アート・アーカイブ探求
クロード・モネ《睡蓮》──自然現象の反映「安井裕雄」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2019年09月15日号
※《睡蓮》の画像は2019年9月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
微動するフォトン
1959年、東京・上野公園内に開設した国立西洋美術館(以下、西美)が開館60周年を迎えた。記念展として西美の礎となった、実業家の松方幸次郎(1866-1950)が苦辛の末に蒐集した「松方コレクション展」(2019.6.11~9.23)が開催されている。松方コレクションは、浮世絵約8,000点を加えれば1万点に及ぶ規模だったが、第二次世界大戦の勃発により、数奇な運命に翻弄され、フランスから寄贈返還された近代フランス絵画や彫刻など375点をいう。今展では160点ほどの作品と歴史資料に西美の底力を見た思いがした。平日というのにチケット売り場には行列ができていた。最初に展示されていた作品、モネの《睡蓮》に足が止まった。
照明を抑えた空間で睡蓮を仰ぎ見るような体験をしたのは初めてだった。絵の中に入ったような没入感があり、心地よい水辺の風景を味わうことができた。青緑色に覆われた画面には、陽光に照らされて白く反射する丸い葉が浮かび、下から上部へ視線を誘導するような遠近感があり、ところどころ濃い紫色の花を配置している。柔らかな風や水面のさざ波、水の涼しさを感じさせ、水中の生き物を想像した。
縦長にも感じるがほぼ正方形の大画面に近づいてみると、大胆な垂直のストロークと素早く描いた絵具のタッチが抽象画のようでモネの息使いを感じる。静かな風景画にも見える《睡蓮》だが、自然は動いて生きていることを、微動する光の粒子であるフォトンをとらえてモネは伝えたかったのかもしれない。
《睡蓮》の見方を三菱一号館美術館の学芸グループ副グループ長である安井裕雄(ひろお)氏(以下、安井氏)に伺いたいと思った。安井氏は展覧会「モネ展─睡蓮の世界」(岩手県立美術館、2001-2002)の共同監修を務め、著書『モネ作品集』(東京美術、2019)を出版するなど、フランス近代美術を専門としており、特にモネ晩年の睡蓮について詳しい。海外出張から戻られたばかりの安井氏を東京・丸の内へ訪ねた。
始まりは「モネ展 睡蓮の世界」
安井氏は1969年愛知県名古屋市に生まれた。母親が安井氏を展覧会へ連れて行き、安井氏は小学生の頃から古今東西の美術展を見て育ったという。曾祖父から続く大工の家系で兄弟が四人、二人の兄と姉、安井氏は末っ子。父は一人親方の大工職人、父は息子を大工にしたいと思っていたが安井氏は不器用で、長兄が父の跡を継いだという。
1970〜80年代は新聞社主催の展覧会が多く開催され、高校生の頃の安井氏は不登校だったと言う。写真と映画が好きだったが、「ゴッホ展」「モディリアーニ展」「ゴーガン展」などを見に名古屋市立博物館や愛知県文化会館美術館へたびたび行き、展覧会がないときには図書館や映画館へ行って現実逃避をしていた。それでも高校は卒業でき「大学へ行ってよい」と親の許しを得て、安井氏は国立三重大学の人文学部文化学科ヨーロッパ地中海文化コースに入学した。そして大学で新設された留学制度を利用し、交換留学生として北フランスの工業地帯にあるリールのシャルル・ド・ゴール・リール第三大学へ1年間留学する。帰国後、三重大学の卒業論文を提出し、1994年、財団法人ひろしま美術館に就職した。
国公立美術館のシステムも経験しておいた方が将来よいと考え1997年、新設美術館のオープニングスタッフを求めていた岩手県教育委員会の公募を受けて転職する。県立美術館整備室に入り、岩手県立美術館は2001年に開館。開館記念展「色彩の歓び:メルツバッハー・コレクション展」に次いで開催した展覧会が「モネ展 睡蓮の世界」(2001.12-2002.2)だった。32歳の安井氏が初めて本格的に取り組んだ展覧会が、モネの「睡蓮」だったのである。安井氏は国内外の実物作品をひとつずつ観て回り、資料を探し出し調査を進めながら、関係者と会い証言を得て、学びつつ徐々に展覧会の準備を進めていったという。モネ晩年の「睡蓮」に焦点を当てた2001年の企画展「モネ展 睡蓮の世界」には、学芸員安井氏のすべてが凝縮されていると安井氏は断言する。岩手県立美術館の立ち上げを経験した安井氏は、その後、2007年に三菱一号館美術館へ転職し、2010年の三菱一号館美術館の開館にも寄与することとなる。
安井氏が初めて国立西洋美術館所蔵の《睡蓮》を見たのは1994年、「バーンズコレクション展」を見たあとの常設展でのことだ。「高校1年生のとき(1986)に愛知県文化会館で見たモネのアイリスの絵を思い出した。絵の青色の美しさが強く印象に残っていたのだろう。その同じ青色をポイっと見せられた感じがした。青は、紺や緑、深緑が重ねられて1色の青色ではなかったことが心に響いていたのだと思う」と安井氏は《睡蓮》の第一印象を語った。
風景画家ブーダンとの出会い
モネは、1840年フランスのパリに商船員だったという父クロード・アドルフ・モネと母ルイーズ=ジュスティーヌ・オーブリーの次男として生まれ、出生時の名をオスカー=クロード・モネといった。5歳頃に経済的理由から一家は伯母のマリー・ジャンヌ・ルカードルを頼り、セーヌ河口で大西洋貿易の拠点として繁栄していた港町ル・アーヴルに転居する。ルカードル伯母は芸術愛好家でモネへの影響が大きかった。
11歳で入学した公立のコレージュ(中学校)では、画家のフランソワ=シャルル・オシャール(1800-1870)に素描を学び、カリカチュア(似顔絵)を描いて評判となる。母が亡くなった17歳のときコレージュを退学し、カリカチュアを額縁屋で販売する。この頃、16歳年長の風景画家ウジェーヌ・ブーダン(1824-1898)と知り合い一緒に戸外制作をし、初の油彩画《ルエルの眺め》を完成させル・アーヴル市の展覧会に出品した。後年、モネは画家になったのはブーダンのおかげであると述懐している。
パリに向かった19歳のモネは、自由な校風の画塾アカデミー・シュイスに通い、カミーユ・ピサロ(1830-1903)と交流した。しかし21歳のとき、兵役により騎兵隊に配属、アルジェリアへ赴くことになったが、翌年チフスに罹り帰国、ル・アーヴルへ戻った。ブーダンを通じ、オランダの風景画家ヨーハン・バルトルト・ヨンキント(1819-1891)と出会い、戸外制作から生じる明るい外光を巧みに表現する作風を学ぶ。再びモネはパリへ行き、歴史画家シャルル・グレール(1806-1874)のアトリエに入った。オーギュスト・ルノワール(1841-1919)、アルフレッド・シスレー(1839-1899)、フレデリック・バジール(1841-1870)らと交友し、写生旅行へ出かけて自然の光の描写を探究した。モネは、画家になる唯一の登竜門であったサロンでの入選を目指していた。
1865年、25歳になったモネは、後に妻となるカミーユ(1847-1879)と知り合い、海景画が2点サロンに初入選。翌年も《カミーユ(緑衣の女性)》ほか1点が入選を果たし、エドゥアール・マネ(1832-1883)と出会った。27歳のときに長男のジャンが誕生。贅沢な暮らしを好む浪費癖のあるモネは、経済的に困窮し、伯母ルカードルや父を頼った。
1869年モネとルノワールは、セーヌ河岸のラ・グルヌイエールにイーゼルを並べ、戸外で一緒に制作を行なった。30歳になったモネはカミーユと結婚。普仏戦争(1870-71)が勃発するとモネは妻子とともにロンドンへ逃れ、印象派のマーケットを開拓していった画商ポール・デュラン=リュエル(1831-1922)と出会う。翌年戦争が終結し、パリから北西約10kmにあるセーヌ川右岸のアルジャントゥイユに移った。
水面にきらめく光の変化
戦争からの復興による好景気を背景に投機的な資金が絵画市場に流入、画商のデュラン=リュエルは、モネの作品を購入し始める。モネは広い家に女中と庭付きの暮らしを手に入れていた。1874年(34歳)、モネとルノワール、ピサロ、ドガら30名は、より自由な表現、より自由に発表できる場を求め、サロンに対抗するため「画家、版画家、彫刻家等芸術家による共同出資会社」を組織し、その第1回展(のちに第1回印象派展と称される)を開催。モネは、イギリス海峡を臨む故郷ル・アーヴルの朝の太陽に色づく一瞬の海の表情をとらえた《印象、日の出》のほか12点を出品。未完成作と非難された《印象、日の出》だが、展覧会を見た版画家・画家・劇作家のルイ・ルロワが風刺新聞『ル・シャリバリ』の書いた批評記事により「印象派」が広く社会に定着していった。
豊かな生活を満喫していたモネだったが、急激な景気後退が始まり、最大のパトロンだった実業家エルネスト・オシュデ(1837-1891)が破産。次男ミシェルが誕生したモネ一家は、1878年破産したオシュデ夫妻と6人の子供とヴェトゥイユで同居することになった。しかしモネの妻カミーユは癌のため翌年32歳で亡くなってしまう。オシュデ家との同居生活は、次の転居先ポワシー、そして1883年モネの終の棲家となるジヴェルニーへの移住後も続いた。1891年オシュデの死去後、オシュデの妻アリス(1844-1911)は52歳のモネと再婚する。モネは自宅に隣接した土地を入手し、池の造成に着手。睡蓮や柳、牡丹、銀杏、藤、竹、バラ、ラズベリー、アイリス、アガバンサスなどが植えられたその「水の庭」は、300点にも及ぶ睡蓮の作品を生み出した。
1898年(49歳)、モネは、彫刻家オーギュスト・ロダン(1840-1917)との二人展に、クルーズ渓谷の風景を同一構図で8点描き展示、これよりモネの連作が展開していく。積み藁やポプラ並木、ルーアン大聖堂、そして睡蓮と、世紀をまたいで連作を制作した。妻アリスとヴェネツィア旅行へ出た翌年の1909年、「睡蓮 水の風景連作」展を開催。2年後、妻を亡くしたモネは白内障と診断され、1914年(74歳)、長男が死去すると悲しみを乗り越えようと睡蓮の大作に取りかかった。
睡蓮の「大装飾画」(現オランジュリー美術館蔵)のためにアトリエを建設。1921年、川崎造船所(現・川崎重工業株式会社)初代社長の松方幸次郎がモネを訪問、松方は翌年《睡蓮》と《睡蓮、柳の反映》を購入。「大装飾画」は国家寄贈が合意された。白内障手術後の1926年、モネは自宅で永眠、享年86歳。亡くなるまで睡蓮の池に注ぐ自然の陽光と空気感を描き続けていた。ジヴェルニーの教会にアリスとともに埋葬されている。「水面の輝きを追うように移住したモネ。その水面にきらめく光の変化が、汲めども尽きぬモネの源泉となっていた。モネは体感した自然の息吹を、油絵具によって、キャンバスの上に固定することのできた、類い稀なる画家であった」と安井氏は言う。
【睡蓮の見方】
(1)タイトル
睡蓮(すいれん)。英題:Water Lilies
(2)モチーフ
睡蓮、水。
(3)制作年
1916年。モネは松方幸次郎と1921年に会い、翌年手放すときに習作ではあるが「1916」とサインを入れた。実際の制作年は1914年から1917年と推測される。
(4)画材
キャンバス・油彩。
(5)サイズ
縦200.5×横201.0cm。ほぼ正方形。
(6)構図
池の実景に基づいた睡蓮の配置のままに描いている。前景は睡蓮を上から見下ろすように描き、中景から遠景へ行くにしたがい、睡蓮を水平にとらえて遠近感を出している。
(7)色彩
青、緑、黄、紫、白と色数は少ないが、調和の取れた色調の多色。
(8)技法
屋外にイーゼルを設置して、実景を見ながらキャンバスに大胆なフレーミングを取り、睡蓮をスケッチ。自然の輝きを画面に定着させるため、筆触分割
の技法により、細部を省略し、睡蓮の花や葉などを素早いタッチで描いた。(9)サイン
オレンジ色で「Claude Monet 1916」と左下に署名。
(10)鑑賞のポイント
オランジュリー美術館の《睡蓮(大装飾画)》のための習作であり、第1室の東の壁にある《緑の反映》と関連する。習作ではあったが、モネのサインも入り晩年の「睡蓮」のなかでももっとも優れた作品のひとつとなった。濃い水の色と垂直方向に強調されたストロークが、深く神秘的な水の深みを暗示し、重層的な絵画空間をつくっている。形態は簡略化されているが自由で複雑な筆致で描かれており、後の表現主義 や抽象絵画の先駆となる革新性を示す。1922年、モネは「大装飾画」に関連した「睡蓮」を松方幸次郎だけに譲ったのだが、第二次世界大戦で日本が敗戦国となった前年の1944年にはフランス政府が接収。1959年、フランス政府より寄贈返還され、国立西洋美術館が所蔵する。松方コレクションを代表する絵画作品である。
開かれている小宇宙
安井氏は「《睡蓮》は上から眺めていた手前の睡蓮の葉が、画面の上に行くにしたがいだんだんと水平方向から見て描かれ、同時に水面が急速に立ってくる。距離が生まれる湾曲したパースペクティブ。いわゆる線遠近法ではなく、どんぶりの内側に入って眺めるような遠近感だ。特に複雑な遠近感を示す空間は水面。花と葉と水面そのものが鏡状になっており、空あるいは周りの木々の緑を映す。“花と葉”、“水”、“水の中”そして“池の底”まで想像させる。モネは光の変化や水鏡の反映を追っているうちに、自然の根源的な要素や変化までを写し取っていたのかもしれない。《睡蓮》は自然現象の反映である」と述べた。モネの目は自然に向けられただけでなく、水面という宇宙にまで開かれた感覚器を通して世界を見つめていたのだろう、と安井氏。《睡蓮》の鑑賞には、近づいて遠ざかって、とにかく時間をかけて見てほしいと言う。情報量の多い絵のため、理解するまでに時間がかかるというのだ。
「モネが描いた当時の生々しい筆の動きや塗り重ねなど、描き方がタイムカプセルのようによく残っているので、よく見てもらいたい。数ある『睡蓮』のなかでも特にこの《睡蓮》は、あまり修復の手が入っていない。断言はできないが、モネが描いたままの形で残っている。そういう意味でも面白い。ほとんど手が加えてられていない作品としては、『大装飾画』の上部を飾る予定だった藤の花を描いたフランスのドゥルーにある《藤》(1917-1920、マルセル=デサル美術歴史博物館蔵)という畳1畳分くらいの作品があるが、モネの作品は大部分が修復されている。松方コレクションの《睡蓮》と《藤》、それと地中美術館にある縦1メートル×横2メートルの《睡蓮の池 柳の反映》と《睡蓮の池》、そして横幅6メートルの《睡蓮の池》を私はモネ作品の基準作としている。《睡蓮》は日本が世界に誇るべき作品のひとつだと思う。単眼鏡などを使うと無限の情報量から小宇宙を味わうことができる。モネが描いた世界は狭かったが、開かれている世界は広い」と安井氏。いつか指定文化財になるのではないか、と思いながらいつも《睡蓮》を見ていると語った。
安井裕雄(やすい・ひろお)
クロード・モネ(Claude Monet)
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【画像製作レポート】
参考文献