アート・アーカイブ探求
ルネ・マグリット《ゴルコンダ》──詩的な不在の表象「南 雄介」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2021年10月15日号
※《ゴルコンダ》の画像は2021年10月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
マスクと不穏
日常にまん延していた新型コロナウイルスの新規感染者数が激減してきた。全国ではピーク時の25,866人(2021.8.20)から369人(10.11)となり、東京ではピーク時5,773人(8.13)から49人(10.11)と急激に減った(「NHK 特設サイト 新型コロナウイルス」HPより)。マスクが注目され、人類の命を守った感がある。特効薬ができれば、誰もがマスクをしているこの時期が不思議な光景として記憶に残るのだろう。しかし、エビデンスもわからず、激減したことをどう捉えたらいいのか。静かなウイルスは変異して復活してくる可能性がある。最近の地震や激甚化した自然災害にしても、想定外である。不穏な空気のなか、ふわふわした気持ちが続いている。
ルネ・マグリットの《ゴルコンダ》(米国ヒューストン、メニル・コレクション蔵)がある。不思議な絵で集合住宅の上を、帽子を被った紳士が空中に浮いている。現実にはあり得ない、実際にあったら怖い景色だが、デザイン的に美しく浮わついた感覚と同調した。上昇するか、下降するかの分岐点に立たされた気もするが、青空に広がっていく孤独な紳士像に自分を重ねて、少し希望を感じたのかもしれない。マグリットは何を描いたのだろう。美術評論家・キュレーターとして活動する南雄介氏(以下、南氏)に《ゴルコンダ》の見方を伺いたいと思った。
南氏は、近現代美術を専門とし、リチャード・カルボコレッシ著『マグリット』(西村書店、1997)の翻訳や、『もっと知りたい マグリット 生涯と作品』(東京美術、2015)の監修・執筆をされ、また国立新美術館の展覧会「マグリット展」(2015)では監修を行なった。このとき《ゴルコンダ》は、展覧会のポスターと図録の表紙に採用されている。横浜でお会いすることができた。
巨大美術館二つの設立準備室
横浜の山下公園前に建つホテルニューグランドの喫茶店で話を伺った。1927年に開業したホテルは、東京国立博物館の本館や銀座和光などを設計した渡辺仁(じん/1887-1973)による近代化産業遺産の認定を受けたクラシックな佇まいで、非日常の優雅な空間が広がっていた。
現在、東京都現代美術館で開催中の「GENKYO 横尾忠則 原郷から幻境へ、そして現況は?」展(2021.7.17-10.17、大分県立美術館:12.4-2022.1.23)の企画監修をされた南氏。今年(2021)3月に愛知県美術館館長を退職してからも多忙の様子で颯爽とした足取りでやってきた。
南氏は1959年鳥取県鳥取市に生まれ、両親が共に小学校の教員だった。絵が好きな父親は、日曜画家のように時間ができると油彩で風景画や静物画を描いていたそうだ。家には西洋の画集がたくさんあり、中学生の頃には父親と一緒に京都市美術館(現京都市京セラ美術館)へ「セザンヌ展」(1973.6.1-7.17)を見に行き、岡山県の大原美術館や島根県の足立美術館へも行った思い出があるという。県立鳥取西高校時代は美術部に入って石膏デッサンや油彩画を描いていた南氏。美大へ行きたいと考えていたとき、実技だけでなく理論も学べる大学があると美術の先生が薦めてくれた。1978年東京藝術大学の美術学部芸術学科を受験、無事に入学した。南氏は、卒論にマルセル・デュシャン(1887-1968)を書いた。大学院へ進学し、イタリア美術史が専門の佐々木英也(1932-)先生に学び、イタリアルネサンスの遠近法をテーマに修士論文を書き上げて、1986年に東京藝術大学大学院美術研究科芸術学専攻修士課程を修了。その後、大学の副手を3年間続けた。
この頃は先のことを考えなかったという自然体の南氏は、ふらっと受けた東京都美術館の採用試験に受かり、1989年学芸員となった。この先、開館を控える国公立美術館の二つの準備室での業務に従事し、三つの東京の巨大美術館の学芸員として数多くの展覧会を企画、担当することになるとは思ってもいなかったのだろう。当時、新しい現代美術館の設立計画を東京都が発表しており、1992年には東京都新美術館設立準備室へ異動し、1995年に東京都現代美術館の開館後も学芸員を務めた。2004年、国立新美術館の設立準備室へ転職し、2007年に国立新美術館がオープン。主任研究員ののち学芸課長と副館長を兼任した。2017年には愛知県美術館へ移り、館長を務めて2021年3月に退職。現在は美術評論家・キュレーターとして活動をしている。
マグリットの《ゴルコンダ》と南氏の出会いは、国立新美術館でのマグリット展を監修し、会場に作品を展示した2015年だった。南氏は「意外に小さいな」と思ったそうだ。
メリーゴーランドのミューズ
ルネ=フランソワ=ギラン・マグリットは、1898年11月21日ベルギー、ワロン地域西部のエノー州、フランス語圏の小さな町レシーヌに生まれた。父のレオポール・マグリットは仕立屋で行商も行ない、帽子店で働くレジーナ・ベルタンシャンと結婚。父は後に食用油のセールスマンとして成功する。弟のレーモンとポールが生まれると、一家は鉄鋼やガラスなどの重工業が盛んな町シャトレのサンブル川沿いに転居する。1910年12歳のマグリットは週1回の絵画教室に通うようになる。
1912年マグリットが14歳のとき、重い神経衰弱を抱えていた母が家の近くを流れるサンブル川に身を投じて亡くなってしまう。翌年ワロン地域の中心都市シャルルロワに移住。シャルルロワのお祭りで妻となるジョルジェット・ベルジェ(1901-86)と初めて出会い、一緒にメリーゴーランドに乗った。1914年第一次世界大戦が勃発、大戦中ベルギーはドイツの占領下になる。マグリットは単身ブリュッセルへ移り、印象派風の絵画を描き始める。1916年18歳でブリュッセルの王立美術アカデミーに入学し、のちに詩人で評論家となる友人のピエール・ブルジョワ(1898-1976)にキュビスムや未来派の画集を見せられ、衝撃を受ける。
1920年22歳のマグリットは、ブリュッセルで画材店員になっていたジョルジェット・ベルジェと偶然再会した。翌年、約1年間の兵役を終え、壁紙工場のグラフィックデザイナーの職に就く。24歳でジョルジェットと結婚、マグリットが没する1967年まで、マグリットのもっとも大切なモデルとなり、ジョルジェットはミューズと呼ぶにふさわしい存在として45年間添い遂げる。
作家のマルセル・ルコント(1900-66)から雑誌に掲載されたジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)の《愛の歌》(1914、ニューヨーク近代美術館蔵)を1923年に教えられ感銘を受けた。翌年グラフィックデザイナーを辞めて独立し、広告デザイナーとなる。1925年詩人・画家・音楽家であったE.L.T.メセンス(1903-71)とダダイスムの雑誌『食道(ウゾファージュ)』を発刊したが1号で終わった。
マグリットにとって母親の自殺は、いつか自分も同じように狂気に陥ってしまうのではないかと死を身近にした。理性の日常を支えて普通に生きることが、精一杯の努力を必要とする力業であり、毎日が何も起こらないということが、懸命な思いによってなされていた。マグリットは、いつも生と死のことだけを考えていた。それがわからなければ、マグリットは絶対に理解できないと、美術史家の若桑みどり(1935-2007)は記す(『芸術新潮』No.581、pp.16-17)。
“問題とその解答”
1926年、キュビスム、未来派など絵画における前衛的表現を模索していたマグリットは、謎や神秘という主題を持つキリコの影響を受け、マックス・エルンスト(1891-1976)のコラージュや、デペイズマン(転置)の手法を獲得し、初めてのシュルレアリスム作品《迷える騎手》(1926、個人蔵)を制作した。ビルボケ(西洋けん玉)の形をした枯れ木の間を疾駆する馬と騎手、夜の帳(とばり)が迫るとき、コラージュされた楽譜がメロディーを奏でる。
初の個展が1927年ブリュッセルのル・サントール画廊で開かれた。精力的に作品を制作し、ベルギーのシュルレアリストたちとグループを結成。パリ郊外のル・ペルー=シュル=マルヌに転居する。しかし、パリで個展を開催する夢は叶わず、シュルレアリスムの中心的存在となっていた詩人・批評家のアンドレ・ブルトン(1896-1966)とも仲たがいをし、契約画廊からの経済的支援も断たれた。3年ほど生活したパリで、マグリットは「物と言葉とイメージの関係」を探求し、《イメージの裏切り(これはパイプではない)》(1929、ロサンゼルス・カウンティ美術館蔵)などを描き、1930年にブリュッセルへ戻った。
弟のポールとスタジオ・ドンゴという会社を設立し、生計のために商業デザインの仕事を再開しながら絵画研究を続け、1932年ベルギー共産党に入党する。絵画制作は年に数点と少なかったが、マグリットの課題は謎と神秘をいかに表現するかであった。日常的な、目に見える事物に潜んでいる、不条理で奇妙な様相へと眼差しが向けられ、事物のイメージに詩的な次元を醸成していく。1933年には、“問題とその解答”という独自の方法論を導いた。1936年にはアメリカで初の個展がニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊で開催され、ロンドンの国際シュルレアリスム展にも参加。1938年アントウェルペン王立美術館で「生命線」と題した自伝的な講演を行なう。
1939年41歳のとき、第二次世界大戦が勃発。南仏へ避難したが、妻が虫垂炎でブリュッセルに残っていたため、3カ月後にはブリュッセルに戻った。パリのシュルレアリストたちが、アメリカに亡命したのに対し、ベルギーのシュルレアリストたちの多くは、占領下の故国に留まった。
陽光に満ちたシュルレアリスム
マグリットはファシズムの支配に対する抵抗と批判として、印象派のスタイルに基づいた柔らかな筆触と明るい色彩による非現実的な絵画を制作した。1943年から4年間で油彩画70点、グワッシュ(不透明水彩画)50点ほどをオーギュスト・ルノワール(1841-1919)に倣って描き、これは「ルノワールの時代」(1943-47)と呼ばれている。この評価は芳しいものではなく、アンドレ・ブルトンから手厳しい非難を受けた。マグリットは対抗して「陽光に満ちたシュルレアリスム」宣言を執筆した。
戦後の1946年、ニューヨークのヒューゴ・ギャラリーの画廊主アレクサンダー・イオラス(1907-87)と連絡を取る。翌年、展覧会が開かれ、イオラスは生涯マグリットの代理人であり続けた。1947年詩人ルイ・スキュトネール(1905-87)が、マグリット論『ルネ・マグリット』を発刊。
パリでの初個展が1948年フォーブール画廊で開かれた。マグリットは「陽光に満ちたシュルレアリスム」を公然と非難したブルトンらパリのシュルレアリストたちに対して、「フォーヴ(野獣)」をもじった「ヴァッシュ(雌牛)」という表現主義的な激しく粗いタッチと、けばけばしく派手な色彩や漫画、カリカチュアを引用したグロテスクな人物像を描いて反撃した。しかし抵抗も空しく、展覧会は不評で作品は1点も売れず、ブルトン一派の激しい批判を浴びて「ヴァッシュの時代」(1947-48)は終わった。マグリットは従来の様式に回帰した。“問題とその解答”という原理に則って、日常に潜む謎と神秘に対する解答の提示として描かれる作品は、よりスケールの大きい、透明感ある表現へと深化していく。
インドのゴルコンダ王国のテルグ語で「羊飼いの丘」を意味する《ゴルコンダ》が1953年に描かれ、同時にマグリット最大の壁画《魅せられた領域》(縦4.3メートル、横の総延長71.21メートル)が、北海沿いのベルギーの保養地クノッケ=ヘイストにあるカジノ・クノッケの「シャンデリアの間」全周を取り囲むように制作された。1954年ブリュッセルのパレ・デ・ボザール(Bozar)で最初の回顧展を開き、ヴェネツィア・ビエンナーレのベルギー館に出品。1965年にはニューヨーク近代美術館で回顧展が開催された。生涯約1,800点の作品を制作したマグリットは、1967年8月15日すい臓癌のためブリュッセルの自宅で死去した。享年68歳。ブリュッセル郊外にあるポプラ並木に囲まれたスカルベーク墓地に妻ジョルジェットと眠っている。2009年ブリュッセルにマグリット美術館が開館した。
マグリットが生涯を通じて取り組んだのは、イメージの問題であった。「イメージは、人間の心や精神に、どのように働きかけるのか。言葉や観念とイメージは結びついているのか。そして、イメージは、世界とどのように関係しているのか。世界は神秘であると考えていたマグリットの作品は、世界から与えられる神秘の感覚を表現するものだった」と、南氏は述べた。
【ゴルコンダの見方】
(1)タイトル
ゴルコンダ(ごるこんだ)。英題:Golconda──インド南東部の町の名が題名。16-17世紀末にダイヤモンドを産出して栄華をきわめたゴルコンダ王国の首都だったが、ムガール帝国に攻められて滅亡した。絵との関係は直接にはないが、かつて豪奢な都市が衰退してしまった繁栄と没落のイメージを想起させ、いまここではないエキゾティックな国の遠い過去を甦らせる題名。マグリットは作品を友人たちに見せ、タイトル案のなかからベルギーの詩人ルイ・スキュトネールの提案を選択。「富と豪奢の奇想の都でしたので、この題名は何か驚異に満ちたものを意味します」(『ライフ』誌、1966年4月22日号)と、マグリットはインタビューに答えている。
(2)モチーフ
人、建物、空。
(3)制作年
1953年。マグリット55歳。ベルギーの首都ブリュッセルのシレーヌ画廊で1953年に発表し、その年の暮れに画商のアレクサンダー・イオラスが買い、翌年(1954)メニルが購入。
(4)画材
キャンバス・油彩。
(5)サイズ
縦80.0×横100.3cm。F40号。
(6)構図
屋根の水平線と、右側の建物の垂直線が交差している正面性の強い安定した構図。大中小の人物が、それぞれ斜めに規則正しく配置され、奥行感をもたらしている。
(7)色彩
水色、灰色、茶褐色、黒、白。
(8)技法
平面的で薄塗りの油彩画。細部のタッチは粗い。
(9)サイン
右下に黒で「Magritte」と署名。キャンバスは裏打ちされており、裏に記入があるかは不明。
(10)鑑賞のポイント
茶褐色の屋根と、十字架のような白い窓枠が整然と並ぶ集合住宅の連なりを覆うように、無数の山高帽を被った無表情な紳士たちが、一定の間隔で浮遊している。不穏な雰囲気でありながら、水色を背景に黒い人物のパターン化した配置が高いデザイン性を示していて美しい。視界を遮る右側の建物は、鑑賞者が外を眺めている現実感を増す効果がある。画面に対して前・中・後と3層に分かれ、中層に浮かぶ紳士たちは住宅の壁に影を落とし、不思議な光景に奇妙なリアリティを与えている。マグリットにとって山高帽の男は中産階級者を表わし、自画像でもあった。無表情の男性を反復して表現することで、群衆の匿名性がもっている破壊的な潜在能力を浮き上がらせた。西洋の建物が並ぶ日常の風景に、インドのゴルコンダという滅亡した東洋の王国の都市を想起させ、そのイメージのはざまに真の現実が開示されることを目指していた。マグリットはこの作品を「空間の問題に基づく探求の成果」と、詩人ガストン・ピュエル(1924-2013)への1953年11月13日付の手紙で明かしている。画面中央の右側に立つ正面を向いている紳士は、このタイトルを提案した詩人ルイ・スキュトネールだと言われている。20世紀ベルギーを代表するマグリット円熟期の名作である。
真の現実を開示する
南氏は《ゴルコンダ》の見どころのひとつは、不在の表象と言う。「山高帽を被った人は、際立った特徴を持たない誰でもない者の肖像。一人ひとり顔の造作は異なっていても、マグリットの自画像と見なされることが多い。それは、誰でもあり得るというその匿名性が、作者自身を背後に隠すペルソナ(仮面、表向き演じている性格)として機能している。よく見ると人物の大きさは3種類で、遠近感を表現し、大きい人は大きい人で列が揃い、間隔も等しく斜めのグリッド状に規則的に並び、中ぐらいの人も小さい人もそれぞれにグリッド状に配置された構造になっている」。
もうひとつは、描かれた詩であるという。「マグリットの作品の基本的な手法に“問題とその解答”があるが、《ゴルコンダ》は空間という問題について考えていた。絵を描くことによって解答にたどり着くこともあるが、この作品の場合は、突然思い付いたイメージで、空中に人が浮かんでいる。それが空間の問いに対する解答であった。山高帽に外套を着た人物によって空間が均質に満たされ、そのシチュエーションが絵になっている。空間が均質だとわからなくとも作品としてどう感じるかは見た人の自由。匿名性の問題や現代の都市の情景を感じるかもしれないし、あるいは人物はたくさんいるけど、一緒にいるとは言えない。お互い見える距離にいるけど仲間ではない。くっついているとも離れているとも言えない微妙な空間で、まさに都市における人間関係を思う人もいるだろう。インドの王国だったゴルコンダに結び付けるならば、われわれが生活している都市がこれから滅びてしまうのか、あるいは栄えていくのか、考えさせられる。シュルレアリストであるマグリットは、日常的なもののなかに、裂け目を与えて、そこから真の現実を開示することを目指した。イメージによって詩を生み出すことで、社会通念で縛られた現実ではなく、生(なま)の現実を示そうと考えた」と南氏は語った。
南 雄介(みなみ・ゆうすけ)
ルネ・マグリット(René Magritte)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献