アート・アーカイブ探求
金煥基《20-Ⅴ-1974 #330》──反復の洗練とポエジー「野村しのぶ」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2020年11月15日号
描かず描く線
秋たけなわの頃、マンションの隣の方から栗を袋いっぱいに頂いた。大分県の実家から届いたという秋の味覚は、今年は小振りらしいが甘みがあって大変おいしかった。棘(とげ)が密生したイガから多くの栗を取り出すのは、さぞかし労力のいることだろう。銀寄(ぎんよせ)という品種名があることを知った。若い五人家族の隣人が隣で栗を食べている姿を想像するのは楽しい。大分の栗にはイメージを膨らませる親和力があった。コロナ禍のなかで外出が減り、おうち時間が増えた。全国でも隣人との関係に変化が起こっているかもしれない。日本の隣国、韓国の絵画とはどのような絵画なのだろう。
2017年、韓国の抽象絵画を紹介する「単色のリズム 韓国の抽象」展が東京オペラシティアートギャラリーで開催された。1970年代に始まった韓国固有の絵画表現である「単色画(ダンセッファ)」を中心に、韓国の抽象絵画の流れを19名の作家を通じて見ようとする希少価値の高い展覧会だった。会場で配布された小冊子の最初に掲載されていた金煥基(キム・ファンギ)の作品《20-Ⅴ-1974 #330》(福岡アジア美術館蔵)に関心を持った。何かをつかもうとする広げた右手に見えた。キャンバス全体には無数の点が描かれ、墨のように滲みをともなう青い点は丸ではなく、形がみな違う。その点を囲む四角形、上部中央には三角形。描かれなかった部分が、画面の中心から伸びる6本の細い線となって表われている。縦長の画面は祈りの対象にも見えてくる。この展覧会を企画した東京オペラシティアートギャラリー シニア・キュレーターの野村しのぶ氏(以下、野村氏)に《20-Ⅴ-1974 #330》の見方を伺いたいと思った。
野村氏は、現代美術と建築の企画を専門に手掛け、これまでに「伊東豊雄 建築|新しいリアル」(2006)、「ザハ・ハディド」(2014)、「サイモン・フジワラ ホワイトデー」(2016)、「カミーユ・アンロ|蛇を踏む」(2019)などを担当されてきた。東京・初台の東京オペラシティアートギャラリーに向かった。
単色画の父
野村氏は、幼稚園から祖母のすすめで「自労自治」「生活即教育」をモットーとする東京・自由学園に入学し、大学2年(最高学部)の卒業まで在籍した。中学1年生のときにテレビで美術品のオークションを見て、オークショニアになりたいと思ったという。数値化できない「美」が数字になることに興味があった。自由学園を卒業後はロンドンにある世界最古の競売会社サザビーズの付属学校への留学を準備していたが、友人のすすめもあってまずは日本で美術の基本を学んだ方がよいと思い直し、東京造形大学へ入学する。展覧会制作に興味を持って、大学卒業後は教授のすすめで展覧会企画会社に就職した。この会社に5年勤めた後、2004年から東京オペラシティアートギャラリーに勤務していている。
人生の分岐点はいつも誰かが決めてくれたとほほ笑む野村氏だが、幼稚園(幼児生活団)から大学(最高学部)卒業まで17年間を過ごした自由学園で、机の上での勉強を、交代で行なう昼食づくりやその燃料となる薪割り、月謝の集金といった生活での実践と結びつけるユニークな教育により修練を積んだ時間は、野村氏を逞しくしていた。
「単色のリズム 韓国の抽象」展は、「やりがいのある展覧会だった」と振り返った。韓国系アメリカ人の近現代美術史家ジョアン・キー(Joan Kee)の『Contemporary Korean Art』(University of Minnesota)という本が2013年に出版されたのを契機に、国際的に注目されるようになった韓国の抽象画を日本であらためて紹介することができてよかったという。キム・ファンギについては、資料が少なく展覧会の出品作品も1点しかなかったが、キムの次世代の作家が生んだ単色画の源流として必ず名が挙げられる作家の重要な作品《20-Ⅴ-1974 #330》は当展のハイライトのひとつだった。
単色画の作家たちは作為性の問題に自覚的で、同時に自国のアイデンティティと精神性の希求が作品の大きな特徴だ、と野村氏。「アンフォルメル
など欧米の同時代美術の影響を受ける一方で、反復による修練の側面がどの作家にも強く、求道的ともいえる繰り返しで技を高めていく。そのなかで達する無の境地を目指したのが単色画の作家たちとすれば、キム・ファンギが晩年に到達した点画は彼らに明らかな影響を及ぼしたが、当のキムの反復による点の集合は簡単に抽象とは言い切れない。キムの点一つひとつは単なる点ではなく、故郷の自然や伝統的な事物、空に浮かぶ星などを思い浮かべながら描いた『象徴』でもある。点自体が『何かであって何ものでもない』という両義性を持つ。制作姿勢や思想をはじめ、キムが単色画の作家たちに与えた影響はともあれ非常に大きく、キムは間違いなく『単色画の父』と言ってよいだろう。実生活でも、単色画を代表する画家・尹亨根(ユン・ヒョングン、1928-2007)は苦節の時期にキムの導きによって大学に復学し、後にキムの長女と結婚して義理の息子となった」と語る。韓国固有の美の探求
キム・ファンギは、1913年に韓国の全羅南道新安郡にある安佐島の地主の嫡子として生まれた。雅号は樹話。画家になることに反対する両親のもとを離れ1931年に来日し、留学生として1933年日本大学芸術学園(現・同大学芸術学部)に入学。1934年藤田嗣治(1886-1968)や東郷青児(1897-1978)が指導するアヴァンギャルド洋画研究所に参加した。キュビスム、フォービズムなど、ヨーロッパにおける最新の美術思潮を受け入れ、1935年二科展に《ひばりが鳴く時》を出品し入選(消失)。1937年に東京・天城ギャラリーで初の個展を開いた。柳宗悦(1889-1961)や斎藤義重(1904-2001)、村井正誠(1905-99)、オノサトトシノブ(1912-86)らと交流があったようだ。1937年ソウルに帰国した。
韓国の抽象絵画の源流を研究している金俊成(キム・ジュンソン)氏によると「1909年、コ・ヒドン(高熙東、1886-1965)が韓国人で初めて西洋画を学ぶために日本留学に発って以来、20世紀の韓国美術界は、日本の植民地という特殊な経験による排日的民族主義が、朝鮮の美術を論じるのに大きくバイアスとして作用した。当時の美術は、美的なもので真理を探求する学術として認識され、美術家は社会的に新知識人と見なされた。そして、これは1920年代に美術を勉強するための日本留学が急増し始めた原因ともなった。日本留学は、日本が受け入れた西欧の文物を、朝鮮も一刻も早く受容し、文化的に日本を越えなければならないという民族主義的な発想に基づいている」(金俊成、Webサイト「韓国抽象美術の始まり──新写実派を中心に」( )内、筆者補足)という。
帰国後のキムは、人体をモチーフとした構成主義的な《ロンド》(1938)などを、日本の自由美術家協会展に出品しながら、韓国の自然や伝統的なモチーフである月、山、鳥、壺などを中心に韓国固有の美を探求し、厚みのある筆致で牧歌的な雰囲気が漂う作品を描いていた。
「新写実派」を結成
1945年第二次大戦が終わり、日本の植民地支配から解放された朝鮮半島には、米国と旧ソ連が進駐し、米ソの信託統治
となり、半島は自由主義体制と共産体制に分断された。キムは、画家であり美術史家、評論家で後に北に渡る金瑢俊(キム・ヨンジュン、1904-67)と親しくなる。彼のはからいによりソウル大学校芸術学部教授に任命された。1948年大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が成立。同年劉永国(ユ・ヨングク、1916-2002)、李揆祥(イ・ギュサン、1918-67)らと前衛絵画グループ「新写実派」を結成、韓国画壇に新しい抽象絵画の潮流をつくった。キムはソウル大学校のアメリカ軍政主導の運営に反対し、1950年に辞職。同年民族の分断を阻止するため「50年美術協会」を発足したが、朝鮮戦争が勃発し、多くの避難民とともに南部の臨時首都となった釜山へ逃れた。1952年には弘益(ホンイク)大学校の教授となり、学長も務め韓国画壇を牽引した。キムは1956年、韓国での安定した生活を捨てて詩人の妻と渡仏し、3年間パリに滞在。パリ、ニース、ブリュッセルで個展を開催した。モチーフには韓国的な白磁の壺や梅、十長生(じっちょうせい)
などを平面的に構成し、造形の単純化を進めた。1959年韓国に帰国。韓国美術協会理事長や、ソウルのユネスコ国際造形芸術協会全国委員会委員長を務める。1963年の第7回サンパウロ・ビエンナーレに《月夜の島》《ウンウォル》などを出品し、サンパウロ絵画部門で名誉賞を受賞。その足でニューヨークへ渡り終生の拠点とした。1964年J.DロックフェラーⅢ財団からフェローシップを受ける。1970年には『韓国日報』主催の第1回韓国美術大賞展で《Where, in What Form, Shall We Meet Again, 16-Ⅳ-70 #166》が最優秀賞を受賞した。
ニューヨークにて、画面全体が無数の点と線によって構成される抽象絵画に達し、モチーフは消えた。同時代のアメリカ抽象表現主義と呼応しているが、キムの作品は詩的感性と叙情性をたたえて抑制された佇まいを備えていた。激動の時代を生きたキムは《20-Ⅴ-1974 #330》を描き上げたあと、1974年脳出血によりニューヨークで亡くなった。享年61歳。韓国現代美術におけるモダニズム第一世代を代表する画家。キムの作品が常設されている煥基(ファンギ)美術館が1992年ソウルに開館している。
【20-Ⅴ-1974 #330の見方】
(1)タイトル
20-Ⅴ-1974 #330(にじゅうのごのせんきゅうひゃくななじゅうよん さんびゃくさんじゅうばん)。キャンバス裏面に「#330」と記載されている。英題:20-Ⅴ-1974 #330
(2)モチーフ
なし。
(3)制作年
1974年5月20日。制作日をタイトルにしている。
(4)画材
コットンのキャンバス・油彩。
(5)サイズ
縦264.5×横167.8cm。
(6)構図
正面性の強い構図。
(7)色彩
青。韓国の伝統色であり、空や海を象徴する変化に富んだ夢幻的な青色。
(8)技法
描く前に全体の構想を練っている。キャンバスを平置きにし、画面全体に点を打ち、その点を四角で囲む独自の手法は「点画」と呼ばれる。青の油絵具をテレピン油で薄く溶き、キャンバスに沁み込ませて濃淡をつけるように描いている。
(9)サイン
なし。
(10)鑑賞のポイント
ふぞろいの点と四角が心地よいリズムを生み
、描かれずに残った直線が、画面の縁を越えて広がっていく 。東洋的な感性と欧米モダニズムとを融合させた静謐さとモダンを併せ持った独自の抽象絵画である。点を打ち、線で囲むという気が遠くなるほどの反復の果ての洗練された点は、親密な細動と宇宙的な広がりが共存し、鑑賞者を無限へと導く。キム・ファンギ晩年の代表作。純化とポエジー
《20-Ⅴ-1974 #330》について、作品を所蔵する福岡アジア美術館の運営部長、黒田雷児氏は「細部に無限のざわめきをはらみながら人為を越えた自然へ、そして天空の星星へと無限に広がっていくような、手法と空間が一体化した美学には、近代的な自己の投棄と、自然の生成力への全面的な信頼があり、それは韓国独自の抽象絵画の原泉でもあるのだ」(黒田雷児、Webサイト「新連載韓国の画家たち キム・ファンギ(金煥基)」)と述べている。
野村氏は《20-Ⅴ-1974 #330》の点は象徴であり、両義性を持つという。近視眼的に見ることもでき、俯瞰的でもある。「点は反復による修練の側面を持ちつつ、部分の集合は全体としてうごめきを生じさせている。求道的ともいえる反復の末に到達する解放と無作為の悟りの境地に、韓国のアイデンティティを見出すことができる。絵具を薄く溶いて使うのは書道や東洋画に基づいた制作方法で、絵具はキャンバスに滲みを生む。ファンギ・ブルーとも評される青は韓国の伝統色で、キムの故郷の島への憧憬でもある。キムの日記には『故郷の海は本当に青く、白い布を海水に浸せば青く染まるくらい青い』とある。キムは言葉に対しての意識が強い人で、見たもの、感じたもの、記憶のなかのもの、想像を自分のなかで言語的にも解釈した。純化されたそれらを点として描くことで、抽象的な画面にポエジーを生じさせる」と、野村氏は語った。
キム・ファンギは、2019年韓国美術品のオークション価格として最高記録を立てた。クリスティーズ香港オークションで《Universe 5-Ⅳ-71 #200》が、約12億5,200万円で落札された。オークション価格の1〜10位は、9位の李仲燮(イ・ジュンソプ、1916-56)の《牛》を除けば、すべてがキムの作品となった。
野村しのぶ(のむら・しのぶ)
金煥基(Kim Whanki)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献