〈歴史〉の未来

第4回:ミシェル・フーコー『知の考古学』を読む──アルシーヴの環境的転回?

濱野智史(日本技芸リサーチャー)2010年01月15日号

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アルシーヴの環境的転回?

 前置きが長くなってしまったが、本題はここからだ。筆者が考えてみたいのは、こうしたフーコーの「知の考古学」を踏まえたうえで、近年の情報環境の変容をとらえていくことにある。かつてメディア理論家のフリードリヒ・キットラーも指摘したように、フーコーの「考古学」は図書館という具体的なアルシーヴの存在を前提にしていたが、これに対して「ウェブ(WWW)」という新たなアルシーヴの登場ははたしていかなる影響をもたらすのだろうか?

 たとえば、昨年物議をかもした「Googleブック検索」を例にして考えてみよう。あれが実現しているのは、もはや人々は図書館というアルシーヴを歩き回って書物を探し出す必要すらないという、ごく単純な事実である。そこでは、もはや図書館の分類体系を参照する必要はなく、ただ検索キーワードをフォームに入力するだけで該当する書物を探し出すことができる。
 しかも「Googleブック検索」は、形式的に見れば、フーコーの「考古学」とほとんど同じようなレベルで、「書籍のランダムアクセス」を可能にしてしまう。図書館にこもり、既存の学問=言説の枠組みを超えて、ばらばらに散らばった書棚の中から該当する「言表」を探し出す、知の考古学者フーコー。しかし、「Googleブック検索」を使うことで、そのような作業はあまりにも簡単に実現できてしまう。なぜなら検索キーワードを入れるだけで、既存の分類体系を超えて、年代も超えて、あらゆる書籍からの検索が一瞬で可能になるからだ。
 もちろん、これはいうまでもないことだが、「Googleブック検索」とフーコー的「考古学」の両者は、実質的にはまったく異なる。「Googleブック検索」のユーザーたちは、「既存の言説(知/権力)を批判的にとらえ、ある時代のエピステーメーを浮き彫りにする」といった壮大な研究プランを抱いているわけではない。「Googleブック検索」は、ただ「便利だから」というだけの理由で利用されるに過ぎないだろう。しかし、それでも「Googleブック検索」というアーキテクチャは、ひたすらに表面的に見れば、「言表」へのランダムサーチをいとも簡単に実現することで、いわばそのユーザーたちを「無意識(無自覚)」のうちにフーコー的な考古学者に仕立て上げてしまう。

 つまり、こう言い換えることもできるだろう。研究者という〈主体〉の側ではなく、アルシーヴという〈環境〉の側こそが「考古学」的な情報へのランダムアクセスを実現してしまうという「逆転」。そうした逆転は、なにも「Googleブック検索」に限ったことではない。そもそも「WWW」というハイパーテキストにしても、Googleのような検索システムにしても、あるいは本連載で取り上げたTwitterのような「選択同期」型のコミュニケーションにしても、ニコニコ動画(の「タグ」と呼ばれる分類システム)にしても、それらは図書館的なタクソノミー(分類体系)を飛び越えた情報へのアクセスを実現してしまう。こうした、いわば「アルシーヴの環境的転回」とでも呼ぶべき事態がいま起きつつあるとするならば、はたしてそのとき「歴史」はどうなるのだろうか? これが本連載での一貫した問題意識であった。
 ただし、だからといって筆者が言いたいのは、〈フーコー的な「考古学」を環境の側が実現してくれるのだから、そのような試みはもはや不要になる〉といったようなことでは、もちろんない。むしろ、このような情報環境の変化が今後ますます不可避であると思われるからこそ、どのようにして「歴史」なり「考古学」なり「アルシーヴ」なりもその変化に対応しなければならないのかを考えてみたいのである。
 そこで筆者が次に取り上げてみたいのが、昨年末に筆者が出演したもうひとつのイベント、国立国会図書館館長の長尾真氏との「d-laboセミナー:これからの知──情報環境は人と知の関わりを変えるか」についてである。そこでは「図書館」というアルシーヴの未来に関する、興味深い議論が展開されたのだが、残念ながら規定の文字数をすでに大幅に超えてしまった。この続きは次回に持ち越すことにしたい。

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濱野智史

1980年千葉県生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。著書=『アーキテクチャの生態系』...

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