2020年02月15日号
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〈歴史〉の未来

第4回:ミシェル・フーコー『知の考古学』を読む──アルシーヴの環境的転回?

濱野智史(日本技芸リサーチャー)2010年01月15日号

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 昨年末、筆者は2つのイベントに参加する機会をもった。池田剛介・黒瀬陽平・千葉雅也の三氏とのシンポジウム「歴史=物語(イストワール)の現在──情報・芸術・キャラクター」と、国立国会図書館館長の長尾真氏とのトークイベント「d-laboセミナー:これからの知──情報環境は人と知の関わりを変えるか」の2つである。いずれも「〈歴史〉の未来」や「アーカイヴ」といった本連載のテーマに関わる、興味深い議論が展開された。連載4回目となる本稿では、その内容をもとに論考を進めて行くことにしたい。

ミシェル・フーコー『知の考古学』

 まず最初に、「歴史=物語(イストワール)の現在──情報・芸術・キャラクター」のほうから触れていこう。とはいうものの、芸術家の池田剛介氏、評論家・芸術家の黒瀬陽平氏、表象文化論専攻の千葉雅也氏との議論は、哲学・芸術・文学からアニメ・ネットに至るまでたいへん多岐にわたっており、とてもその内容を簡潔に要約することはできない。以下では、あくまで筆者がその場で発言した内容を取り上げるにとどめたい。

 それは、ミシェル・フーコーの『知の考古学』に関するものである。よく知られているように、フーコーが同書で試みたのは、それまでの自身の仕事──『臨床医学の誕生』『狂気の歴史』『言葉と物』といった著作──をメタ的に振り返り、その「方法論」を理論化することだった。たとえば博物学や精神医学や経済学といった学問が、なぜひとつの統一性をもった「言説」(≒知/権力)として成立し、私たちの社会を規定しているのか。その存立体制を解明するためにフーコーが編み出した方法論が、彼の言うところの「考古学」である。
 以下では、その内容をごく簡単に紹介してみることにしよう。フーコーの「考古学」は、いわゆる「学問史」や「学説史」といった歴史的研究とはまったく異なっている。たとえば経済学を例にとってみた場合、その「言説」は、次のような一連のシステムによって生み出されている──まず、経済学という学問を支える場としての「経済学会」があり、そこには「経済学者」たちが参加していて、彼/彼女たちは、定期的に発行される「経済学会誌」に経済学の論文を投稿する。その論文には、しかるべき先行研究の文献リストが掲載されていて、それらの論文のなかには、たとえば「経済学史」と呼ばれるような歴史的研究も含まれている。
 しかし、こうしたひとつの「言説」の内側で絶え間なく生産・参照される「学説史」をどれだけ掘り下げていったとしても、言説という知/権力の存立体制そのものを明らかにすることにはならない(ごく簡単にいえば、その言説の「内側」に閉じ込められてしまうからだ)。こうしたフーコーの「言説」のとらえ方は、社会システム理論家のニクラス・ルーマン風に言い換えれば、「言説とは、絶え間なく環境との差異(境界)を維持することで、自己(=システム)の統一性を産出し続ける、オートポイエティック・システムである」となるだろう。では、そうした言説のシステムの「外側」に立って分析を行なうには、はたしてどうすればいいのか?

 そこでフーコーが提唱するのが、繰り返しになるが、同書のタイトルにもなっている「考古学」というアプローチだ。たとえばそれは次のように説明されている。

形成=編成の諸規則の考古学的分岐は、劃一的に同時的な一つの網ではなく、そこには、時間について中性的なさまざまな関係、枝脈、派生が存在する。そこには、確定された一つの時間的方向を含む他の多くが存在する。それゆえ、考古学は、純粋に論理的な同時性の図式をも、出来事の線的な継起をも、モデルとしない。そうではなくて、考古学は、必然的に継起的な諸連関と、そうでないような諸連関との交錯を示そうと試みる。したがって、実定性の一つのシステムが、通時的過程の一総体を括弧のなかに入れることによってのみ知覚されうる一つの共時的な形象であるなどとは信じない。考古学は、継起に無関心であるどころか、〈派生の時間的ヴェクトル〉を見定める。
『知の考古学』(中村雄二郎訳、河出書房新社、1995、改訳新装版)p.255より

 じつに難解な文章であるが、ここでフーコーがいっていることはそう難しいことではない。フーコーは同書のなかで、「考古学」の分析対象を「アルシーヴ(収蔵体)」、つまり英語でいえば「アーカイヴ(archive)」という言葉で呼んでいるのだが、ここではより具体的に、「図書館」の比喩を使って次のようにイメージしてみることにしよう。

 誰もが知るように、図書館には膨大な文献が収められている。そしていわゆる普通の意味での(フーコー的にいえば「言説」の内側にいる)研究者であれば、それほど迷うことなく、自分の研究にとって必要な書物を探し出すことができるだろう。なぜなら図書館では、あらかじめ学問分野ごとに──「経済学」なり「精神医学」なり「博物学」なり──書棚の領域が明確に区切られているからだ。たとえば経済学者であれば、まず先行研究となる文献を探し出し、それをまた自分の論文の文献リストに加えることだろう。そうして経済学という言説は、「一つの時間的方向」という線的な継起に沿って自らの言説を産出していく。
 しかし、これに対してフーコーの「考古学」とは、こうした図書館の分類体系をあえて無視して、あちこちの書棚に収められたさまざまな文献にランダムアクセスしていくような試みと表現することができる。たとえば「狂気」という存在が、はたしてある時代においてどのようにとらえられていたのかを明らかにするには、「精神医学」の棚にアクセスするだけではなく、その時代の文学作品や哲学や法律書や解剖記録や裁判記録や新聞記事といったあまたある言説のなかから、該当するような表現や言葉(同書の言葉を使えば「言表(エノンセ)」)を抜き出していく。
 さらにそれらの言表は、あるひとつの「言説」、すなわち「一つの時間的方向」にすべて従属されるようなかたちで読解してはならない。むしろ「考古学」が取り上げる言表は、他の言表との「関係、枝脈、派生」といった連関のなかで把握される。そしてその作業を通じて、むしろ通常の学説史や思想史からはこぼれ落ちるような「断絶、断層、空洞、実定性のまったく新しい形態、突然の再区分」(前掲書、p.257)を発掘すること。──以上が、フーコーの「考古学」のごくごく簡略なイメージである。


1──ミシェル・フーコー『知の考古学(新装版)』(河出書房新社、2006)

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濱野智史

1980年千葉県生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。著書=『アーキテクチャの生態系』...

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