アート・アーカイブ探求
エドゥアール・マネ《草上の昼食》──不滅の複層的イメージ「三浦 篤」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2019年04月15日号
※《草上の昼食》の画像は2019年4月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
無意味の価値
謎めいた絵画がある。森の木陰で全裸の女性がひとり、ジェントルマンらしい身なりの二人の男性に囲まれこちらを見つめている。視線がつながったその瞬間、助けを求めているわけではなく、立てた片膝に肘をついてリラックスしている様子が伝わってきた。女性はわずかに微笑を浮かべ、男たちは遠くを見ている。中景の水辺には薄衣の女性が水浴をしている。何をしているのか、非現実的なシーンで混乱するが、無視できない違和感が記憶から離れない。エドゥアール・マネの《草上の昼食》(オルセー美術館蔵)である。
森の中でのピクニックの風景なのだろう。なぜ耳飾りだけを付けた裸の女性と盛装した男性なのか。遠近法は崩れ、明暗のコントラストも強い。絵から意味を探ろうとするが意味不明。無意味がこの絵の価値であるかのように深遠で考えさせられる。マネは、何か明確な意図をもって等身大の人物をキャンバスに描いたのだろう。
19世紀フランス絵画史に詳しい東京大学大学院総合文化研究科教授の三浦篤氏(以下、三浦氏)に《草上の昼食》の見方を伺いたいと思った。三浦氏は、奈良県立美術館と府中市美術館で開催した「マネ」展(2001)の図録に、論文「エドゥアール・マネ──引用、マラルメ、日本」を寄稿、2018年には著書『エドゥアール・マネ──西洋絵画史の革命』(KADOKAWA)を出版されている。東京・駒場の東京大学へ向かった。
わからない魅力
「何か美しい、普通ではないものがあると感じた」。三浦氏と美術との出会いだった。特にレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)の《岩窟の聖母》(ロンドン ナショナルギャラリー蔵)、その天使の顔が印象に残り、高校時代は繰り返し見ていたという。
三浦氏は1957年島根県大田(おおだ)市に生まれ、田畑がある兼業農家に育ち、農協に勤める父親と母、弟の四人家族に育った。高校生のときに図書館で見た「ルーヴル美術館」「大英博物館」「ロンドン ナショナルギャラリー」などの大判画集が西洋美術への扉を開いた。
また大学受験前に、高階秀爾(1932-)著『名画を見る眼』(岩波書店)を読んだことが、西洋美術史研究への道を決定づけたという。「なんて面白い学問があるんだろう」と。そして恩師となった高階先生と、マネにも詳しいボードレール学者の阿部良雄(1932-2007)先生の講義と著作が、三浦氏を研究者に導いていった。
東京大学での卒業論文はマネだった。三浦氏は卒論を書く以前、ルーヴル美術館付属の印象派美術館(ジュ・ド・ポーム)で《草上の昼食》を見ていた。「非常に衝撃を受けた。大きくて迫力があり、イメージの強さというか、ただただ圧倒された。当時の現代的な情景のなかで着衣の男性とヌードの女性が一緒に描かれているというのも衝撃的だったし、結構光が当たっているような感じで、裸婦の肌などが意外に明るく、光が反射してくるかのような明るさ、強さだった。二十歳過ぎの日本人の学生が太刀打ちできる絵ではなかった」と、三浦氏は学生時代を振り返った。
大学院での修士論文でもマネを選び《フォリー=ベルジェールのバー》(1881-82、コートールド美術研究所蔵)について書いた三浦氏は、パリ第4大学へ留学した。得体の知れないマネの絵に魅せられた。マネの絵はわからなかったけれど魅力的だったと言う。不可解な、ちょっと謎めいた、理解を拒否するような、わからないことを研究していきたいと三浦氏は思った。
新しい絵画を目指すブルジョワ画家
マネは、1832年司法省の高級官吏だった父オーギュスト・マネと外交官の娘であった母ウジェニー=デジレ・フルニエの長男としてフランスのパリに生まれた。都市ブルジョワ富裕層の生活を送る生粋のパリジャンで、1844年12歳には名門中学コレージュ・ロランへ入学。ここで生涯の友となり、のちにジャーナリストで政治家となったアントナン・プルースト(1832-1905)と出会う。
マネは学業には身が入らず、母方の伯父で美術好きの砲兵士官フルニエ大佐にルーヴル美術館へしばしば連れて行かれ、美術の楽しさを知り、父とは違う道を考え始めていた。16歳になり海軍兵学校を受験するが失敗、翌年も失敗し、父はしぶしぶ画家になることを認めた。 1850年18歳のとき、画家として成功を収めていたトマ・クチュール(1815-1879)のアトリエでプルーストと一緒に6年間絵を学ぶ。オランダの画家フランス・ハルス(1585-1666)、ヴェネツィア派のティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488-1567)、スペインのディエゴ・ベラスケス(1599-1660)をはじめとするルネサンスから18世紀に至る過去の巨匠たちの作品から精力的に学んだ。
評論「現代生活の画家」(1863)を発表した友人で詩人・美術批評家のシャルル=ピエール・ボードレール(1821-1867)が、一時的なるものから永遠なものを抽出することを主張。またクールベは自分が実際に見たものだけを描く写実主義を先導していた。マネは自由な感覚で新しい絵画を描くことを目指し、歴史画家であった師から独立した。
レアリスムに連なるモダニズム
マネは、ロマン主義を代表するフェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)やレアリスム
を標榜するギュスターヴ・クールベ(1819-1877)の後の世代に属し、印象派のクロード・モネ(1840-1926)やピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)の少し前の世代である。レアリスムから印象派の過渡期の時代、そのどちらにも属さない革新性を有する画家であり、逸脱する前衛を正統と見なす「モダニズムの画家」と呼ばれる。格調あるレアリストのベラスケスを慕い、時代を超えた師として仰いだ。1859年、《アブサンを飲む男》でサロン(官展)に初挑戦する。落選したがボードレールやドラクロワは高く評価した。1861年のサロンでは《オーギュスト・マネ夫妻の肖像》《スペインの歌手(ギタレロ)》が初入選。1863年春のサロンには《草上の昼食》など、出品した作品すべてが落選した。応募作約5,000点の半数以上が落選となる。審査の方法に不満が蔓延、近代都市パリの骨格が整ってきた時代に、大衆の動向に敏感な皇帝ナポレオン3世(第二帝政期:在位1852-1870)が、サロンと同じ会場の別の部屋で落選展を開催させた。そしてマネの《草上の昼食》が物議を醸し出すことになった。
当時の批評家は、絵の描き方がなっていない。デッサンができていないし、空間もおかしい。全体の構成も技法や様式もだめ。ふしだら。もっとも多い批判は、結局どういう絵なのかわからないという当惑だった。この年マネ31歳、シュザンヌ・レーンホフと結婚。1865年にはサロンに出品した《オランピア》(1863、オルセー美術館蔵)が大きなスキャンダルとなる。女性のヌードを神話に託さず同時代の女性として描いたのだ。
普仏戦争のとき38歳のマネは、熱烈な共和主義者で反体制、反ナポレオン3世の立場を貫くが、愛国心から国防軍中尉としてパリに残った。1874年42歳、第1回印象派展に誘われたが、サロンこそが絵画の主戦場で、そこで認められてこそ意味があると考えていた。1881年に美術大臣となった友人プルーストの尽力でこの年、レジヨン・ドヌール勲章シュヴァリエを受勲した。運動失調症が悪化した1883年、壊疽(えそ)となった左脚をひざ下より切断、10日後 51歳の若さでパリに没した。作品が一般な評価を得ていたとは言い難いという。パッシーに墓地がある。
【草上の昼食の肖像の見方】
(1)タイトル
草上の昼食(そうじょうのちゅうしょく)。発表時は「水浴」
だったが、マネにより1867年に改題。英題:The Luncheon on the Grass(2)モチーフ
男女各2人(女性1人はヌード)、空、木、草、小川、ボート、ワンピース、麦わら帽子、籠、果実、パン、酒瓶、鳥、カエル。
(3)制作年
1863年。
(4)画材
キャンバス、油彩。
(5)サイズ
縦208.0×横265.0cm。歴史画の大きさ。
(6)構図
水浴する中央の女性を頂点に、ヌードの女性とステッキを持つ男性を結ぶ安定した三角形の構図。
(7)色彩
多色。明度の高い絵具を効果的に用い、コントラストを強くすると同時に、画面を明るくしている。
(8)制作方法
人物などの細かいタッチと背後の風景に見られる粗いタッチ、それ以外の部分には中間的なタッチを用い、影のない肌の面や黒一色の上衣の面など、陰影表現を抑えて平面的に表現している。ジョルジョーネ(1478頃-1510)の構想に基づいてティツィアーノが完成させた《田園の奏楽》(1511頃、ルーヴル美術館蔵)を先例とし、3人の人物のポーズと配置は、石棺の浮き彫りである古代ローマの河の神々を参照したラファエロ・サンティ(1483-1520)の素描に基づくマルカントニオ・ライモンディ(1480-1534)の銅版画《パリスの審判》(1517-20、フランス国立図書館蔵)による。また水浴する女性はラファエロのタペストリー《奇跡の漁り》の下絵から採られたという説もあり、鳥やカエルはパウルス・ポッテル(1625-1654)の《若い雄牛》(1647、デンハーグ マウリッツハイス美術館蔵)から引用した可能性がある。マネはアトリエで4人のモデル に古典的な格調のあるポーズを演じさせ、写実的に描写、それらを土台に風景 を接合して仕上げた。「永遠」に「現在」の衣をまとわせる近代特有の質的飛躍に挑んだ。
(9)サイン
なし。
(10)鑑賞のポイント
1863年のサロン(官展)に出品したが落選。同年に開催された落選者のサロン「落選展」に展示され、大きなスキャンダルを巻き起こした作品である。肖像画や歴史画でなく、また神話に連なるヌードの文脈でもない、裸の女性が着衣の男性と一緒に座り、非道徳、不可解と受け止められた。また、明暗のコントラストや、仕上げが雑だとして批判の対象となったが、若い画家たちからは明るい画面や大胆な筆遣いなどが支持され、後の印象派に多大な影響を与えることになる。人間と自然とを、清新な雰囲気のもと調和させるために、古典絵画に描かれた形態を用い、現代のピクニックの情景を表わした歴史画の様式を備えた風俗画といえる。ロンドンのコートールド美術研究所にも同名の小型バージョンがある。モネやピカソは《草上の昼食》にインスピレーションを得て、同名の作品を制作している。マネの代表作。
西洋伝統絵画の脱構築
《草上の昼食》が醸し出す違和感は、古典と現代との違和感でもある、と三浦氏は言う。「普通ピクニックに行ったとき、このような意味ありげなポーズは取らない。ピクニックにはまったく関係ない古典的なポーズをさせたために不自然さを感じる。右の男のポーズも不思議で、指の形が変だ。人差し指はヌードの女性、親指は水浴の女性を指しているように見える。ルネサンス期に聖愛と俗愛という主題があるが、天上の愛と地上の愛というか、宗教的な愛と世俗的な愛というか、この指の方向にちょうど鳥とカエルがいる。そうすると天上的なもの世俗的なもの、つまり聖愛と俗愛のアレゴリー(寓意的表現)と見なすこともできる。しかし、マネはそのようにも解釈できるよう多義的に描いたのではないか。通俗的な現代の情景に造形的な格調を与えるのがマネの手法である。古典的なイタリア絵画の換骨奪胎があり、写実的なオランダ絵画からはモチーフの鳥やカエルを引用、戸外での男女の遊楽風景は、18世紀フランスの雅宴画のスタイルを踏襲している。しかも、現代的なものと古典的なものは、本来水と油のはずなのに、合成、融合させて画面をつくった。それがこの《草上の昼食》の面白さ」と語った。
また最初に展示された落選展では、中央に《草上の昼食》を置き、左側にスペイン風の《マホの衣装を着た若い男》、右側に《エスパダの衣装を着たヴィクトリーヌ嬢》を配置し、三幅対のように見せた。「その三幅対は、イタリアのフィレンツェ派やヴェネツィア派、オランダ派やスペイン派など、ヨーロッパ絵画史を集約しており、内実を無化することによって、絵画の規則を侵犯するアナーキーな芸術世界への扉を開いている。そして可能な限り多くの絵画のジャンルも包括し、歴史画、肖像画、風俗画、裸体画、風景画、静物画といったジャンルのヒエラルキーを崩した」と三浦氏。
マネの《草上の昼食》が体現するのは、「一言で言えば“西洋伝統絵画の脱構築”にほかならない。絵画を内側から最初に揺るがした絵画。また、決定的な唯一の解釈がなく、いかようにも読めるようにマネは描いた。見る人によっていろいろな解釈ができるようなかたちで、この絵は構成されている。それだけ多種多様な要素を含んでいる」と三浦氏は述べた。
自由な意識の芽生え
近代都市化が進むパリでは19世紀中頃、過去の名高い画家たちの絵画を網羅したヨーロッパ絵画全集が出版され、古典的な絵画の木版図版が広く流布した。その画集『全流派画人伝』(全14巻、1861-76)は、美術評論家シャルル・ブラン(1813-1882)が編集し、マネにとっては作品制作のための有用なイメージソースとなり、同時に古典に対してどのように対処するか、戦略を考えるうえでの重要な資料でもあった。1839年にフランスの画家ダゲール(1787-1851)が発明した銀板写真術のダゲレオタイプが発表され、写真が爆発的に流行し、マネも自作を撮影させた写真を残している。複製画が開花した時代であった。
三浦氏は、「マネのマネたるゆえんとは、イメージに基づいてイメージを制作すること。それがマネの本質的な革新性」だと言う。絵画史のさまざまなイメージを意図的に文脈を無視して、自由自在に組み合わせ、コラージュして新しいイメージを創出していった。「美術学校で育たなかったマネのなかに、絵画とはイメージを操作し、構成してつくり上げるという自由な意識が芽生えたのではないか。現実の情景でピクニックを描くだけだったら、こんなに大きな歴史画サイズにする必要はないし、多様なモチーフを描く必要もない。マネは当時の現代風俗を歴史画に匹敵する大きさで、ヌードを入れて描こうとした。そのためには、歴史画に拮抗しうるだけの造形的な力のある古典の助けが必要だった。それがマネの野心だと思う」と三浦氏は述べた。
19世紀の後半、マネはクールベのレアリスム絵画の後を受けつつ、多様な伝統を吸収し、これらを素材として組み替え、それまでにない新しいタイプの絵画を生み出した。「模倣と借用によって、古典と前衛の対立を超え創造していくマネ。古典的な西洋絵画の流れがマネのなかに集約される一方で、マネから始まる近現代絵画は、いまだにマネが切り開いた圏域を蛇行している」と三浦氏は言う。「主題の消滅」と「造形の自律」という転換期を創出したモダニズム絵画を切り開いた近代絵画の父と形容されるマネ。その作品のポテンシャルは、計り知れず大きく深い。
三浦 篤(みうら・あつし)
エドゥアール・マネ(Édouard Manet)
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参考文献