アート・アーカイブ探求
ウィリアム・ターナー《解体されるために最後の停泊地に曳かれていく戦艦テメレール号、1838年》──移ろいゆく時代「荒川裕子」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2019年11月15日号
※《解体されるために最後の停泊地に曳かれていく戦艦テメレール号、1838年》の画像は2019年11月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
船と夕陽
日本代表がベスト4入りを目指した「ラグビーワールドカップ2019日本大会」の対南アフリカ戦でのテレビ瞬間最高視聴率は49.1%(関東地区)に上り、スタジアムへの観客動員数は大会期間(9月20日〜11月2日)を通じて延べ170万人に達したという。過酷なトレーニングが信頼を築きあげ、強靭な肉体と冷静な判断力が融合するラグビーのにわかファンとなって観戦した。ワールドカップ閉幕後の喪失感にラグビーロスという造語が生まれたが、ラグビーには憲章があることも知った。五つの価値(品位・情熱・結束・規律・尊重)が重視されているという。ラグビーの発祥の地、イギリスの絵画に、解体される戦艦を主題にしたタイトルの長い印象的な作品がある。ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵するロマン主義の画家ウィリアム・ターナーの代表作《解体されるために最後の停泊地に曳かれていく戦艦テメレール号、1838年》(以下、《戦艦テメレール号》)を探求してみたい。
画面の大半が空で水平線上には船と夕陽が並び、水と雲に黄金色が映り輝いている。穏やかな水面を、焦げ茶色の蒸気船に曳かれながら白く大きな帆船がこちらへ向かってくる。
《戦艦テメレール号》の見方を法政大学キャリアデザイン学部教授の荒川裕子氏(以下、荒川氏)に伺いたいと思った。キャリアデザイン学部とは、キャリアを人が歩む道筋そのものと捉え、教育・ビジネス・文化という三つの領域を横断する学際学部で「生き方(キャリア)の設計(デザイン)」を探求しているそうだ。
荒川氏は、図録『ターナー展』(朝日新聞社)の学術監修を務めたほか、サム・スマイルズ著『ターナー──モダン・アーティストの誕生』(ブリュッケ)の翻訳や、著書『もっと知りたい ターナー 生涯と作品』(東京美術)など、ターナーに関する著述が多数あり、イギリス美術史を専門とする。東京・靖国神社に近い、法政大学市ヶ谷キャンパスへ向かった。
市民からの美術史
荒川氏は神奈川県藤沢市に生まれ、絵を描くことが好きな子供だったという。大学受験生になると美術の歴史を研究してみたいと思い、美術理論を学ぶことのできる、東京藝術大学の美術学部芸術学科へ入学した。しかし、当時の藝大の西洋美術史にはイタリア・ルネサンスを専門とする教授が多くを占めていた。荒川氏は4年生のときに、ベルギー給付留学生としてブリュッセル自由大学へ留学し、19世紀の近代美術に関心を抱くようになる。
ベルギーから帰国した荒川氏は、1987年東京大学大学院の人文科学研究科西洋美術史へ進学。高階秀爾先生の指導のもと、近代以降の西洋美術史を学ぶ。西洋美術史においてはイタリア美術とフランス美術が王道であったが、1980年から90年代にかけてはほかにも研究の視野が広がり、美術史上でもさまざまな再評価が起きていた。社会、政治、経済、民族や階級、ポストコロニアリズムやジェンダーなどと結びつき「ニュー・アート・ヒストリー」が唱えられた時代で、西洋美術史研究が相対化されていくターニングポイントだった。
荒川氏は、「イタリア・ルネサンス、フランス近代といった主流よりも、主流でないほうがかえって美術の成り立ちがわかりやすい。フランスのように国を挙げて文化芸術を推進する中央集権的なかたちではなく、美術が遅れて登場したイギリスは、市民の側から美術という領域を社会のなかで形成していったようなところがある。特にいち早く産業革命が成功したことは大きい。財を蓄えた人たちが、18世紀後半から国内に不足している文化芸術に関心を持ち始め、海外から美術品を買い集めるとともに、自国産の美術も求めるようになった。ロンドンのナショナル・ギャラリーは、ナショナルといえども民間人が集めた国内外の作品で構成され、国や王室が主導するのではなく国民の自助努力の成果だ。スペインのプラド美術館や、フランスのルーブル美術館のように王侯貴族のコレクションとは違い、市民が努力して築き上げたところにイギリスの魅力がある」と述べた。
荒川氏が《戦艦テメレール号》を初めて見たのは、ヨーロッパの美術館を巡った大学2年生のときのひとり旅だった。「色の対比がものすごく鮮やかでインパクトがあった。夕陽を背景に船が静々と動いていたけれど、手前の蒸気船はよく覚えていなかった」と当時を振り返った。
史上最年少でロイヤル・アカデミー正会員
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーは、ロンドン中心部のコヴェント・ガーデンで1775年に生まれた。父ウィリアムは、繁盛しているかつら屋兼理髪店を営み、母メアリ・マーシャルは精神を病んで家族を悩ませていた。ターナーはずんぐりした体形で、身なりに頓着せず、もごもごと不明瞭な喋り方をしたという。3歳年下に妹がいたが、5歳になる前に亡くなり、衝撃を受けた母は精神病院へ入り、1804年ターナーが29歳のときに生涯を閉じた。結婚をしなかったターナーの女性観や家庭観に影響を与えたと考えられている。
10歳のとき、母方の叔父夫婦のもとに預けられたターナーは、早くも地誌的風景の版画に色をつけて手間賃をもらう仕事を手がけていた。ターナーはロンドンへ戻り、父親は息子の非凡な画才を認め、ターナーが描いた水彩素描を店のウィンドウに並べ、1枚数シリングで販売した。ターナーが画家として成功すると、父は店を閉めアトリエの助手を務めてターナーを支えていく。ターナーは14歳になると建築画を専門とするトマス・モールトン(1751頃-1804)から、初めて本格的に素描を学ぶ。そして1789年12月、ロイヤル・アカデミーへ入学を許可された。フランスの王立絵画彫刻アカデミー(1648年創立)を範として新設されたロイヤル・アカデミーは、この時代のイギリスにおける唯一の正式な美術の教育機関兼展覧会組織であった。
ターナーは、水彩作品《ランベスの大主教館》(1790)を描き、アカデミーの年次展覧会でデビューし、以後没するまで展覧会に出品しなかった年はわずか5回。アカデミーは、画家ターナーの舞台であり、歴史の浅いイギリス美術の振興を図るための拠点でもあった。過去の巨匠の古典的な表現様式を規範とし、聖書や古代史などの主題を通した歴史画をもっとも重視しながら、1796年初めての油彩画である《海上の漁師たち》を展覧会に出品する。1802年に史上最年少の26歳でイギリス美術界を担うロイヤル・アカデミーの正会員に選出された。
クロード・ロランを求めて
当時の芸術家を援助するパトロンたちはヨーロッパ大陸から舶来した美術品を購入していたが、経済力をつけてきた人々のあいだにも美術を楽しむ風潮が広まり、特にサイズが小さく、価格も低めの水彩画は新興のコレクターたちに好まれた。ターナーの作品は、傑出した技術と豊かな表現力によって熱烈な愛好家を多く生んだ。
その背景には18世紀イギリスで流行したピクチャレスクの美学があった。「絵(ピクチャー)にしたならば心地よいたぐいの美」という意味で、なめらかで整った「美(ビューティフル)」とは異なり、荒々しさや不規則性、突然の変化などに独自の美的価値を認める感性を指すもので、ターナーはこの美学の提唱者のひとりであるウィリアム・ギルピン(1724-1804)の著作を携え、スケッチ旅行へ出かけたという。また、巨大さや恐ろしさ、曖昧さなど、途方もないものが心のなかに呼び覚ます強烈な畏怖の感覚を指す、崇高の美学が人々の感性を大きく押し広げた時期でもあった。
1793年から1815年まで、イギリスは20年以上にわたりフランスと戦争状態にあり、人々を大陸旅行から遠ざけていた。しかし、1802年のアミアンの和約によって束の間の平和が訪れ、ターナーは初めての大陸旅行で、スイスとフランスを周った。ターナーが生涯にわたって探求し続けたのは、フランス人画家クロード・ロラン(1600-1682)の風景画だった。黄金色の光に満ちた広大な空間の中に古代風の情景を配し、その理想化された情景がイギリス人に絶大な人気を誇っていた。ビジネス感覚を備えていたターナーは1804年自身の画廊を開き、1807年には版画集『研鑽の書』の刊行を開始。ロイヤル・アカデミーの遠近法教授にも任命された。
自然の全体系を写し取った風景画家
1815年、ナポレオン戦争の終結によって、ヨーロッパに平和が訪れた。1819年、44歳になったターナーは、憧れのヴェネツィア、ローマ、ナポリ、フィレンツェなどを巡り、スケッチを描きためた。その後の旅行ブームに呼応して、ドイツやオランダ、ベルギー、フランスにも旅し、戦後の風景を描き写した。版画化された風景画は贅沢な旅行書の挿絵となって出版され、ターナーの名声は国外へも広まっていった。
1830年代の後半になると次第にターナーは、主題も表現スタイルも独創的な画面を生み出すようになる。抽象絵画を思わせる大胆な色彩や筆遣いで、光や大気、自然のエネルギーのほとばしりを表現した。ターナーは、化学者のジョージ・フィールド(1777-1854)や、英訳されたゲーテ(1749-1832)の著作などを通して最新の色彩理論に触れ、モダンな意識を目覚めさせていった。美術批評家たちは、斬新な作品を前に“カレー”“シチュー”“石鹸の泡”などと、作品の特徴を批判的な言葉で捉えようと苦心していたが、気鋭の美術批評家ジョン・ラスキン(1819-1900)はターナーの擁護者となっていく。ラスキンにとってターナーは、「自然の全体系を写し取った唯ひとりの人間であり、その点においてこの世に存在した唯ひとりの完璧な風景画家」(荒川裕子『もっと知りたい ターナー 生涯と作品』p.58)であった。
ターナーは18世紀の写実的なスタイルから出発し、印象派、抽象画まで100年かかる絵画の歴史をひとりで踏破したといってよい。結婚はしなかったターナーだが、20代半ば頃から15年ほど、音楽家の未亡人と愛人関係にあり、二人の娘をもうけている。また60歳頃には、海辺の町マーゲイトの宿の女主人と出会い、その後ロンドンのチェルシーで一緒に暮らした。最期まで《戦艦テメレール号》を手離さず、テムズ川に臨むチェルシーの自宅で1851年に亡くなる。享年76歳。セント・ポール大聖堂の地下墓地に埋葬された。1984年に現代美術の権威ある賞「ターナー賞」が創設され、2011年にはターナーゆかりの地であるマーゲイトに文化創造活動の拠点「ターナー・コンテンポラリー」が完成した。
【戦艦テメレール号の見方】
(1)タイトル
解体されるために最後の停泊地に曳かれていく戦艦テメレール号、1838年。英題:The Fighting Temeraire tugged to her last berth to be broken up, 1838
(2)モチーフ
戦艦テメレール号、蒸気船、帆船、ブイ、二人の人物が見える小舟、川、空、雲、太陽、月。
(3)制作年
1839年。ターナー64歳。ロイヤル・アカデミー展出品作。
(4)画材
キャンバス・油彩。
(5)サイズ
縦90.7×横121.6cm。
(6)構図
17世紀フランスの風景画家クロード・ロランを手本にした壮大な構図。画面の4分の3を空とし、戦艦のマストと蒸気船の煙突、白旗のポールが垂直に立ち、安定感を与えている。夕陽が水面の反射や船の影をつくり、月が見える空には夜の闇が垂れこめ始めた。広さと遠近感を感じる。
(7)色彩
黄、オレンジ、茶、青、白、黒など多色。霞む暖色のオレンジと寒色の青の対比は、優美な帆船の白とずんぐりとした蒸気船の焦げ茶とも呼応している。
(8)技法
水上の景色を写実的に描写。色彩の微妙なグラデーションを油絵具を薄めて水彩画のように薄く描いたところと、パレットナイフを用いて荒々しく絵具を厚く塗った部分がある。
(9)サイン
なし。
(10)鑑賞のポイント
老朽化のため解体される戦艦が、蒸気船に曳かれて最後の旅をしている姿。戦艦テメレール号は、1805年ナポレオン戦争最大のトラファルガーの海戦で活躍し、この勝利によってナポレオンのイギリス征服を阻止した。戦艦の輝かしい面影が消え失せようとしている。白い帆船のテメレール号と黒い蒸気船の対比。ターナーはテムズ川をロンドン南東部ロザハイズにある解体場へ向かう帆船を実際よりきれいに描いており、風で動く帆船と、石炭が作る新しいエネルギーの蒸気船との対比で、新しい時代の到来を鮮明に描いた。夕陽が西の空を茜色に染め、水平線上には青い夜の闇が広がる。帆船の古きよき時代から高速の蒸気の時代へ、ひとつの時代が終わり、近代へ移ったことを三日月が告げている。生と死、興隆と衰亡を繰り返す歴史に対するターナーの心情を表わしているようだ。イギリスでもっとも有名な絵画であり、ターナーの代表作。
イギリス美術らしさ
《戦艦テメレール号》のタイトルを長くすることにターナーはこだわっていたと荒川氏は述べた。それでもターナーは物足りなくて、展覧会の図録にはトマス・キャンベル(1777-1844)の詩をベースにした「戦いにも、吹く風にも立ち向かってきた旗も/もはやその姿をとどめず」の2行を載せた。題名を読んで、その文学的意味を理解し、絵と照らし合わせ鑑賞する古い鑑賞法で、当時の知的な階級の人たちは見て楽しんだという。20年ほど続いたナポレオン戦争で活躍した戦艦テメレール号がとうとう壊されてしまうと感慨深く納得し、絵を見る人はひとつの時代の終わりを実感した。
《戦艦テメレール号》を鑑賞するポイントとして、「コントラストという観点から見るといいと思う。木と鉄というような素材の点での対照もあるし、前近代と近代、沈む夕陽と昇る月、白と黒、オレンジとブルー、暖色と寒色など。あとはイギリス美術らしさ。産業革命と海運国としてのイギリス帝国という観点。いまなおイギリス国民は《戦艦テメレール号》を、自国を代表する絵、国家の誇りと思っている。イギリスでないと生まれなかった画家であり、作品である。海で勝負してきた国で、貿易あるいは戦争、蒸気船、その蒸気機関を初めてイギリスで実用化したことが産業革命につながった。そして世界中に市場を広げ、イギリス帝国をつくった。海峡を隔ててヨーロッパ大陸とつながっているというより、世界と海でつながっているというイギリス国民の意識。七つの海を征服したイギリスというものが、この絵からも読み取れるかもしれない」と荒川氏は語った。
フランスやイタリアといった美術大国とは違う何かをつくり出そうと、最初に実践していったのがターナーだった。写真のない時代にジャーナリズム絵画の先駆者としてもチャレンジし、歴史画に比べて地位が低かった風景画の可能性を広め価値を高めた。やれることは全部やった画家という意味で、尽きることがない興味が湧く画家である、と荒川氏は言う。
2020年、「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」が国立西洋美術館(3月3日〜6月14日)と国立国際美術館(7月7日〜10月18日)で開催される。移ろいゆく時代を映した《戦艦テメレール号》は来日しないが、ターナーの代表作のひとつ《ポリュフェモスを嘲るオデュッセウス》がやってくる。イギリスらしさを思いながら鑑賞してみたい。
荒川裕子(あらかわ・ゆうこ)
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献