アート・アーカイブ探求
ジョルジュ・スーラ《グランド・ジャット島の日曜日の午後》──異なる世界をつなぐ点描「坂上桂子」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2021年08月01日号
※《グランド・ジャット島の日曜日の午後》の画像は2021年8月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
空気の光
緊急事態宣言が発令されている最中、「第32回オリンピック競技大会(2020/東京)」が開催されている(2021年7月23日〜8月8日)。新築の国立競技場で行なわれた無観客の開会式では初めて知る国がいくつかあった。世界205の国と地域から民族衣装をまとった人など、一堂に集まった人たちを見られるのはオリンピックならではのことかもしれない。
作家の開高健(1930-89)は、1964年の第18回東京オリンピック開会式の選手団入場について「亜細亜の清楚、南欧の艶、北欧の名花、東欧の姸(けん)、北米の無邪気、近東の神秘」と、次から次へと繰り込んでくる百花繚乱を見たと『週刊朝日』(1964年10月23日号)に書いた(石井正己編『1964年の東京オリンピック』p.31)。
その多種多様な地球人をテレビのライブで見ていると、平和の尊さとともに世界77億人のひとりである自分は何者かと問いただされたような感じがした。宗教的に大きな意味のあった古代オリンピックは、「聖なる休戦」として戦争を中断させて1169年間も続いたという。紀元393年の終焉から1500年後、フランスの教育者クーベルタン男爵が、平和の祭典として近代オリンピックを復興させた。1896年に第1回大会を古代オリンピックの発祥地ギリシアのアテネで開催し、第2回を1900年にフランスのパリで開催した。
パリの水辺に人々がゆったりと静かに時を過ごしている風景画がある。近代オリンピックが復興する10年ほど前の作品だ。ジョルジュ・スーラの代表作《グランド・ジャット島の日曜日の午後》(以下、《グランド・ジャット島》。1884-86、シカゴ美術館蔵)である。初夏の日曜日の午後、日陰と日なたの芝生の上で人も犬もくつろいでいる。ヨットや釣りをしている人もいる。しかし、みな人形のように静止した硬いポーズで、表情は不鮮明でよく見えない。柔らかな空気の光で満たされた明るく霞む不思議な画面。《グランド・ジャット島》の見方を早稲田大学文学学術院教授の坂上桂子氏(以下、坂上氏)に伺いたいと思った。
坂上氏は、西洋近現代美術史を専門とし、論文「スーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》──近代都市ユートピアの光と影」(『學鐙』第98巻第7号、2001)や、著書『ジョルジュ・スーラ 点描のモデルニテ』(ブリュッケ、2014)を著している。東京メトロ東西線の早稲田駅に近い、戸山キャンパスへ向かった。
転換点を捉えた静かな絵
教室を探しながら歩いていると、角を曲がったところで厚い本を抱えた坂上氏と出会った。そこがちょうど待ち合わせの教室だった。広い教室であった。坂上氏は、1957年東京に生まれた。自宅から近い女子聖学院へ幼稚園から高校まで通っていたそうだ。クリスチャンではなかったが、日曜日には教会へ行くなど、女子聖学院ではアメリカの文化に触れていたという。子供の頃に絵を習っていた坂上氏は、絵を見ることが好きで、中学・高校時代にニューヨーク在住で画家だった伯母の家に遊びに行き、美術への関心が深まっていった。伯母はブルックリンのアートスクールでは荒川修作(1936-2010)らと一緒に勉強していた。
早稲田大学第一文学部に入学し、ビザンティン美術が専門の髙橋榮一(1932-2007)先生の講座を聞いて知った美術史を専攻した。感覚的にスーラに惹かれ、卒業論文はスーラ全般を採り上げた。スーラを研究テーマとすることに自信はなかった。しかし、非常勤講師だった武蔵野美術大学の高見堅志郎(1933-96)先生に伺うと、「それはなかなかいいテーマじゃないか」と背中を押してくれた。その後は、目を鍛えるため何でも見るように、デパートで開催されていた小さな展覧会を含め、画廊や美術館を歩いた。修士課程に入ってからもスーラを続けて研究し、修士論文も博士論文もスーラの「点描」について書いた。2004年に早稲田大学文学学術院の助教授となり、2009年より教授として学部では文化構想学部、大学院では美術史コースで教えている。
《グランド・ジャット島》の実物を見たのは、大学4年生のときだった。卒論をスーラと決め、アメリカのシカゴにあるアート・インスティテュートへ行った。時代が新しく移り変わっていく、近代と現代の転換点を捉えた絵画であると期待していた坂上氏。第一印象は「思ったよりおとなしい、静かな絵」だった。
明るい色彩
ジョルジュ・ピエール・スーラは、1859年12月2日パリに誕生した。差し押さえの執行業務や令状の送達をする執行官の父アントワーヌ・スーラと、宝石職人の娘だった母エルネスティヌ・フェーヴェルの間に生まれた次男で、兄と姉がおりスーラは末っ子。父は近代化が隆盛をきわめる都市パリで資産を運用して多大な利益を得、家族から離れて私的な宗教活動などをしていた。
1870年に普仏戦争が勃発。1876年16歳になったスーラは、寡黙で内省的な性格で秘密主義的なところがあったが、絵筆を持ち始め市立の彫刻デッサン学校でデッサンを学ぶ。1878年春には国立美術学校(エコール・デ・ボザール)に入学。新古典派を代表する画家ドミニク・アングル(1780-1867)の弟子アンリ・レーマン(1814-82)の教室に入り、アカデミックな環境で学び始める。
1879年、19歳になったスーラは第4回印象派展へ行き、明るい色彩に感銘を受け、独学で学ぶ決心をし、学校を去る。11月からは兵役のため、フランス西部の港湾都市ブレストで1年間を過ごす。ギリシア美術の理論書や、フランスの化学者で色彩理論家のミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの『色彩の同時対照の法則について』(1839)、物理学者オグデン・ルード(1831-1902)の『近代色彩論』(1879)に啓発され、ロマン主義の画家ウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)の色彩表現を研究するようになり、デッサンと色彩を統合した新しい造形を模索する。
1883年23歳でサロン(官展)に初めてデッサン《アマン=ジャンの肖像》が入選。線描によるデッサンから濃淡によるデッサンへ変えた成果が出た。この年に最初の大作である《アニエールの水浴》(201×300cm、1883-84年、ロンドン・ナショナルギャラリー)に着手し、翌年、1884年のサロンでは落選したが、無審査の第1回アンデパンダン展(独立美術家協会展)に出品した。このとき、スーラは官展の審査に反対してつくられたアンデパンダン協会の創設に関わったと考えられ、これを機にポール・シニャック(1863-1935)との交流が始まる。同年5月、大作《グランド・ジャット島》の制作を開始する。
「新印象派」の誕生
グランド・ジャット島は、セーヌ川の中州で、パリの凱旋門から北西3キロほどにある
。全長は約2キロ、幅は広いところで200メートルほどの細長い小さな島で、島の先端には愛の神殿が建てられ、愛の島とも言われていた。1885年8月、心理学者シャルル・アンリが色彩や線、運動の表現的可能性を探究した『科学的美学入門』を出版した。スーラは大きな影響を受け、印象派に厳密な科学性、論理性を与えるようになる。《グランド・ジャット島》がほぼ描き上がったとき、グランカンというフランス北西部ノルマンディー地方の英仏海峡を望む漁港へ行き、作品全体を覆う綿密な点描で海景画《グランカンの干潮》(1885、ポーラ美術館蔵)などを描いた。
1886年5月、シニャックを通じて出会った印象派の画家カミーユ・ピサロ(1830-1903)の要請で、最後となった第8回印象派展に点描技法を加えた《グランド・ジャット島》などを出品した。その新しい奇抜な様式の点描作品には賛否両論の批評が寄せられ、印象派内でも分裂を起こす引き金になった。8月には第2回アンデパンダン展に《グランド・ジャット島》や、漁港グランカンと港町オンフルールの風景やデッサンなど10作品を出品。批評家フェリックス・フェネオン(1861-1944)が、スーラの画風について「新印象派」という用語を雑誌記事で初めて使って批評を書いた。
ベルギーの詩人エミール・ヴェラーレン(1855-1926)が新印象派の創始者スーラを訪ね、ブリュッセル開催のレ・ヴァン(20人会)展へ招待し、1887年に《グランド・ジャット島》など7作品を出品する。以来、スーラはベルギーの前衛芸術家との交流が深まり、1889年と1891年にも出品した。1890年には恋人マドレーヌ・ノブロックとの間に息子が生まれ、ピエール・ジョルジュと命名。1891年3月の第7回アンデパンダン展に《サーカス》を未完のまま出品したのち、同月26日おそらくジフテリアのため病床につき、29日急逝した。享年31歳だった。6点の大作のほか、板絵を含む230点の中小作品と多数の素描、そして「芸術は調和だ」と書かれた一通の手紙が残された。翌月には、息子のピエールも同じ病気にかかり死去してしまった。パリ東部のペール・ラシェーズ墓地に眠る。家族や友人にも隠された恋人や子供の存在がわかったのはスーラ死後のことだった。
【グランド・ジャット島の日曜日の午後の見方】
(1)タイトル
グランド・ジャット島の日曜日の午後(ぐらんど・じゃっととうのにちようびのごご)。英題:A Sunday on La Grande Jatte—1884
(2)モチーフ
グランド・ジャット島、人、木、川、雲、犬、猿、蝶、ヨット、カヌー、蒸気船、日傘、帽子、ステッキ、扇子、花束。
(3)制作年
1884-86年。スーラ24-26歳。
(4)画材
キャンバス・油彩。
(5)サイズ
縦207.5×横308.1cm。セーヌ川を挟んだグランド・ジャット島の対岸にあるアニエールの河岸での、労働者階級の人たちの水遊びを描いたスーラ最初の大作《アニエールの水浴》(1884、201×300cm)と対として見ることもできる。郊外での余暇というテーマで時代を捉え、サイズをほぼ同じにしている。
(6)構図
平面的、多視点的な横の広がりを意識した構図。水平線・垂直線を基に、没個性化された45人ほどの人物や事物が効果的に見えるように形体を単純化して点在させ、黄金分割や線遠近法を応用して整然と配置した。全体のシンプルな統一性と形態の明晰さの一方で、色彩とマチエールの繊細さと複雑さという二重構造を持つ。
(7)色彩
緑、黄緑、白、黒、茶、赤、黄、青、紫、橙など多色。全体的に落ち着いた調和のとれた色調で、統一感がある。
(8)技法
点描技法。点のタッチは4種類(交差する方向性をもつ細かいタッチ、横長く平行に置くタッチ、丸に近い小さな斑点状のタッチ、幅広く滑らかなタッチ)と多様である。ほぼ全体を統一的小点で埋め尽くしたように描いた。現場で小さなスケッチ(スーラが呼ぶところの「クロクトン」という絵)をたくさん描き、それを集めて構成後、描画制作に入る。日陰の芝生には、青緑色と補色である橙色を使い、橙色が青緑を強力にし、画面全体が光を万遍なく満たす工夫が見られる。1884年の制作当初は、点描法で描き終える構想ではなかったが、翌年の秋、漁港グランカンで色、光、形に集中して点描一面の絵画を制作後、再び本作に取り組み点描を加えた。1888年頃に、絵画と外界との間を埋めるため、枠をキャンバスから取り外し、絵の周囲6~7センチの幅を、青・赤・茶からなる点描の縁取りを描き入れた。
(9)サイン
右下に黒で「Seurat」と不明瞭に署名。
(10)鑑賞のポイント
パリ市内を貫流するセーヌ川の中州のグランド・ジャット島を訪れた多様な人々。都会の喧騒を離れ、自然の癒しを求めて、夏の日曜日の午後4時頃、余暇を過ごす行楽の情景を描いている。神々の力によって豊穣と正義が約束され、誰もが平和と繁栄を享受することができ、植物が繁茂して人間と動物が共存する古典的楽園のイメージを源泉に、スーラは現代的楽園を表現した。時間も空間も超越した普遍的な楽園を、点描が生み出す揺らぎの効果によって、すべてがいまにも消え入りそうなはかなく曖昧なイメージのなかに楽園を捉え、静謐な永遠の世界へいざなう。スーラと新印象派を代表する記念碑的大作である。
さまざまな登場人物
木陰の前景と陽光を浴びた中景を縦断するように、画面右側に大きく膨らんだ最新モードのモダンなスカート
をはいた女性が男性と並んで真横を向いて立っている。狡猾などを意味する猿を連れていることから娼婦と考えられており、左端で魚を釣る女性と、その脇に座る付き人がいない女性も娼婦と思われる。19世紀当時は、近代社会の担い手であるブルジョワジー(中産階級)以上の女性がひとりで公的な場所を歩く習慣がなかったため、ひとりの女性は大抵男性を誘う存在と考えられていた。左の木の下で、地面にまで垂れる長いリボンのついた帽子をかぶった背を向けて座る人は、乳母あるいは看護婦と思われ、隣の日傘を差して座る横向きの年配の女性に付き添ってきた看護婦と見られる。その奥にはホルンのような楽器を吹く男性、さらにその向こうには肩を並べて歩いてくる兵士たちがいる。彼らの間に座っている女性は、労働者階級の人々と見られている。ブルジョワジー以上の階級の女性たちが外出する際に身につける帽子と日傘を持たない女性たちは、みな労働者階級と思われる。しかし娼婦たちは、これらを身につけ着飾っていたのだ。
左手前の横たわる男性は、肩を出したシャツ姿からボートを漕ぐ服装をしており、労働者階級とも見られるが、当時ボート遊びが流行していたことから、レジャーに来たブルジョワジーとも考えられる。一方で、描かれた人すべてがブルジョワジーと捉える見方もある。
また、登場人物に、労働者階級とブルジョワ階級という身分の違いを読み取るほか、人々の堅い表情から非人間性を感じ取り、ユートピアのアンチ・テーゼ(否定的主張)であると見たり、性差と年齢差に着目し、当時の家族制度のあり方や休日の過ごし方、余暇の考え方の反映など、同時代を映し出す作品とも捉えられた。さらにはスーラ自身の心理の表われとして、画面右端の三人の姿は家族の思い出、左側の付き添いの女性を伴う日傘を差す年配の女性は母の、中央の母に連れられた白い服の子供は幼くして亡くなった兄の記憶と捉える考え方などさまざまな見方がある。
瞬間と永遠
坂上氏は《グランド・ジャット島》の見どころのひとつは、人だと言う。「いろんな人たちがたくさんいるので、自分自身で見て探してもらうと面白い。どういう人がどこで何をやっているのか、一つひとつ見つけていくと、その人たちの休日の過ごし方の様子がわかる。階級を超えてすべての人々が平等に余暇を謳歌している」。そして、もうひとつは点。「《グランド・ジャット島》は点描技法が完成する前の作品だが、ドットで全面を描いていこうという点に着目してもらいたい。部分ごとにもタッチや大きさが異なり、多様な点が見られる。点描は、明るい光が再現できる一方で、点が置かれた部分は形態や線がはっきりしなくなるという特徴がある。ある瞬間消えてしまいそうな時間性みたいなものがあり、そうかと思うと逆に永遠性みたいなものもある。輪郭線のない点描絵画は、人物も船も、空気も点で描かれ、すべてがつながっているような揺らぎがある。その曖昧な不確かさは、ここでは異なる世界をつなぐ理想的媒体として機能しており、彼岸の楽園のイメージをより一層よく表現している」と、坂上氏は“人と点”に眼差しを向けた。
スーラの点描の基礎になっている色彩原理は、カラー印刷技術と共通している。色彩を光のプリズム、紫、藍、青、緑、黄、橙、赤の7色の虹色に分割し、これらの基本色を細かい点で置いていく。例えば補色の関係の赤と緑。この2色を点で並置させて遠くに引いて見ると、点が目のなかで混ざり合い、青に見える。スーラはこれを「視覚混合」と呼び、自らの技法を「分割手法」、もしくは「光彩主義」とした。印刷技法を初めて描画に取り入れたスーラの点描画法であった。
坂上氏は「スーラは、色彩理論を組み合せて画面を構成するという基本はあるが、実際には感覚的に絵を描いている。点描画に気づいたのは、スーラがノルマンディーの海グランカンやオンフルールなどを観察し、波の上にキラキラと輝く光の戯れを見るなかで着想したと思われ、描写においても理論より直感が優先している。スーラ芸術は私的・自然・田園の世界と、公的・人工的・都会の二つの世界が交互にバランスを取るなかで生成された」と述べた。
理論と実践、科学と芸術とが結びついた点描技法によって、スーラは点と点、人と人、理想と現実、近代と現代とをつなげた。多様な世界が結び付き調和した世界が、平和で永遠に続くことを願っていたのかもしれない。
坂上桂子(さかがみ・けいこ)
ジョルジュ・スーラ(Georges Seurat)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献