デジタルアーカイブスタディ
マンガが「芸術」になる!? ──マンガのデジタルアーカイブの実践から考える
イトウユウ(京都精華大学国際マンガ研究センター 特任准教授)
2022年04月15日号
「出版不況」と言われ始めて久しい状況のなかでも、マンガを原作としたコンテンツは絶えず多くの人々の関心と熱を集め、メディアをつねに賑わせている。これまで長い間大衆文化として見なされてきたマンガをめぐっては、2010年代以降、公共的なアーカイブの対象として捉える議論や動きが活発化しているが、その経緯を追っていくと「マンガは『芸術』なのか」という素朴な問いが、さまざまな時期、さまざまな目線から繰り返し重ねられていることがわかる。
京都国際マンガミュージアムの研究員、そして文化庁によるマンガ資料のアーカイブ事業のコーディネーターとして、まさにその現場の中心で長らく活躍されてきたイトウユウ氏の目線から、マンガ資料のアーカイブにまつわる状況整理をしていただくとともに、国内におけるそれらの特色や、現在進行形で更新されていく収集・保存・活用の様子などについて原稿を寄せていただいた。(artscape編集部)
はじめに
近年急速に社会的な関心の対象となりつつある「マンガのアーカイブ」。本稿の目的は、特に2010年代以降における実践を報告しつつ、その背景について考察することである。
ここでアーカイブの対象として想定されているマンガ資料とは主に、〈マンガ刊本〉と〈マンガ原画〉だ。前者は、雑誌や単行本などとして印刷されてきたマンガ本を、後者は、それらの本に掲載される作品の手描きの生原稿を指す。
筆者は、約30万点のマンガ刊本を所蔵する「京都国際マンガミュージアム」(2006年開館)のアーカイブ事業や、本稿で中心的に紹介する文化庁によるマンガアーカイブ事業に、当初から関わってきた。ここで書かれていることは、そうした経験のなかで考えてきたことである。
なぜマンガのアーカイブが社会的な関心事になったのか
マンガアーカイブの実態を報告するのに先立って、ここではまず、そもそも、なぜマンガをアーカイブすることが社会的関心となっているのか、という背景について説明しておきたい。
実は、マンガを含むポピュラーエンタテインメントメディアが、公共的な文化政策の対象として注目されるようになったのは、2000年代以降のことである。大きな契機は欧米における人気だろう。以降、マンガは、アニメやゲームなどと共に、グローバルなマーケットにおける強力な「コンテンツ」としてのポテンシャルが追求されることになる。そこでのマンガへの直接的な期待は経済・産業的なものだったが、公的支援を可能にするため、マンガを「芸術」とみなすことでその保護や発展を促す、ということが並行して行なわれた。
「文化」や「芸術」といった言葉自体は、きわめて政治的で近代的な概念だ。時代や社会状況に応じて、その範囲や定義を相対的に変容させてきたことは言うまでもないが、その過渡期では、つねに社会や既存の「芸術」界との摩擦を引き起こしてきた。
「芸術」と見なされるようになった現代のマンガも例外ではないが、マンガの場合、その原因は、それが「ポピュラーカルチャー」だからである。ここでは、ポピュラーカルチャーであることの特徴を、〈日常性〉〈現役性〉〈複製性〉の3点にまとめたうえで、それらが、従来の「芸術」概念とどう対立しているか見ておきたい。そのことが、マンガをアーカイブするということの困難についても示すからだ。
現代の日本におけるマンガ文化は、日常生活文化=ポピュラーカルチャーに属していると言える。食事をしたり、お風呂に入ったり、といった、日々繰り返される日常生活の延長のなかで私たちはマンガを楽しんでいる。寝る前のベッドの上や、通勤途中の電車の中というのも、定番の「マンガ時間/場所」だろう。しかしながら、民俗資料館や民族学博物館を「ミュージアム」として成立させるため、戦後、特殊な議論が展開されてきたように
、あるいは「民芸」を巡る議論が示すように、一般的には、日常生活文化というのは、アーカイブされるべき「文化」や「芸術」とは見なされにくい。また、近代以降の日本における(公的な)アーカイブにおいては、〈現役性〉を持った“生きている”文化は、その対象になってこなかった。積極的に収集し、保護しないと消えてなくなってしまう可能性のある文化こそが公的アーカイブの対象であり、それらに関するモノを納めた場所が「ミュージアム」という制度だったからだ。
江戸期以降の複製印刷技術の発展は、出版文化を、大衆文化=ポピュラーカルチャーの醸成する場とした。一方で、ジェイムズ・クリフォードが言うように、「芸術」であることの重要な要素が「オリジナル」「唯一無二」だとすれば
、それとは対称的な性質(つまり「複製」性や「商業的」性格)を持つマンガ刊本は、一般的にその価値が理解されづらいだろう。マンガ文化が(政治的に)「芸術」と見なされた結果、それらをアーカイブする事業の実施や、アーカイブセンターとしてのマンガのミュージアムの設立といったことが実現しているが、マンガ文化が本来的に持っている上記のような性質ゆえ、それらは、従来のアーカイブやミュージアムといった制度そのものに揺さぶりをかけている、と言える。
マンガアーカイブの現在(1)
啓蒙から:マンガ原画はどうして踏んではいけないの?
本稿では、以下、主に文化庁によるマンガアーカイブ事業を紹介する。関係する個人・団体が多く、投入されているコストも大きなプロジェクトとして、日本のマンガアーカイブに大きな影響を与えていると考えられるからだ。
同事業は、マンガを含む「メディア芸術」4分野──マンガ、アニメ、ゲーム、メディアアート──をまたぐ、現在も進行中のアーカイブプロジェクトのひとつで、「メディア芸術情報拠点・コンソーシアム構築事業」(2010~2014年度)、「メディア芸術連携促進事業」(2015~2019年度)、「メディア芸術連携基盤等整備推進事業」(2020年度~)という三つのフェーズのなかで実施されてきた。
マンガ分野に限って言えば、まず、「メディア芸術情報拠点・コンソーシアム構築事業」で、全国のマンガ関連施設におけるマンガ資料のアーカイブの実態を調査しつつ、協同でプロジェクトを進めるための「コンソーシアム」を構築した。第2フェーズの「メディア芸術連携促進事業」では主に、複数の施設において、マンガ資料の収集・保管作業を実際に行なうことで、さまざまなタイプのマンガ資料のアーカイブにどのようなコストがかかるのか実証実験した。現在は、「メディア芸術連携基盤等整備推進事業」というかたちで、それまでのネットワークを拡げつつ、より実際的で安定した活動を目指した事業を展開中である。
先述のように、マンガ文化そのものが、多くの人にとって、アーカイブする価値のあるものと認識されるようになったのはごく最近のことだ。2010年以降のメディア芸術アーカイブ事業においても、特に初期には、なぜマンガ資料をアーカイブする必要があるのか、という一種の啓蒙活動が必要だった。第1フェーズにおけるいくつかの事業は、その意味で重要な役割を果たしたと言える。
筆者のキュレーションによる、そうした問い自体をテーマとするマンガ展「土田世紀全原画展 43年、18,000枚。」(京都国際マンガミュージアム、2014)は、文化庁事業とも連動した、同時期における象徴的な企画と言える。展覧会は、2012年に急逝したマンガ家・土田世紀の遺した2万点に近いマンガ原画をすべて展示する、というものだった。ギャラリーを薄暗くし、額装された原画を展示するという従来の絵画芸術の展示方法を採用することで、鑑賞者に、印刷されたマンガ本とは異なるマンガ原画の迫力を実感させるコーナーがある一方で、壁と床にマンガ原画を敷き詰めた別のギャラリーも用意した 。そこで示したかったのは、マンガ原画の圧倒的な物量という新しいイシューの存在である。また、来場者は作品を踏みながら鑑賞することになるわけだが、少なくない来館者から「踏むことができない」という感想が寄せられた。しかし、そうした気持ちの先に、「私たちはなぜ、マンガ原画を踏み付けてはいけないという気持ちを抱くのだろう」という自問を抱いてもらうことこそが、この展覧会の仕掛けだった。
マンガ原画というのは、「オリジナル」で「唯一無二」であることを主張することで、「真正性」を持った「芸術」として、社会的に理解されやすいものであると言える。文化庁による「メディア芸術」としてのマンガのアーカイブ事業がつねにマンガ原画とマンガ刊本の二本立てになっているのは、こうした社会認識と無関係ではない。
マンガアーカイブの現在(2)
活用へ:アナログ活用のためのデジタルアーカイブ
第2フェーズの「メディア芸術連携促進事業」(2015~2019年度)では、事業に参加する施設や団体それぞれが、実際にマンガ原画やマンガ刊本のアーカイブ作業を実験的に行なった。文化庁事業において、「アーカイブ」とは、〈収集〉〈保存・管理〉〈活用〉という三段階が想定されているが、保存・管理は、モノとして/データとしてという二つの面から実践されている。
マンガ文化は、安く手軽に楽しめるポピュラーエンタテインメント商品であることが本質であり、モノとしての原画も刊本も、捨てることが前提につくられていると言って過言ではない。そのため、マンガ原画に限って言っても、画材(インクなど)や支持体(紙など)、補修のためのセロハンテープや化学性のりなど、ほとんどすべての要素が保存・管理ということに向いていない。そうしたモノを、いかに延命させ、場合によっては補修・補強しながら保管できるのか、ということは、同事業においても、いまだ正解が得られていない大きな問題だ。
保存・管理という過程においてはまた、マンガ資料の画像データおよびメタデータの作成も行なっている。ただし、刊本においては、明治期の貴重なマンガ雑誌などを除けば、画像データが作成されているという例は少ない。画像データの作成は、スキャニングあるいは撮影によって行なわれるが、その精度は、作業を行なった施設・団体の運営体制や用途などによって、管理上のサムネイル程度のものから、1200dpiもの高精度のものまで幅がある。
ここで特筆すべきは、マンガ(原画)のデジタルアーカイブ事業においては、その〈活用〉が重要な前提となっている、という点である。2000年代以降、文化産業の中心は、マンガやアニメを含むいわゆる「コンテンツ産業」であると言っていいが、並行するかのように、文化政策にも大きな変更が起こっている。それが、「文化芸術」の「活用」を期待するという動きだ。このことを詳しく分析した山田奨治によれば、2017年に「文化芸術振興基本法」が改正され制定された「文化芸術基本法」では、「『文化芸術』が生み出す価値を観光、まちづくりほかに活用し、そこで生まれた利潤を『文化芸術』の継承・発展・創造に使うサイクルを作」るということが目指された。そして、「文化芸術」の「活用」が重要とされるようになった状況を、「戦後日本の『文化』概念にとって新しい事態」と指摘する。
保存・管理されるようになったマンガ資料のうち、モノとしてのそれは、展覧会への出展というかたちで活用されていることがほとんどだが、画像データはどのように活用されているのだろう。もっとも多いのは、(再)出版事業における原稿としてである。
集英社による「集英社マンガアートヘリテージ」(MAH)は、マンガ出版社自身が企画・運営するマンガ原画アーカイブ事業として注目されている。モノとしての原画のアーカイブは、劣化や収蔵スペースなどの本質的な問題に対して明確な回答を見出せていないが、同事業は、「デジタルの力を活用することで、この問題を解決できないか」 という発想が出発点にある。
日本におけるマンガのデジタルアーカイブが興味深いのは、アナログのモノからデジタルデータ化したものを、もう一度別の形のモノに出力し直すということが積極的に実験されている点である。つまり、デジタルアーカイブというものが、アナログの現物を、別の形のアナログなモノに変換させるための一種の“過程”として考えられているように見えるのだ。MAHが、印刷技術や支持体の調査・研究を包括したプロジェクトでもあることは偶然ではないだろう。
年間200近く全国で開催されている「マンガ展」は、近年、そうした「変換」の実験場になっていて興味深い。大きなサイズに印刷する、といったことも一種の「変換」だが、和紙や金属
といった特殊な支持体に印刷し直したり、一般的な出版では使用するのが難しい特殊なインクを使ったり、といったことが行なわれている。フルアナログでの原稿制作が減り、「原画展」のあり方が再考されつつある現在、こうした実験は加速していくだろう。最近のデジタルアーカイブの活用としては、NFTを活用したアートコンテンツ化が一般化しつつあるが、製紙技術や印刷技術と共に歩んできたと言って過言ではないマンガ界では、それとはまた異なる「活用」のあり方を模索しているようで、その行き先から目が離せない。