アート・アーカイブ探求
リザー・アッバースィー《恋人たち》神との一体化──「桝屋友子」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2024年02月15日号
絡み合う腕
「ONE EARTH MISSION」と書かれた服を着て、背中で語りながら指揮をする小澤征爾が2024年2月6日、88歳で亡くなった。「世界のオザワ」と称された氏がオーケストラを前に、最後の公の場で、座して指揮した背に書かれていた平和を訴えるメッセージだ。「小学生の間ずーっと戦争だった。同級生の家が直撃弾で一瞬で無くなってしまった。死体も出てこない。恐ろしいですよ。僕がクラシック音楽を続けていれば、平和の尊さを思い出してくれるのではないか」と、語っていた。
イスラム軍事組織ハマスがイスラエルを襲撃したことから勃発した戦闘が始まってから4カ月経過した。状況は複雑で、即時停戦を願うが、仲介役となっているのが秋田県とほぼ同じ大きさの小国カタールだそうだ。イスラエルを支持するアメリカに対し、ハマスをイランが支援し、資金や武器などを提供しているという。イランとはどのような国なのだろう。イランの絵画を見てみたいと思った。
インターネットで金とも茶とも言えない色面の絵画が目に留まった。目を凝らすと、どっちが女性でどっちが男性か、性差も不明な不思議な絵画だった。1630年作、日本では俵屋宗達がいた江戸時代前期にあたる。リザー・アッバースィーの《恋人たち》(メトロポリタン美術館蔵)である。
画家の名を冠した「Reza Abbasi Museum」がイランの首都テヘランにあるが、戦争が起因しているのか、2月11日現在アクセスできなかった。作品は手に収まるほどの小さい作品だが、男女の絡み合う腕が印象的。女性の衣には、鳳凰のような鳥が飛び、左足首にはアンクレットが付けられている。二人の頭上には5輪の花が咲き、背景の草木も祝福しているようだ。初めて見るイランの絵画《恋人たち》。何が描かれているのか、探求してみよう。
《恋人たち》の見方を東京大学東洋文化研究所の桝屋友子教授(以下、桝屋氏)に伺いたいと思った。桝屋氏はイスラーム美術史を専門としており、『すぐわかる イスラームの美術』(東京美術、2009)や、翻訳書『イスラーム美術』(岩波書店、2001)など、イスラーム美術についての著書、論文を多数書かれている。東京・本郷の東洋文化研究所へ向かった。
長崎からイスラーム美術へ
「現代美術を卒論にしようと思っていた」と桝屋氏。大学生の頃に現代アートを指向する東京の画廊でアルバイトをしており、現代美術に日常的に触れる機会があったためだ。桝屋氏はなぜ、イスラーム美術へ関心を抱き、研究することになったのだろう。
桝屋氏は1961年長崎県長崎市に生まれた。祖父がアマチュアの絵描きで、祖父の叔父にあたるのが山本森之助(1877-1928)という有名な郷土の洋画家だった。その影響もあり、絵を描いたり見たりするのが好きだった桝屋氏は、高階秀爾先生、辻惟雄先生が教鞭を執る東京大学美術史学科へ進んだ。その頃、偶然に東京外国語大学のペルシア語学者、黒柳恒男先生が教えるペルシア神秘主義
文学の授業を取り、レポートのテーマを好きな美術とし、ペルシア(イラン)のイスラーム美術にした。初めてイスラーム美術に触れた桝屋氏は、「こんなに美しい美術があったんだ」と、その鮮やかな絵画に引き込まれた。サファヴィー朝(1501-1736)時代の画家スルターン・ムハンマド(生没年不詳)作といわれる《ガユーマルスの宮廷》(1525頃、カナダ、アーガー・ハーン美術館蔵)は、タフマースブ1世のために制作されたフェルドゥースィー作のイラン列王記『王書(シャー・ナーメ)』の写本の一葉で、これが卒論のテーマとなり、イスラーム美術史を志すきっかけとなった。濃厚な美意識に基づく徹底した装飾美を追求した『王書』は、総ページ742ページ、258枚の挿絵を含む大判の豪華写本で、数十人の優れた画家たちが、1520年代から20年ほどかけて完成させた。「高価な絵具や金箔が多く使われている物質的な贅沢さに加え、正確な筆致で書かれた優美なテクスト文字、挿絵の革新的な構図、細密で生き生きとした描写は、ほかのイスラーム写本の追随を許さないものがある」と桝屋氏は語る。
大学院に進学して研究者を目指すが、イスラーム美術史の講義は当時日本には存在しなかったため、1987年フルブライト奨学金を得て米国ニューヨーク大学の美術研究所に留学し、プリシラ・スーチェク教授の教えを請うた。1992年から2年間メトロポリタン美術館のイスラーム部ハゴップ・ケヴォルキアン学芸研究員となり、1997年博士号を取得した。1997年国立民族学博物館の助手、1999年より東京大学東洋文化研究所の助教授、2007年より同教授を務めている。
一枚ものの絵の誕生
リザー・アッバースィー(別名アーガー・リザー)は、宮廷画家アリー・アスガルの息子として、1560〜70年の間にイランのカーシャーン、またはマシュハドに生まれたと推測されている。イスラーム教シーア派を国教としたサファヴィー朝は、イスマーイール1世(在位1501-24)によって建国され、タフマースブ1世(在位1524-76)やアッバース1世(在位1587-1629)ら歴代の王による芸術擁護活動によって、ペルシア美術史上でも顕著に芸術が尊重され発展を遂げていった。
第2代君主タフマースブ1世は、王子時代を先のティムール朝(1370-1507)の首都であったヘラート(現アフガニスタン)で過ごし、ティムール朝宮廷書画院のリーダーでペルシアを代表する画家のカマール・アッ=ディーン・ビフザード(?-1535/36)による絵画など、当時の最高水準の絵画に親しんだ。即位前後にビフザードをサファヴィー朝首都タブリーズに呼び寄せ、スルターン・ムハンマドに代表されるタブリーズ在来の画家たちと協業させることによって、二つの異なった感性を融合させ、サファヴィー朝に新しい絵画様式をつくり上げた。タフマースブ1世のための『王書』写本の挿絵によって、その過程を見て取ることができる。しかし、10歳という若さで君主の座に着き、自らも書画をたしなんだというタフマースブ1世だったが、16世紀半ばには芸術の擁護を放棄し、『王書』写本もオスマン朝のセリム2世(在位1566-74)への外交の贈物として手放してしまう。そのため画家たちは別のパトロンを求めて、インドのムガル宮廷などに移住する者もいた。
その後、アッバース一世が継承すると、カズヴィーンに遷っていた首都をさらにイスファハーンへと遷し、東西交易の中継地としてイスファハーンは栄えるようになった。その繁栄は「世界の半分」と称賛され、町の美しさは「イランの真珠」と喩えられた。写本芸術の時代は終わり、画家たちは、人物や動物を描いた一枚ものの絵を制作して、豪華な写本に比べて安価な値段の絵画を、より広い購買層に売ることで生計を立てるようになった。王族や裕福な愛好家は、こうした一枚ものの絵画や書を収集し、自分の画帖(ムラッカー)に貼り付けて楽しんだ。とりわけ、人物画は好評を博し、新たなイスラーム絵画のジャンルが確立されていった。その代表的な画家が、アッバース1世に仕え、「アッバースィー(アッバースの)」という名誉ある称号を許されたリザーであった。
リザー様式確立
リザーの画業は、大きく三期に分かれている。初期には宮廷で伝統的な写本の制作に携わり、『王書』の挿絵を描いたほか、徐々に繊細な描線と大きな色面に大胆な色使いの《青いマントを着た若者》(1587頃、ハーバード大学美術館蔵)や、ヌード作品《横たわる裸婦》(1590、フリーア美術館蔵)など、美男美女の静かな様相を描いていた。
しかし、しばらくすると宮廷を離れて画風を一変させる。下層階級の人々と交流し、中年以降の髭の男性ばかりを墨彩・淡彩で描くようになった。桝屋氏は「頭髪のおくれ毛のように細かい描写や、衣文線(えもんせん)に肥痩(ひそう)があることがリザーの特徴だが、筆のブラッシュワークを追い求めてみたくなったのだろう。口髭顎髭のおじさん、レスラーなどしか描かない時期があった」と言う。
そして約10年ほど経った1610年までには宮廷に復帰し、再び濃彩の宮廷人や美男美女を描くようになった。鮮やかな色彩を用いて優雅なカップルを描いた《恋人たち》は、画業が終わりを迎える晩年の作品だ。少人数で構成された人物画を明るく描き、作品に署名し、日付を付けた。その様式は切れ長の目を持ち、下膨れでふくよかな人物像を確立し、リザー様式とも呼ばれた。弟子のムイーン・ムサッヴィル(1617頃-97)たちばかりでなく、宮殿の壁画やタイル装飾、陶器、テキスタイルなど、サファヴィー朝美術全体に大きな影響を与え、1635年おそらく首都イスファハーンで亡くなった。享年70歳前後。
イスラーム美術・写本・ミニアチュール
イラン・イスラム共和国の面積は日本の約4倍、人口8,920万人(『世界人口白書2023』)、首都はテヘラン、民族はイラン人のほか、トルコ人、クルド人、アラブ人など。ペルシア語を話し、イスラーム教徒が多い。
イスラーム(Islām)という名称は正確には、アラビア語でアル・イスラームと呼ばれ、このイスラームとは「平和であること」、または「絶対に帰依すること」を意味するという(蒲生礼一『イスラーム』pp.92-93)。イスラームは、アラビアのメッカに生まれた預言者ムハンマド(マホメット)が610年頃に創始、絶対神アラーを信仰する。厳格な一神教であるイスラームでは、偶像崇拝を堅く禁じている。一方、イスラーム美術の発達を支えていた王侯貴族の宮殿の室内装飾、所有していた写本や器物など、世俗美術には宗教的規制が及んでおらず、人物や動物の表現は自由に行なわれていた。
メッカを聖地とし、アラビア半島から広がり、西アジア、北アフリカ、南アジア、東南アジアを中心に進行されている世界的大宗教。この1400年の長きにわたり、大西洋からインド洋を経て太平洋に到る広域の美術をひとつの用語「イスラーム美術」でまとめている。
イスラーム美術とは、イスラームという宗教名を冠しているが、宗教美術のみではなく、宗教が関係しない美術品・工芸品・建築など、世俗の美術も含まれる。イスラームという同一の宗教を奉じる人々が生み出した美術には、地域や時代、民族を超えた共通点が見られる。
イスラーム絵画の形態は、壁画と写本絵画に大きく分けることができる。壁画は支配階級の宮殿や裕福な人物の邸宅の壁面を飾った人物画を中心とする絵画であるが、宮殿や邸宅は時代の流れとともに失われてしまうので、発掘により明らかになるわずかな様相、17世紀以降の建物に残る現存作品以外は、その実態はあまり知られていない。
他方、写本とは、英語のマニュスクリプト(manuscript)のことで、「手稿本」と訳すこともある。印刷本に対する手書き本。厳密には写本は手稿本のうち、テクストが別の本から書き写されたものを指す。著者が自ら記す自筆本(autograph)もある。物語のテクストに挿絵を施す写本芸術は、イスラーム地域、とりわけイランで大きな発展を遂げ、挿絵入り写本は宝物として大切に保管された。
写本の挿絵は、その緻密な技法から、「細密画」の名で呼ばれることがあるが、細密画は日本語の翻訳の間違い。ミニアチュールの語源はラテン語のミニウム(minium)というヨーロッパの赤い絵具のことで、写本絵画によく赤が使われていたため、ヨーロッパでは「写本の挿絵」をミニアチュールと呼んでいた。この用語がイスラーム地域の写本絵画にも適用されていたが、それが日本語に訳されたとき、極小のサイズを指す英語のミニチュア(miniature)と混同されてしまった。
リザーも写本絵画の制作に携わったが、その時代には人物画に重点が置かれ、物語の場面を表わすための背景描写の伝統が失われてしまっていた。なかでも建物は平板で単純な表現となっており、リザーほどの画家であっても、タフマースブ1世のための『王書』で頂点を迎えた写本芸術の高みを継承することができない状況にあった。
【恋人たちの見方】
(1)タイトル
恋人たち(こいびとたち)。英題:The Lovers
(2)モチーフ
男、女、花、草木、ワイン、ガラス瓶、盃、果物、皿、雲。
(3)制作年
1630年。リザー65歳頃。
(4)画材
紙に不透明水彩、インク、金。
(5)サイズ
縦17.5×横11.1cm。B6(18.2×12.8cm)判の単行本サイズ。
(6)構図
男女が一体化した右斜めの構図。
(7)色彩
茶、金、薄紫、緑、水色、紺、黄、赤、白、黒など多色。
(8)技法
恋人たちをイメージしながら、装飾的・平面的・形式的に描いた。描く対象の形態を輪郭線で囲む鉤勒(こうろく)や、髪の毛の細い表現に毛描きを用いている。線の太さや抑揚を使い分けることで、絵に厚みとリズムを生み出す。帯の端の処理に見られる独特な襞(ひだ)の表現がリザー作品の目印である。
(9)サイン
画面左側中段に一文
「در روز 3 شنبه هشتم شهر شوال/ با إقبال سنهٔ 1039 به إتمام رسید. رقم کمینه رضاء عباسى/ ه」
(リザー・アッバースィーが1039年シャウワールの8日[火曜日/1630年5月21日]に完成した)と黒で署名。これまでの画家とは異なり、リザーの作品の圧倒的多数にはサインがある。
(10)鑑賞のポイント
肖像画というよりも美しい人物を記号的に表わしているために、人物は個性的表現に寄らず無感情である。恋人たちは顔が相似しているが、女性よりも男性の顔色がわずかに濃い。若い男女の手、足、身体が曲線的に絡み合い、背景に金泥で描かれた植物や雲、流麗な文字列との相乗効果により、繊細で優美な雰囲気を醸し出している。ターバンからはみ出した細い巻き毛
、足が小さい女性の豊満な太もも、女性のへその上に男性の左手が伸び 、エロティシズムが漂う。胴体は長く足が短く、座してバックハグするポーズを取り、二人はワインを飲み遠い眼差しで、それぞれ過去の記憶を思い出しているのかもしれない。神への愛の比喩として人間の愛を表現した。聖と俗、神との一体化への願望。イラン王朝、サファヴィー朝宮廷の画家として成功したリザー晩年の代表作。浮世絵に近い
《恋人たち》について、桝屋氏は「画材の紙は、麻布の繊維からつくられており、にじみ止めとして卵白や水解きでんぷんが塗布されている。絵具は主にラピスラズリ(藍色)、辰砂(朱)、石黄(黄色)、孔雀石(緑)、藍銅鉱(青)、金などの鉱物顔料が使われるが、赤色をつくる貝殻虫などの有機顔料もある。インクは煤(すす)、没食子(もっしょくし)、明礬(みょうばん)、水などを混合し、媒材には液状のアラビアゴムや水などを用いる。絵筆は子猫の喉の毛や、リスの尾の毛など、動物の毛を用い、文字は葦(あし)の茎の先端を斜めに切って、尖らせたペン(カラム)で書いている」と述べた。
さらに桝屋氏は、「二人は大きな目、紅く小さな口、丸い顎を持ち、ちょっとくせのある顔つき。膝を「くっ」と曲げ、なだらかな体つきなどは理想化というか、定型化している。美しい人物を描いた絵であるという点では、江戸時代に発達した日本の浮世絵に近い感じがする。モチーフとなる美男美女は、特定の人物を描くのではなく、架空の人物をイメージで描いている。植物や衣文線に見られる肥痩のある描線は、リザーが得意とする表現のひとつ。イランのもっとも偉大な芸術家のひとりとしてビフザードの次か、その次には入るリザーは、一枚ものの絵を描いて一時代を築いており、イランのみならずインドでも評判となっていて、ムガル朝皇帝が彼の作品を入手していたこともわかっている。この絵は、特定の注文主のために絵を描いたのではなく、理想的な美しい人物の絵を描き、それに署名を入れることで、不特定多数の購入者に対してアピールしたものだろう。書家が厳然たる優位を占めるイスラーム地域の美術界にあって、画家が自分の名前を表示してその絵画を売り込み始めたことは、大きな時代の変化と言える」と語った。
桝屋友子(ますや・ともこ)
リザー・アッバースィー(Riżā-yi ‘Abbāsī)
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参考文献
2024年2月