デジタルアーカイブスタディ

創造と併走する、現代の美術におけるデジタルアーカイブ

平諭一郎(東京藝術大学アートイノベーション推進機構 特任准教授)

2021年04月01日号

「デジタルアーカイブ」と聞くと、その対象になるものとして古い文化財や書籍などをまず連想しがちだが、その対象には、現在進行形で生み出されているメディアアートやアートプロジェクト、日本画、工芸などといったジャンルの美術作品も広く含まれている。展示形態と作品本体が表裏一体であることも多い現代の美術作品は、どのようにデジタル化され、保存・活用・継承されていくべきなのだろうか。デジタル技術と現代のアートの保存、メディアアートの保存・修復といった分野で研究を推し進める東京藝術大学アートイノベーション推進機構 特任准教授の平諭一郎氏に、その未来予想図についてご執筆いただいた。(artscape編集部)

モノ/コトからなる展覧会のパースペクティブ

私にとって2020年はもっとも多く「デジタルアーカイブ」を鑑賞した年となった。

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大による社会環境の変化が、美術館や博物館(以下、ミュージアムと称する)をはじめとする多様な文化施設を「四角い画面上」へと閉じ込めた。世界中のミュージアムがこぞって所蔵コレクションの高精細画像や3Dモデルを含めたデータベースの公開、映像コンテンツの拡充を進め、展覧会の3次元VRを配信している。私が勤務する東京藝術大学においても、展覧会、演奏会、オープンキャンパスなどさまざまなコンテンツの配信を行なうための新たなプラットフォームとして、2021年2月12日に「東京藝大デジタルツイン」を公開した。以前のように現実のミュージアムに足を運び、美術品を鑑賞することが難しくなりつつある現在、コレクションの高精細画像や3Dモデルの公開、展覧会の3次元VR配信は、そのオルタナティブとしての鑑賞体験と仮想空間の提供を目的としているはずである。しかし、はたしてすべてがそうだろうか。

東京藝大デジタルツイン(Webサイトのスクリーンショット)

古来より千年以上にわたって残し伝えられてきた伝世品である漆塗りの厨子や祭祀具、調度品などの文化財は、ミュージアムでそのものを鑑賞することにより、その体験を引き金トリガーとして、ものが成立した背景や社会状況、人の営みに想像を膨らませることができる装置である。むしろそれら文化財から召喚される物語を、展覧会での解説や鑑賞者自身のフィルターを通して紐解いていく楽しみこそが、ものを鑑賞する意義のひとつでもあろう。物質としてのモノを守り伝える使命を担うミュージアムは、そのモノを保護すべく保存環境を整え、傷んだら修理を施す。また、時にはデジタルアーカイブを活用した画像や映像、またモノとしての複製品を活用し、より多くの人へ文化を共有してきた。ミュージアムでは、ガラスケース、台座などの遮蔽によるモノとの物理的距離、照明が制限されるが、四角い画面上での2D画像や3Dモデルの鑑賞であれば、むしろ展示室より詳細にモノの観察が可能となる。画像にしろ、モノとしての複製品にしろ、いずれも鑑賞者にとって対象となるものは文化財であり、その代替として時に複製品や記録画像を鑑賞する。このモデルはモノを深く鑑賞する体験の享受として、現代においてはもっとも適している方法のひとつだと思われる。

対して、記録された画像、映像の配信だけでなく、展覧会(もしくは展示室)そのものを3次元で記録し、自身で視点を操作しながらサイバー空間内の展示室をウォークスルーできるコンテンツは、実際にミュージアムに赴いて展覧会を体験することそのものを模倣する手続きである。つまりモノではなく、体験(コト)の複製ということになる。それは「展覧会」というあるひとつのパースペクティブを通してモノたちを見ていく体験であり、モノ単体での鑑賞が引き起こしやすい「文脈からの切断」を是正することが可能となるだろう。四角い画面上に閉じ込められた絵画や彫刻を細部まで拡大して視るよりも、日本武道館でのコンサートをヴァーチャルで鑑賞するように、展覧会という雰囲気やその意図を体感するには、展示室の3次元VRは適しているのかもしれない。

デジタルアーカイブを活用したこれら二通りの体験モデルは、何を体験するかによってその適性が分かれる。「コト」であれば展示室の3次元VRが、「モノ」の鑑賞であれば画像や3Dモデルの閲覧が適しており、それらはお互いに補完し合っている。しかし、現代の美術作品を鑑賞する際には、その二通りの体験モデルの適性が異なってくるのではないだろうか。


現代の美術作品の鑑賞体験

明治22(1889)年に東京美術学校として授業を開始して以来、日本における美術教育を牽引してきた現在の東京藝術大学には、生徒、学生が制作した平常制作、卒業制作、自画像が収蔵されている。それらは絵画科日本画専攻、絵画科油画専攻、彫刻科、工芸科など、学生が所属する科や専攻の分類別におよそ1万件に及び、その総体は130年を超える美術作品の変遷を物語るものである。その作品群のなかには、壁面に掛けられる絵画や、台座の上に載せられた彫刻、ガラスケースの中に収められた工芸品と同じように、モノだけでなく展示空間全体で表現されるインスタレーションや、大量生産の工業製品や日用品など複数の素材を用いたミクスト・メディアが存在する。ヴィデオやコンピュータを用いたいわゆるメディア・アートや、鑑賞者と関わることで成立していくインタラクティブ・アートもまた、技術革新や世相、流行を映し出すように増加の一途を辿っている。

展覧会「芸術アートの保存・修復─未来への遺産」にて展示された学生制作品の一部(東京藝術大学大学美術館、2018)[撮影:池田慎治]

新たな素材の脆弱さと、モノ(オブジェクト)としての単一性や独立性から解放され、空間性や時間性を伴うそれら現代の美術作品は、当然であるが要素となる物質としてのモノの外観を視覚的に眺めただけでは、その作品を鑑賞したことにはならない。伝統的な絵画や彫刻の鑑賞体験を代替するには、その形状や色、質感をあらゆる角度から閲覧できる体験モデルが望ましいが、その作法に則っていない現代の美術作品は、展示室で「作品となっている」状態を疑似的に体験せずには、その代替として成立しない。つまりは、現代の美術作品をヴァーチャルで鑑賞しようとすると、コンサートや展覧会の3次元VRのような体験モデルとなるのである。

さらに言えば、制作中の過程を含めて表現するワーク・イン・プログレスや、社会へと接続し実践するソーシャリー・エンゲージド・アートのように、どの時点を完成とみなすのかが非常に曖昧な作品たちは、展示(もしくは上演)を3次元や映像で記録したとしても、それは作品の一側面にしか過ぎない。

これまでの美術は、作品の創造があり、その展示や上演があり、その記録をデジタルアーカイブとして残すことで、それをさらなる創造の源泉としてきたが、現代の美術作品においてはそれでは遅い。制作の開始と同時に網羅的に記録する必要があり、創造と「併走」するデジタルアーカイブでなくてはならなくなるだろう。そしてそれは単なる美術作品の記録を超えた新たな価値を形成していくのかもしれない。


何をどこまで残すのか

「新たな価値」とはどのようなものだろうか。現在、その活動を再評価する動きとともに研究が進められている松澤宥(1922-2006)を例に、創造とアーカイブの関係について見てみよう。日本概念派の始祖であり、日本を代表するコンセプチュアル・アートの芸術家として知られる松澤が、長野県下諏訪町に構えていた活動拠点には「プサイの部屋」と呼ばれる空間があった。松澤の概念を体現したようなその空間は、平面絵画や単体のオブジェとともにさまざまなもので溢れ、それら集合体もまた松澤の作品とも言えるものである。「プサイの部屋」がある建物の老朽化により、長野県信濃美術館は2018年から松澤宥「プサイの部屋」アーカイブ化事業を始めた。★1 多くの批評家や芸術家が訪れた「プサイの部屋」には、松澤と親交のあった多くの芸術関係者の資料も積層されている。作品と非作品を分かつ境界が曖昧となった「プサイの部屋」の全容を記録、調査整理し、資料のデータベース化が進められているが、いったい何をどこまで保存すれば良いのか。その選択は現代に生きる美術家にとっても共通の悩みであり、バイナリな答えがあるとは限らないだろう。ことごとく残すことがアーカイブの本来的な役割だとは思うが、100年先の未来が過去の遺産で溢れ、新たな創造を制限するようなことになるのであれば、たとえデジタルデータであろうと社会的に残すものの選択は必要であると言わざるをえない。


★1──松澤宥「プサイの部屋」アーカイブ化事業は、「文化庁平成30年度我が国の現代美術の海外発信事業」として実施された。また、実施においては、松澤宥ご遺族、長野県信濃美術館、一般財団法人松澤宥プサイの部屋、信州大学寺内美紀子研究室をはじめ、多くの協力を得ながら進められている。また、本章は『長野県信濃美術館 平成30年度 館報 21』を参照した。


誰が残すのか

では、未来へと残す選択は誰に委ねられるのだろうか。存命中の美術家の例として「日比野克彦を保存する」展(東京藝術大学大学美術館陳列館、2020)を見てみよう。日比野克彦(1958-)は、ダンボールを素材とした絵画やオブジェクトで脚光を浴び、シドニーやヴェネツィアで開催される国際ビエンナーレへの参加、アートプロジェクトの展開、テレビやラジオの司会など多方面で活躍している。渋谷のマンションの一室に、日比野が1980年代から使用していたアトリエがあるが、老朽化による建て替えのためにやむなく失われてしまうことを契機に、日比野克彦のアトリエを保存するプロジェクトが始まった。★2 「アトリエを保存する」といっても、その空間を画像や映像で記録し、3次元で再現することではなく、部屋をそのまま移築する取り組みでもない。

日比野のアトリエは、芸術家や編集者、テレビ番組のディレクターが出入りし、いわばプライベートとパブリックが混じり合うことで新しいものが生まれるサロン的な空間でもあった。そのため、いわゆる美術作品だけでなく、画材、生活用品、壁の落書き、他者が置いていった何でもないものがそこにあり、さらに、船、アサガオ、サッカー、車といった、共創によるプロジェクト型作品の生成物(記録)もまた、保存される対象となる。

歴史的人物による直筆の書状が大切に保管されるように、現代の美術家が残した走り書き、撮影した写真、展覧会のフライヤーなど、アトリエや自宅に遺されたそれらエフェメラと呼ばれるものたちは、現代において美術史家や美術館によって収集され、展示に供されている。しかし、そのほとんどが制作者ではない他者によって記録され、残されているのだ。世界の事象すべてを記録できない以上、未来に残すことができない何かは生じてしまう。美術家が自ら作品を生み出し、この世に何かを遺そうとする行為は、もしかしたら仮初なことなのかもしれない。

しかし、自らが不在となる未来において生成される物語に絶大な影響を及ぼすであろうアーカイブは、制作者が創造と併走して残すことで、他者に先んじてその初動としての方向性を指し示すことができるオルタナティブな創造物となりえるだろう。

展覧会「日比野克彦を保存する」にて展示されたプロジェクト型作品の生成物(東京藝術大学大学美術館陳列館、2020)[撮影:松永亮太]


★2──日比野克彦アトリエを保存するプロジェクトは、東京藝術大学文化財保存修復センター準備室が中心となって実施している。


アーカイブの新たな価値

より高解像な画像や映像と同時に、時間経過をも記録していくこれからのデジタルアーカイブは、その記録をもとに新たな鑑賞体験を創造していく。それは、人工知能よりも先に既存の文化施設や展覧会からその役割を奪い、現代の美術をミュージアムから開放する白騎士ホワイトナイトになるのかもしれない。モノだけを残しても、記憶(文脈)が失われていては美術作品として機能しないように、二次的に創造された体験や再解釈されたコンテンツだけでもまた機能しないだろう。鑑賞体験や仮想空間の提供はそれ自体に満足することなく、リアルな体験のさらなる渇望をも促すことになる。

創造と併走するデジタルアーカイブは、もはや記録や複製でもなく、鑑賞体験の代替でもない。美術の創造のなかに標準装備された手順プロトコルとして、当然のようにそこに存在していく。創造のドライブと併走して残されていく持続可能なデジタルアーカイブは、成果となる「答え」ではなく、その道程を指し示す「解」として、これから新たな価値の生成とともに歩みを進めていくに違いない。

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