アート・アーカイブ探求
ジョット・ディ・ボンドーネ《最後の審判》──秩序と混沌「森田義之」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2021年02月15日号
※《最後の審判》の画像は2021年2月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
持続可能な社会へ
2020年のノーベル平和賞は、世界各地で食料支援を行なっている国連機関、世界食糧計画(WFP:World Food Programme)が選ばれた。世界の食料生産量の3分の1にあたる約13億トンが毎年廃棄されている
のに対し、飢餓人口は推定6億9,000万人 。この歪んだ食料システムを改善しなければ、世界は2030年までに壊れてしまうと研究者たちは言う。日本ではまだ馴染みの薄いフェイクミートを食べてみた。ハンバーガーに入っている大豆由来の植物肉である。環境保全や食料危機など、持続可能な社会へ貢献する「フードテック」(食とテクノロジーを掛け合わせた造語)が期待されている。代替肉の生産で世界初の上場企業となったアメリカの「ビヨンド・ミート(Beyond Meat)」は、脱牛肉を提唱。食肉用の牛の飼育と大豆の栽培を比べると、大豆の方が必要とする水や土地が遙かに少なく、温室効果ガスも減るという。蔓延している新型コロナウイルスと、人類の食料システムは解決へ向かうのだろうか。
ジョット・ディ・ボンドーネの代表作《最後の審判》(スクロヴェーニ礼拝堂蔵)を見てみたい。バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂にミケランジェロ(1475-1564)が描いた《最後の審判》の約230年前の壁画作品である。“最後の審判”は、旧約聖書や新約聖書で語られ、神学者アウグスティヌス(354-430)の『神の国』(426頃、全22巻)などに引き継がれて、12世紀頃からキリスト教世界に広まった、キリスト再臨による公審判の思想を背景にしているという。教会は「四つの終末」(死、審判、天国、地獄)の教義を強調し、キリストが天国に選ばれる者と地獄に堕とされる者を裁定している場面として“最後の審判”を礼拝堂の内壁に描いた。
教会建築と共にある、巨大な壁画の全体像を想像しながら、イタリア美術史・都市史が専門の美術史家、森田義之氏(以下、森田氏)に《最後の審判》の見方を伺いたいと思った。絵画技法にも詳しい森田氏は、「ジョット」(『世界美術大全集』第10巻、小学館)を著し、『朝日美術館 西洋編3 ジョット』(朝日新聞社)の責任編集や翻訳本も多い。東京でお会いすることができた。
都市史としての美術史
風の冷たい寒い日だった。帽子にマスクと眼鏡の森田氏から声を掛けていただいて無事に出会えた。森田氏は1948年神奈川県南東部の古都鎌倉に隣接する逗子市に生まれた。兄と弟の三人兄弟。子供の頃から絵が好きで画家のアトリエに通い、高校では歴史も好きになり、野球部と美術部に入り、1967年東京藝術大学芸術学科へ入学した。美術史と実技のある芸術学科では、実技の友人によって作品の見方を深く学ぶことができたという。イタリア美術史を研究し、彫刻も制作していた辻茂教授の指導を受け、森田氏はイタリア美術を専攻するようになった。卒論は15世紀のヴェネツィア派の画家ジョヴァンニ・ベッリーニ(1430頃-1516)について書き、大学院ではイタリア中部にあるアッシジのサン・フランチェスコ聖堂の壁画調査に参加して、ベッリーニについての修士論文「《ペーザロ祭壇画》成立をめぐる諸問題」を仕上げ、1974年美術研究科修士課程を修了した。
その後、同大学で非常勤の助手となり、1976年から1981年までイタリア政府給費留学生としてフィレンツェ大学とローマ大学へ留学する。芸術家とパトロンの活動、政治・経済、宗教、デザイン、工芸など、都市文化のコンテクストのなかで、すべてが有機的に結び付く「都市史としての美術史」という考え方にたどり着いた。帰国した1981年、藝大の常勤助手を1年勤め、翌年には茨城大学教育学部助教授となり、2000年に愛知県立芸術大学美術学部教授となった。2013年定年退職後は、同大学名誉教授・美術史家として執筆活動を続けている。
「都市としてのフィレンツェの歴史を知らなければ、彼らが創り出した作品の本質を理解することはできない」と森田氏は強調する。フィレンツェは、12世紀から16世紀の500年間の間に、ひとつの都市国家が経験し得るあらゆる種類の政治形態を経験してきたという。「貴族政治・専制政治・民主政治・神権政治など、政治の実験場であった。不安定な政治と止むことのない内部抗争、外敵との戦争は、市民に絶え間ない緊張と心理的圧力を加え、他者への強い不信と警戒心を呼び起こし、生き残るための徹底した自己主張と激しい闘争心、非情な排他主義と党派的利己心、そして論争精神と野蛮なまでの剛毅(ごうき)さが渦巻いていた。イタリア・フィレンツェが生み出した文化的結晶としての芸術作品は、濃密で複雑に重層した歴史的文脈のなかで理解する必要がある」と森田氏は述べた。
神を人間として表現
ジョット・ディ・ボンドーネが生まれた13世紀後半フィレンツェは、ヨーロッパで最有力の商業都市に成長し、経済的、政治的にも大躍進期にあった。1267年頃にフィレンツェ北東のムジェッロにある小村コッレ・ディ・ヴェスピニャーノに誕生したジョット。父ボンドーネは朴訥な農夫であったという。伝説によると、羊番をしながら羊の写生をしている少年ジョットの才能を、通りかかった画家チマブーエ(1240頃-1302頃)が認め、父親の許しを得てフィレンツェへ連れて行ったという。しかし、ジョットの修業時代と初期の活動は謎に包まれている。
1290年頃、23歳になったジョットは画家として独立し、チュータ・ディ・ラーポ・デル・ペーラと結婚。ジョットは容姿が悪かったそうだが、4男4女の8人の子供をもうけた。また、アッシジのサン・フランチェスコ聖堂上堂の壁画(旧約伝・新約伝)と天井の装飾を描き、画家としての活動を開始、名声を高めた。当時の人々にジョットは新鮮な感動を与えた。「図解的なビザンティン絵画
図式的表現から自然に即した肉づけの柔らかい写実的な表現へと、ジョット独自の典型像に昇華された表現は、神を人間として解釈したジョットの類型的リアリズムであった」と森田氏は言う。1295-1300年頃まで、サン・フランチェスコ聖堂上堂にフレスコ連作《聖フランチェスコ伝》の制作に携わるが、ジョットがどのようなかたちで関与したのかは研究者によって意見が分かれ、「アッシジ・プロブレム」として西洋美術史上の難問とされる。森田氏は「ジョットは、実際の制作者としてよりも、独立した画家を含む工房集団の総合的企画者・監督者として機能したと思う」と述べている。
社会的名声を享受していたジョットは、伝説や逸話も多い。もっとも有名なエピソードは、ルネサンス時代の画家・建築家で『美術家列伝』を残したジョルジョ・ヴァザーリ(1511-74)が伝える「ジョットの○(まる)」の話だ。あるとき、教皇ベネディクトゥス11世の家臣がジョットの家を訪れ、教皇に送るための素描を所望した。さっそく筆をとったジョットは、非のうちどころのない円を描いて「これで十分です」と言って、呆気にとられる家臣に渡した。家臣がそれをローマへ送り経緯を報告すると、美術に目の利く教皇はただちにジョットの才気と能力を了解した。それ以来、鈍感な人間を揶揄するときに、「お前はジョットの円よりまるい/まぬけだ(Tu sei più tondo che l'O di Giotto)」(tondoには「まるい」と「まぬけ」の意味がある)という格言が流行するようになったと言われる。
強烈な意志的視線
1304-06年頃、富裕市民スクロヴェーニ家の依頼で、北イタリアの町パドヴァへ赴き、同家の礼拝堂(正式名:アレーナの慈愛の聖母マリア聖堂)にフレスコ画で、《ヨアキム伝》《聖母マリア伝》《キリスト伝》《最後の審判》を描いた。依頼主のエンリコ・スクロヴェーニは、高利貸しであった父レジナルドの罪業消滅と、一族の魂の救済を求めて聖堂を建立した。
ジョットの知人で、政治的党派抗争のあげくフィレンツェから追放されていた詩人ダンテ・アリギエーリ(1265-1321)が、1307年頃から天国編・煉獄編・地獄編からなる中世キリスト教の世界観を描いた『神曲』の執筆に着手し、1321年に完成。ダンテは同年に没した。
1310年、ジョットはローマに滞在し、旧サン・ピエトロ大聖堂の柱廊玄関に、大モザイク画《ナヴィチェッラ》を制作。1320年頃には、フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂バルディ礼拝堂に壁画連作《聖フランチェスコ伝》を描き、1325年には同聖堂のペルッツィ礼拝堂に《洗礼者聖ヨハネ伝》《福音書記者聖ヨハネ伝》の壁画を連作した。
1334年、フィレンツェ共和国より、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の造営主任に任命され、大聖堂のカンパニーレ(通称「ジョットの鐘塔」)の設計にあたった。美術家としてもっとも名誉ある仕事で、社会的地位も収入もピークを極めた。1337年フィレンツェにて永眠。享年70歳(推定)。共和国主催の盛大な葬儀が行なわれ、大聖堂内に顕彰碑が造られた。
「人間的経験に対する鋭利な観察力、歴史とドラマへの冷徹な明察、美の範型を超えた精神の直截性にジョットのリアリズムがある。感覚的体験を絵画に翻訳し、転化する際の精神態度としてのリアリズム。それを象徴するのが、人物像がもつ強烈な視線だ。切れ長の独特の目から直線的に発せられる冷徹で意志的な視線は、互いに交錯し、呼応し、衝突しながら、ジョットのドラマトゥルギー
の基本的なイディオムを形成している」と森田氏は述べた。【最後の審判の見方】
(1)タイトル
最後の審判(さいごのしんぱん)。英題:The Last Judgment
(2)モチーフ
キリスト、聖母マリア(二重の登場)、天使、十二使徒、預言者、聖人、善男善女の一団、建造者スクロヴェーニ、地獄の責苦にさいなまれる罪人たち。
(3)制作年
1305-06年。ジョット38-39歳頃。
(4)画材
漆喰、顔料、水。
(5)サイズ
縦1,000×横840cm。
(6)構図
審判者キリストを中心に、上下四層に人物群が整然と配置されるが、画面右下の地獄図では混沌とした無秩序が支配する構図となっている。奥行は浅く、水平性と正面性の強い構図。
(7)色彩
多色。明るく柔らかい色彩。背景の鮮やかな青色は「ジョット・ブルー」と呼ばれている。画面左下方の人物群は、雨水の浸透による損傷で絵具がかなり剥落している。
(8)技法
フレスコ技法。壁に漆喰を塗り、漆喰が乾かないうちに水で溶いた顔料で描くブオン・フレスコ(真のフレスコの意)。
(9)サイン
なし。
(10)鑑賞のポイント
キリストによる人類の救済と断罪の場面である《最後の審判》が、礼拝堂の入り口の内壁(西側壁)に描き出されている。ジョットの作品の中でも最大スケールの大作で、中世イタリアの審判図の教義的・図像的な伝統を踏襲しながらも、入り口の上に描かれた十字架の傍らには、このスクロヴェーニ礼拝堂の建造者エンリコ・スクロヴェーニが、天国と地獄の間に写実的に描かれ、修道士が支える礼拝堂の模型を聖母マリアに捧げている。現実の世界を採り入れた革新的な審判図である。大空間の中心には沈着な威厳と怒りの表情の審判者キリストが、天使たちが囲む虹色のマンドルラ(アーモンド形光背)の中に座し、天国へ昇らせる人々と地獄に堕とされる人々を裁いている。右手の手の平を上に向け、右下方の人々を選ばれし人として天国へ迎え入れ、左手の手の平を下に向け、地獄に堕ちた呪われし人を拒絶している。天国と地獄の岐路の中央にキリストの受難と贖罪(しょくざい)のシンボルである十字架が立つ。人物群が上下4層に整然と配置され、さらに天上界では二人の鎧姿の天使が、太陽と月によって象徴される現実界の天空を巻き取り、宝石で飾られた天国への扉を開いている。天使の軍団約140人が列をなして並び、キリストの左右の玉座には十二使徒が一列に腰かけて天国の法廷を形作る。選ばれし人々の2層の上部には、神への仲介者である聖母マリアに先導された預言者や聖人たち、下部は天使に保護された聖俗の男女たちで、その中にはジョット自身と伝えられる黄色い帽子を被った男の横顔も見える。最下部には、墓から裸で甦る善男善女がいる。ジョットの代表作である。
人類に下された審判と救済
森田氏は「《最後の審判》には工房も参加しているが、多様な表現モードはジョットの多面性の発露とみられる。基本的な様式には個性的な統一性が見られ、ジョットは単独でほとんどの部分を描いている。特に右下の地獄の場面には、ジョットの粗暴なほどラフな散文的スタイルが際立っている。キリストのマンドルラ(光背)から発した四筋の火炎の川に包まれた地獄では、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の模様が繰り広げられ、位階的秩序が壊れ、左右対称性が大きく崩されている。地獄の底で待ち構える冥界の魔王ハデスや怪獣、無数の黒い悪魔たちから残酷な責苦を受ける呪われた人々。その中には、内臓をさらして首を吊る背信の徒ユダ、淫蕩の罪では性器を鉤(かぎ)でひっかけられた逆さ吊りや、舌と髪をくくられて吊るされた2組の修道士と不義の女、舌を巻き取られる男、水責めの拷問を受ける女、悪魔に性器をやっとこで切り取られる修道士、金で売女を買う男、司教帽を被った男に金を貢ぐ修道士などが見られる。とりわけ修道士の肉欲の罪と金銭欲の悪業が、容赦のない辛辣さと毒を含んだカリカチュア精神によって暴露され、糾弾されている。ジョットが同時代のダンテの『神曲』「地獄編」に横溢する苛烈な批判精神を共有していることは明らかだ。世界の終末における神の再臨と審判という主題に、ジョットは広大な宇宙的空間の統一的把握や、伝統的な図像学的モチーフの省略、主題の単純化と明確化、天国の明と地獄の暗の鮮烈な対比など、独特の創意に富んだ主題解釈を発揮した。なかでも最下層の選ばれし人々の生き生きとした肖像的形姿、地獄図の描写に、歯に衣を着せぬジョットの辛辣な機知とユーモアやグロテスクな感覚が遺憾なく発揮されている」と語った。
教義に則った神の世界を、混沌を含む人間世界へ導き入れ、ルネサンスの到来を予告し、ジョットは西洋近世絵画を切り拓いた。
森田義之(もりた・よしゆき)
ジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献