂直に立つ男は、太い首を直角に曲げて頭が天井にぶつかりそうだ。静寂な空間に浮かぶ一塊の形態の中に息づかいを感じる。
華麗な金の装飾で覆われた《接吻》の魅力を、成城大学名誉教授で広島県立美術館館長の千足伸行氏(以下、千足氏)に伺いたいと 思った。千足氏は19世紀後期のドイツ・フランスの美術史を専門と し、著書『クリムト作品集』(東京美術、2013)などの執筆のほか、展覧会「クリムト展:ウィーンと日本1900」(2019.4.23~ 7.10)の監修も務められている。東京の不忍池のほとり、根津でお会いすることができた。
はじまりはターナー
草野球が趣味という1940年東京に生まれた千足氏は、中学3年生頃に『世界大百科事典』(平凡社)を購入し、家族で一緒に見ていたという。その中にジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775-1851)の代表作である《解体のため錨泊地(びょうはくち)に向かう戦艦テメレール号》(1838、ロンドン ナショナルギャラリー蔵)があり、ぐっと引き込まれた。「船がこちらへ向かって来るメランコリックな風景。沈む夕日にかすむ微妙な光で、印象派の明るい自然とは違う」と千足氏。将来は小説家と思っていたほど文章を書くことが好きな文学少年が、美術に目覚めた瞬間だった。
その後、東京大学の文学部美術史学科へ入学した。研究者になる気持ちはなく、大学院へは進まなかった。卒論はドイツの宗教画家、マティアス・グリューネヴァルト(1470頃-1528)を取り上げた。大学3年のときに授業の課題で、初めてグリューネヴァルトの十字架にかかったキリスト像を見て感動し、卒論はこれだと決めたという。日本では無名だが、ヨーロッパではメジャーな画家でアルブレヒト・デューラー(1471-1528)や、ルーカス・クラーナハ(1472-1553)とともにドイツ・ルネサンス3大巨匠の一人。作品は20点ほどしかなく、《イーゼンハイム祭壇画》(1512-1516、フランス、ウンターリンデン美術館蔵)などの傑作がある。「口を少し開けて血を流しながら苦しそうに喘いでいる表現は、他のキリストにはないリアリズムがある。そっくりに描くリアルではなく、リアルに感じられるキリストだった」と千足氏は述べた。
1964年、東京放送(TBS)に就職した。マスコミで仕事を始めていた千足氏に国立西洋美術館から声が掛かり1966年転職、美術館へ籍を置くことになった。1970年からは2年間ドイツ・ミュンヘン大学へ留学し、帰国後には主任研究官を務めた。
「ドイツの留学時代にウィーンでクリムトの作品と出会う。「面白い画家だな」とだんだん興味が湧いてきて、《接吻》を見たときは「こんな絵があるのか。“接吻”という他の画家も描いている世俗的な主題ではあるけれど、キラキラした黄金様式、今までの絵とはあまりにも違うし、さらに女性像が独特。目を閉じているため顔ははっきりわからないが、クリムトの描く女性は他の画家には見られないイメージ、装飾性に特徴がある。色彩や空間が現実から離れた夢の別天地を表していた。新鮮な驚きだった」と言う。
ウィーン分離派設立
19世紀から20世紀へ、世紀末の時代を代表する画家がグスタフ・クリムトである。1862年オーストリア・ウィーンに金銀細工師の父エルンストと母アンナとの間に生まれた。7人兄弟の二番目で、二人の弟がいた。二歳下で父と同名の次男エルンストは画家になったが28歳で早世し、三男のゲオルクは父をしのぐ有能な職人になり、時にクリムトの絵の額縁を制作した。
世紀末のヨーロッパでは自由を求めた新しい芸術様式が各地で起こっていた。「アール・ヌーヴォー(新しい芸術)」、「ユーゲントシュティール(青春様式)」、「モダン・スタイル(近代様式)」、「アルテ・ホベン(若い芸術)」など、呼称はさまざまで各々芸術の内実には微妙な差異があるが、新時代を目前に芸術の新風が吹いていた。
当時、多民族都市だったウィーンでは、ルネサンス時代のヴェネツィア派やルーベンス風のバロック様式に、豪華絢爛なブルジョワ趣味を加味した折衷主義的な画風の画家ハンス・マカルト(1840-84)が、絶大な人気を博していた。クリムトは、14歳でウィーン美術工芸学校に入学し、卒業後の1883年21歳のときに同じ美術工芸学校で学んだ弟のエルンストと、画家のフランツ・マッチュ(1861-1942)と共に「芸術家カンパニー」を設立した。ウィーンのブルク劇場の装飾画を描き、エジプト芸術などを研究してウィーン美術史美術館の装飾画も手掛け、ウィーン大学大講堂の天井画《哲学》《医学》《法学》を文部省から依頼された。クリムトは、マカルトの弟子のような存在であったが、44歳でマカルトが死去し、写実的な描写から独自の路線を歩み出して行くことになった。
1892年、弟のエルンストが亡くなり、芸術家カンパニーは10年の活動を終えたが、この前年にエルンストがモード・サロンを経営するフレーゲ3姉妹の一人ヘレーネと結婚したことは、クリムトの人生と芸術にとって大きな意味をもっていた。生涯の伴侶となるヘレーネの妹エミーリエ・フレーゲ(1874-1952)と出会い、ウィーンの貴族や上流階級との交流が始まったからである。
クリムトの画家としてのデビューは、保守的なウィーンの美術界の中心的組織だった「キュンストラーハウス(ウィーン造形芸術家協会)」から脱退し、建築家や画家、彫刻家、工芸家などの芸術家たちによって1897年にウィーン分離派が設立され時だった。クリムトは初代会長に選ばれた。伝統から“分離”して新しい芸術を志向するドイツのミュンヘン分離派に続き、近代主義的な運動であり、ゼツェッション館(分離派館)を建設して展覧会を開催したり、機関誌「ヴェル・サクルム(聖なる春)」を創刊した。館の入口上部には「時代にはその時代にふさわしい芸術を、芸術には自由を」とモットーが掲げられた。
世紀末の黄金様式
芸術について、自己について多くを語らないクリムトは、生涯独身を通したが、少なくとも14人の私生児がいたという。肉体的な欲望の対象であったのは、主にモデルたちである。人生の伴侶であるエミーリエ・フレーゲの存在は大きく、性的関係を超えたプラトニックな心の愛であった。
女性のエロティックな姿態や肖像画が目に焼き付くが、クリムトは風景画も描いている。精神と肉体の休養が必要であることをエミーリエが教え、フレーゲ家が夏休みを過ごすオーストリアのザルツカンマーグート(映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台として有名)へ向かい、アッター湖で泳ぎ、ボート遊びをした。自然の魅力に目覚め、風景という中心のない、どこを切り取ってもいいビジョンに関心をもち始め、風景画は正方形のキャンバスに描かれるようになる。
1902年には分離派展に《ベートーベン・フリーズ》を出品し、最愛の伴侶のために《エミーリエ・フレーゲの肖像》を描いた。1903年イタリアのラヴェンナに旅行したクリムトは金を施したモザイクに感銘を受ける。翌年にはベルギー・ブリュッセルのストクレ邸の食堂のモザイク壁画装飾を依頼された。金は、クルムトにとって「画面に工芸品に通じる装飾的な美しさを生み出し、同時に対象(モデル)を中世絵画におけるように非日常的、絶対的、抽象的な空間に閉じ込めるという役割を担っているといえよう」(千足伸行『もっと知りたい クリムト 生涯と作品』p.31)と千足氏は述べている。1907年《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ》や《接吻》(1907-08)が制作され、クリムトの黄金様式が頂点を迎えた。
1910年48歳のクリムトはヴェネツィア・ビエンナーレに参加し、特別室が設けられ好評を博した。1911年ローマの国際美術展で《死と生》が最高賞を受賞。当時ウィーンに住んでいた精神医学者フロイト(1856-1939)が生み出したエロス(生の欲動)とタナトス(死の欲動)の理論であったが、クリムトがフロイトに出会うことはなかったようだ。
1918年、脳卒中で倒れた。享年56歳、弟子はおらずクリムトは、ウィーンのヒーツィンガー墓地に埋葬された。師と仰ぎ《右向きのグスタフ・クリムトのデスマスク》を描いたエゴン・シーレもその年28歳で没した。クリムトは250点ほどの作品を制作したが、第二次世界大戦の戦火により、ウィーン大学講堂の天井画などが焼失した。残された作品は150点程度とみられている。
【接吻の見方】
(1)タイトル
接吻(せっぷん)。英題:The Kiss
(2)モチーフ
女、男、衣服、草花。
(3)制作年
1907-1908年。クリムト45-46歳。
(4)画材
キャンバス・油彩。
(5)サイズ
縦180.0×横180.0cm。
(6)構図
正方形の画面。無背景に花園を基底として、一体化した男女を画面中央に直立させ、シンボリックに配置。
(7)色彩
金を主体に緑、赤、青、黄、紫、白、黒、銀などの多色。足元の草花は原色を避け、金色の効果を壊さないような色彩。当時、金色の絵具がヨーロッパにあり、金箔に近い効果が出た。
(8)技法
背景に金色を散らし、金箔を貼ったような衣服地に、幾何学的な文様をモザイクのように描いた。衣服の間に生き生きとした肢体を表現した。しなやかな線描によって生命感を内包させている。
(9)サイン
画面右下にオレンジ色で「GVSTAV KLIMT」と日本の落款のような署名。GUSTAVの「U」が「V」に見える。
(10)鑑賞のポイント
クリムトの黄金様式の頂点をなす作品である。金を多用し、小さいパターンの文様は、クリムトが旅行中に見たイタリア・ラヴェンナのビザンティン時代のモザイクの影響と見られ、工芸的な美しさを見せる。女性を抱きすくめる男は首を直角に曲げ、顔はほとんど見えない。女は恍惚の表情で首を直角に曲げている。金を散らした無地の抽象的な背景には日本の屏風絵の影響も考えられるが、ここでは無限の宇宙空間の一隅であるかのような印象を与える。女性の頬に添えられた男の右手に女の左手が重ねられ、男に身を任せる女の心理をほのめかしている。この作品のほかにクリムトの男女が抱き合うポーズとして《愛》(1895)や《ベートーベン・フリーズ(楽園の天使たちの合唱)》(1902)、《ストクレ邸フリーズのための下絵(成就)》(1905-09)があるが、《接吻》は長方形と円の文様で男と女が明示され、結ばれながらも二つの性のありようを表す。二人の足下にある花園は断崖で、かろうじてかかった女性の両足が、転落の予感と背中合わせという二人の瀬戸際の運命的な愛を暗示している。1908年第1回ウィーン総合芸術展(クンストシャウ・ウィーン)に「恋人たち」という題名で発表され、国家買上げとなったクリムトの代表作。
エロスとタナトスのあわい
「接吻という主題は、ユダがキリストに接吻したり、男女の愛情表現などたくさんあるが、この《接吻》のように金色をふんだんに使い、装飾的な模様と自然の花をあしらった作品は珍しい。特徴はこの装飾性で、中世の絵画に見られる金地を用い、幾何学的模様を取り込み、四角形の文様を男、円形の文様は女と使い分けて現代的な表現へ蘇らせた。当時ヨーロッパを席巻していたアール・ヌーヴォーの装飾性との関連を持たせながら、象徴主義的な意味合いを重ね合わせ、さらに豊かな官能性を備えている。金と華やかな色彩で装飾することで、美を絶対化し、永遠化しようとしたエジプトの芸術を思わせる。花園からあと一歩で落ちてしまう女。裸足で、指を曲げて落ちないように耐えている。こういう限界状況というのもクリムト独特の表現である。しかもこの絵はすべてが想像による絵ではなく、実際の光景をそのまま描いた絵でもない。現実と非現実が入り混じっているところにこの絵の面白さがある」と千足氏は語った。
また、金や赤を使って水仙や鯉などを描く、日本の漆工芸と共通するところがあると千足氏は言う。日本美術が好きだったクリムトは、工芸美術学校に通っており、工芸品的な美しさを学んでいたが、《接吻》に関して漆工芸や琳派の影響があったかどうかは断言できないそうだ。
《接吻》は、女性が目を閉じていて、男の顔は見えない。女性はエミーリエ・フレーゲかと推測されているが、決定的には言えないと千足氏はいう。クリムトは美しいものの世界へ逃避して、そこで美しい夢を見た。その夢を見るときに欠かせないのが女性だった。男をクリムトと考えることもできるという千足氏は、「女性は性的対象であると同時に、崇拝の対象であり、エロス(生)とタナトス(死)とを対比するクリムトにとっての重要なテーマであった」と述べた。栄華を極めたハプスブルク帝国の終焉と、愛し合いながらも落ちて行く男女の不安とが重なり、ウィーン世紀末の生と死のあわいを象徴する。
千足伸行(せんぞく・のぶゆき)
グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
*日本の分野横断型ポータルサイト「ジャパンサーチ(BETA)」が2月27日に公開された。「デジタルアーカイブジャパン推進委員会及び実務者検討委員会」の方針のもと、国立国会図書館が運用。この試験版では、国立国会図書館のほか、国立美術館や国立文化財機構、NHKなど、16機関と連携した36のデータベースから書籍・文化財・自然史・放送番組など、約1,700万件が検索可能で、うち美術情報は212,038件。2020年の本番化を目指している。著作権などの二次利用の条件はあるが、自由に利用できるパブリック・ドメインコンテンツは426,777件(3月3日現在)あるなど、利活用を促していることが画期的。デジタルアーカイブの信頼度の向上や、利用者が制作物を発表する場が生まれることを期待したい。
参考文献