アート・アーカイブ探求
サルバドール・ダリ《記憶の固執》──無意識の情景「村松和明」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2019年10月15日号
※《記憶の固執》の画像は2019年10月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
異種混交性の美
今年も日本はノーベル賞の受賞者が誕生した。リチウムイオン電池を開発してノーベル化学賞を受賞した吉野彰氏(71)だ。日常生活に欠かせないスマートフォンやパソコンでおなじみの電池と聞くとノーベル賞が身近に感じられる。スポーツでも最近ではラグビーワールドカップで、リーチ・マイケル(31)をはじめ松島幸太朗(26)など、国際色豊かなラガーたちが一丸となり、チーム日本の快進撃に世界が驚いている。調和のとれた多様性に未来を感じながら応援していた。
そんな日常とは異なるモチーフの組み合わせで異彩を放す絵画がある。サルバドール・ダリの《記憶の固執》(ニューヨーク近代美術館蔵)だ。ぐにゃりと柔らかい時計の絵として記憶している人も多いだろう。風景と静物、有機と無機、柔軟と強硬など、異種混交性の美を目指したのか。時が止まるこの世の終末期か、見たことのない風景だ。よく見ると、時計には蟻が群がり、蝿が止まっている。横たわる顔のような物体の眉毛とまつ毛には金色の線が一本一本丁寧に描かれ、遠景の無機質な岩肌、海に波はなく、光が射す砂浜の岸には白い卵のようなものがあり、象の鼻に似た枯れ木の近くには青い卵のような物体が落ちている。一体何が描かれているのだろうか。
近年ダリに関する論文や書籍が意外にも少ないなかで、『ダリをめぐる不思議な旅』(ラピュータ、2010)や『もっと知りたい サルバドール・ダリ 生涯と作品』(東京美術、2016)など、ダリについての著作がある村松和明氏(以下、村松氏)に《記憶の固執》の見方を伺いたいと思った。愛知県岡崎市へ高速バスで向かった。
現存していないリアル
1963年、村松氏は愛知県岡崎市に生まれた。大学は東京の武蔵野美術大学に入学、1985年に卒業すると地元に戻り、岡崎市初の公募で学芸員として採用される。同年「おかざき世界子ども美術博物館」の立ち上げに関与し、1996年には「岡崎市美術博物館」の開設準備の段階から関わった。「心を語るミュージアム」というコンセプトから、シュルレアリスムを柱に据えることを提言し推進してきた。シュルレアリスムコレクションで知られるミュージアムとなった。
また村松氏は、おかざき世界子ども美術博物館の「有名美術家10代の作品コレクション」を積極的に推進しており、博物館ではモネ、ムンク、ピカソ、ロートレック、エゴンシーレ、青木繁、岸田劉生、村山槐多ら錚々たる画家の幼少時代の作品約250点が収蔵されている。
村松氏は子どもの頃から絵が好きで、小学校4年生の頃に画集で見た、ダリの《記憶の固執》に強く惹かれたという。「写真ではない、現存していないけれどもリアルなものが心に入ってきた。これは何だろうと不思議な感覚」であったという。中学生の頃には絵を描くことが好きで、画家になりたいとも考えていたようだ。「子ども時代に見たものは、その後の人生の感性の糧になったり、人生そのものを変えてしまったりすることもある。子ども時代にこそ本物に触れなくてはならない」と村松氏。
社会人となり、ニューヨーク近代美術館にある《記憶の固執》と初めて対面した村松氏は、「小さくて驚いた。しかし本物の力はすごいと思った。ダリは実物を見ないといけない」と述べた。ダリは謎解きが難しく、自伝『わが秘められた生涯』を書いているが、天才を装うために錯乱を意図して書かれたダリの文章を真に受けては駄目だという。
2003年、ダリ生誕100年を記念し、村松氏はスペイン政府よりダリ研究の要請を受け、スペインへ行った。ダリと共にミロの調査研究を行なったが、ダリは知名度が高いわりに本国での研究も思いのほかに進んでいないと感じたという。ダリの生まれた地に立ち、その空気を得ることで、初めて謎の深さと奇妙な裏側が見えてきたそうだ。ダリは「そこでしか生きられない場所というものがある」と言ったが、村松氏は「彼には少し臆病な部分もあり、生涯子どもの心を持ち続けた純粋な人であったからではないか」と語る。
シュルレアリスムとの邂逅
サルバドール・ダリは、スペインのカタルーニャ地方フィゲラスで、公証人で町の有力者だった父イ・クーシと母ファリパ・ドメネクの次男として1904年に生まれた。翌年アインシュタイン(1879-1955)の相対性理論が発表されている。フィゲラスは、フランスの国境とバルセロナの間に位置する開放的で文化的な小都市だった。ダリには兄と妹がいたが、兄はダリの生まれる2年前に亡くなった。サルバドールは兄の名だった。生涯ダリは自分は兄の身代わりという意識にとらわれる。
早くから絵の才能を発揮したダリは、12歳でフィゲラスのカトリック系の学校で中等教育を受けながら、市立デッサン校にも通った。優雅さと調和のあるルネサンスから同時代の美術まで広く絵画様式を学び、フィゲラス市立劇場(のちのダリ劇場美術館)で開かれたグループ展に出品した14歳の頃には、すでにフィゲラスでは知られる存在だった。
17歳で母を癌で亡くし、ダリは大きな衝撃を受ける。4歳下の妹アナ・マリアを母親に代わる存在として偏愛し、妹を繰り返し描いた。のちにアナ・マリアは、『妹が見たサルバドール・ダリ』(1949)を出版し、ダリの私生活を明かした暴露本にダリは激怒、妹と絶交した。1922年マドリードのサン・フェルナンド王立美術アカデミーに入学。後年映画監督になるルイス・ブニュエル(1900-1983)や、詩人ガルシア・ロルカ(1898-1936)たちと学生寮で出会い親交を持つが、大学に抗議する学生運動を率いたことでダリは放校処分となった。
1925年21歳、バルセロナで有名なダルマウ画廊で初個展を開くと、パブロ・ピカソ(1881-1973)とジョアン・ミロ(1893-1983)に高く評価された。特にミロは、ダリに画家になることを強く勧め、反対する父親を説得に家を訪ねている。1929年には、パリでブニュエルと共に映画『アンダルシアの犬』を制作し、ミロを通じて詩人で批評家のアンドレ・ブルトン(1896-1966)ら、シュルレアリスム
の芸術家たちと出会い、グループに受け容れられていく。そして海の見えるスペインのカダケスで過ごした夏に、詩人ポール・エリュアール(1895-1952)の妻であったガラと出会う。
ミューズとしてのガラ
1894年ロシアに生まれたガラは、ダリより10歳年上だった。本名をエレナ・イヴァノヴナ・ディアコノワという。ミューズとなったガラによって、ダリはエロティシズムと死の魅力に気づかされた。1930年ダリは海沿いのポルト・リガトに漁師の小屋を購入し、ガラと暮らす住宅兼アトリエを構えた。「偏執狂的・批判的方法」
を提唱し、1931年には一度見たら忘れられない《記憶の固執》を制作。翌年ニューヨークで初のシュルレアリスム展に出品し話題となる。1930年代はダリの最盛期となった。アトリエには大型の拡大鏡が設置され、それをのぞき込みながら極細の筆で描いていたという。1936年スペインに内乱が勃発する。シュルレアリストの代名詞的存在となったダリだが、常軌を逸した言動やパフォーマンスがブルトンの怒りを買う。ダリは「シュルレアリスムの死」を宣言し、1939年グループから除名された。自己顕示欲と強い自己愛は、つねに優しかった母親を失った喪失感と、つねに抑圧してきた父親に対する反発から生まれたコンプレックスが根底にあったようだ。
ガラと正式に結婚し、第二次世界大戦が勃発したことから1940年にアメリカへ亡命。科学や物理への興味を深め、映画や演劇、ファッションなどの異分野にも積極的に取り組み、確固たる地位と財力を得た。
1942年38歳、自伝『わが秘められた生涯』を出版し、第二次世界大戦後の1948年スペインに帰国。インスピレーション中心だった“幻視”を“原子”に、“心理”を“真理”に置き換えて「神秘主義宣言」を発表した。
1974年、故郷フィゲラスにダリ劇場美術館が開館。1982年のガラの死によりダリは急速に衰え、1984年に寝室の火災により重度の火傷を負った。そして1989年、ダリ劇場美術館に隣接するガラテアの塔で心不全により生涯を終えた。享年84歳。ダリ劇場美術館の地下聖堂に埋葬されている。
ダリ生誕100年を終え、ダリの派手なイメージが変わりつつある。「エロティシズムが真っ先にくる」とダリは言っていたが、ダリは愛を求めて描いていた、と村松氏。ダリはガラの存在によって失われた母性を補填されることになった。インパクトを与えることにより、常識や固定観念を白紙にさせ、新しい思考回路や新たな感覚を呼び起こさせようとした。芸術と芸術家のあり方に一石を投じ、現代アートの先駆者のひとりとなった。
【記憶の固執の見方】
(1)タイトル
記憶の固執(きおくのこしつ)。英題:The Persistence of Memory
(2)モチーフ
時計、枯れたオリーブの木、蟻、蝿、厚い台、板状の台、顔のような物体、砂浜、岩壁、海、空。
(3)制作年
1931年。ダリ27歳。
(4)画材
キャンバス・油彩。
(5)サイズ
縦24.1×横33.0cm。紙のA4サイズ(21.0×29.7cm)に近い大きさ。
(6)構図
水平線のある自然風景を遠景とし、時計や台などのオブジェを前景に配置して、安定した画面に動きと奥行き感を与えている。後年、同じ構図で描いた《記憶の固執の分解》(1952-54、キャンバス・油彩、縦25.4×横33.0cm、サルバドール・ダリ美術館蔵〔米国〕)がある。
(7)色彩
補色関係にある青と黄を基調色に、金属質を表す金やグレー、白、懐中時計の橙色、砂浜の茶と黒など多色。
(8)技法
遠景の風景を先に描き、インスピレーションで生み出された“溶けた時計”などは瞬発的に後で描き加えた。筆跡の残らない薄塗りで、写実的描法を用いながら、多重イメージなどを駆使して描いた。ダリは「偏執狂的・批判的方法」と呼んでいる。
(9)サイン
「OLIVE Salvador Dali 1931」と左下に黒色で署名。
(10)鑑賞のポイント
《記憶の固執》というタイトルは、妻ガラが初めて見たときに「この絵は一度見たら決して忘れられないわ」と言ったことから付けられたと言われる。「柔らかい時計」や「溶解時計」「時間の永続性」とも呼ばれる。この絵画誕生の様子をダリが回想している──ある晩、友人たちを自宅に招き食事をし、そのあとガラは彼らと外出した。自分は家でひとり、皿の上に残されたカマンベールチーズの「超柔らかさ」について考えていた。そして寝る前にアトリエの小さな風景画を確認し、明かりを消した瞬間に「見えた」のである──。「進行する時間」と「溶けていくカマンベールチーズ」が重なって見えた。硬いものと柔らかいものの対立のなかで、ダリは描きかけの風景画にイメージに浮かんだ溶ける時計を描き加え、2時間後にガラが戻って来たときには完成していた。アトリエから見えるポルト・リガトの入り江の風景を基に、死を表わす止まった時計、内面の自画像と考えられる横たわる奇妙な物体、終末を暗示させる懐中時計に群がる蟻、生命の終わりを黙示する枯れたオリーブの木、その奥にある板状の長方形の台は、崩壊した終末世界からの旅立ちの象徴と考えられる家の前の波止場。ダリにとって秩序や習慣、時間に拘束された社会は嫌悪の対象であり、鼓動を止めた社会の崩壊と静寂を描出した。無意識の超現実の世界を提示したダリの代表的作品。
夢の実像
絵が描かれた1931年は、ダリがガラと出会って間もない頃だった。《記憶の固執》には“か弱いダリ”がむき出しの状態で投影されている、と村松氏。ガラに守ってもらいながら描いた1930年代のダリ作品は、精神も肉体も最高潮で作品の質が充実している。
これまで《記憶の固執》の解釈としては、時間に追われている現代社会の滑稽さや、機械的なものに振り回されている現代人の哀れさなど、多くの解釈が出ているという。しかし、そういう解釈や見方とは関係なしに自由に見てほしいと続けた。「ダリは、パッと閃いた幻想光景をオートマティスムに近いかたちで一気呵成に慌てて描いている。思考する意識を捨てて純粋なイメージをキャンバスに定着させた。鑑賞者も考えずに絵の中に入っていく見方でいいと思う。面白いとか、可笑しいとか、不思議と思うのでもいい。解説書を読んでからダリの作品を見るとかえって絵が見えなくなってくる気がする」と村松氏。
ダリは死に対する恐怖や関心が強かった。時計に付いている蟻と蝿は、腐敗したものにたかることから死を象徴し、中央の横たわる人の顔のような物体は、1929年にガラと出会ったダリが自身の精神性を「か弱い裸体」として表現したダリの“内面の自画像”と村松氏は言う。ダリは、ガラによって生き続けることができるようになったのだ。眼前に広がる風景はアトリエのあるポルト・リガトであり、身近なモチーフを用いて超現実の世界を構成した。「写真に手描きで着色したような、どこか夢で見たような、ある種の普遍的な《記憶の固執》は、リアリズムによって“夢の実像”を表現した初めての絵画だ」と村松氏は語った。
村松和明(むらまつ・やすはる)
サルバドール・ダリ(Salvador Dali)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献