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ヴェネツィア・ビエンナーレの過去と未来──「社会性」のアートに向けて

市原研太郎(美術批評)

2011年07月15日号

 かのアルベルト・アインシュタインは、「奇跡はないか、すべては奇跡である」と語ったそうだが、東日本の大震災後に、降下する航空機の機内から眺望するヴェネツィアは、まさに奇跡の都市のように思われた。その感想の裏には、この真珠のように美しい都市が大津波に襲われればひとたまりもないというパセティックな情緒があったことは確かだ。その光景を見ていると、海に張り出した小さな狭い都市のなかで、世界一の規模を誇るビエンナーレが行なわれているとは俄かには信じがたい。

アートのユニバーサリズムと政治のナショナリズム

 6月5日、私は、グランドオープニングから一日遅れでヴェネツィアに到着した。降り立ったヴェネツィアの街区は、人の数は相変わらず多いものの、華やかさがやや色褪せたような佇まいだった(日本での大惨事の影響で、こちらの心が沈んでいたせいだとも思われるが)。同じイタリアで、ダイナミックで力強いフィレンツェと対比すると、こぢんまりとして可愛いというのが、ヴェネツィアについての私の変わらぬ印象である。ルネサンスを代表する二都市の特徴の相違は、ルネサンス時代に権力闘争の中心であったフィレンツェと、長らく地中海交易の要衝として栄えたヴェネツィアの歴史の違いから現われてくるのではないだろうか。都市の外観の愛らしさは、来訪した外国人を蠱惑して籠絡するために仕掛けたヴェネツィア商人の罠だったのかもしれない[図1-1]


1-1──夕陽のなかのヴェネツィア

 私が、最初にヴェネツィア・ビエンナーレを訪れたのは、1976年。その後20世紀末と21世紀初めの二つのビエンナーレ(1999、2001)を企画した故ハラルド・ゼーマンの“Bachelor Machines”とタイトルされた展覧会のときだった。タイトル通りデュシャンの《大ガラス》の作品に触発されて、「機械とエロティシズム」をテーマにした展示だったが、当時は、会場がもっと小さく、来場者も少なくて地元の若者が中心だった。周知のようにヴェネツィアは、アートだけでなく、映画、演劇、建築など国際イヴェントを定期的に開催していて、私は同時期、演劇の前衛、ポーランドのグロトウスキーの肉体演劇を観ている(それは、ヴェネツィア周辺に浮かぶ小島に船で渡り、薄暗い建物の一室でパフォーマーと対峙しつつ鑑賞するといったスリリングなものだった)。
 ところで同じ76年のビエンナーレでは、ドイツ・パビリオン(昔の記憶で残っているのが、以下のようにいつもドイツ・パビリオンというのも不思議だが)で、ヨーゼフ・ボイスの《トラム・ストップ》に遭遇し(現在、ベルリンのハンブルガー・バーンホフ美術館に収蔵)、その後ジグマール・ポルケ(1986。今年のビエンナーレでそのなかの一点と再会[図1-2])に出会って強いインパクトを受けた。さらに、ヒトラーの(によって)灰塵に帰した《Germania》が脳裏に焼き付けられたハンス・ハーケのインスタレーション(1993)も忘れがたい。


1-2──Sigmar Polke, Polizeischwein

 ここで、今年のドイツ・パビリオンについて述べておくなら、再び文字通り比肩するもののない作品を出展してきた。このドイツの代表は、ビエンナーレの金獅子賞を授与されたクリストフ・シュリンゲンズィーフであり、ナチスタイルで有名なパビリオンを異端の教会に完全に変貌させて、彼の作品を飾ったのである(《A Church of Fear vs. the Alien Within》)[図1-3]。シュリンゲンズィーフは、演劇やカルト映画の製作などで多彩な才能を発揮した(じつは、昨年他界)が、今回は、フルクサスを引用した実験的な映像を教会内部のスクリーンに投影して圧倒的な迫力を持っていた。横手の映写室では、これまで製作された映画が上映され、ドロドロしたエロ・グロ・ワールドを惜し気もなくぶちまけている。これなら金獅子賞に相応しいだろう(他に追随を許さない破天荒さで、しかも爆笑を誘発する物語に対して、敬意を払うという意味で)。
 付言すると、ドイツ・パビリオン、その正面に位置するフランス・パビリオン(クリスチャン・ボルタンスキー)、またその横手のイギリス・パビリオン(マイク・ネルソン)には、潤沢な資金が投入されている。その近隣にある日本や他のパビリオンが霞むほどに。とはいえ、ボルタンスキーのインスタレーションは、大仕掛けの機械装置が主役の割には、迫力に乏しかった(彼の作品に定番のテーマ「死」ではなく、「生」の偶然に左右される交配を主題にしていたからかもしれない)。パラノイアックに廃屋の内部を迷路化して観客を巻き込むネルソンは、今回、そこに家屋の外観の一部を取り付けて、さらにリアリティが増すよう念入りに仕上げた。一隅に廃墟を専門に撮影する謎の写真家の工房(暗室)を備えた薄暗い室内を順次彷徨すれば、ドイツ・パビリオンと同様、奇怪な雰囲気に染まって、そこがビエンナーレの会場であることをすっかり忘却させてしまう[図1-4]



1-3──ドイツ・パビリオン(Chrisitoph Schlingensief)



1-4──イギリス・パビリオン(MIke Nelson)

 話を過去に戻して、1990年代後半以降毎回欠かさず、私はオープニングに足を運んできた。そのあいだに、アルセナーレが企画展の会場に充てられることになり、ビエンナーレの規模が飛躍的に拡大した。また、世界中の国(国家ばかりでなく、いくつかの地方も)が出展を希望して、ジャルディーニ以外の市街地に新しいパビリオンを設けるようになり、現在の巨大ビエンナーレへと成長したのである(2011年の参加国は、過去最多の89カ国)。それが、そのまま現代アートの今日の繁栄を映し出していることは間違いない。ヴェネツィア・ビエンナーレこそ、世界の現代アートを包括的に代表する祭典である。

 さて、ヴェネツィア・ビエンナーレの魅力は、なんといってもヴェネツィアというルネサンスの古都の遺産(至る所にある教会や美術館に掛けられたヴェネツィア派の傑作に接することができる。なかでも1990年、パラッツォ・ドゥカーレ(Palazzo Ducale)で開催されたティツィアーノの回顧展は圧巻だった)を堪能しつつ、世界一の規模の現代アートの展覧会を鑑賞できることにある(アートの通時的な鑑賞)。もちろん、それだけではなく、国別パビリオンで、その国のアート事情を垣間見ることができる(共時的な比較)。また、企画展示のアルセナーレとジャルディーニの中央パビリオンは、二年ごとに同時代の新しい表現を知る機会を提供してくれる(最新アートの体験)。
 国別の展覧方式に関しては、過去にモダンアートのインターナショナルな側面が主張され反対の声が上がったが、90年代以降多文化主義的な思潮の台頭につれ、多様性の保護という利点が評価され、システムを変更しようという意見はほとんど聞かれなくなった(もうひとつ国別の代表を選出してきたサンパウロ・ビエンナーレは、2000年代後半からこのやり方を取り止めている)。しかし、国別パビリオンに国籍を異にするアーティストを採用すべしという10年前のゼーマンのアドバイスが功を奏して、2011年のビエンナーレにも自国籍ではないアーティストが国別の代表になっているケースが見られ、その成功が反対意見を抑えるのに力を貸していることは確かだろう。アートのユニバーサリズムと政治のナショナリズムが綱を引き合い、妥協が図られるというわけである。それ以上に今年は、グローバル時代に国家という政治システムを逆手に取って、現代政治の根幹に関わる国家制度に疑問を投げ掛ける作品が増えていることに注意を喚起したい(具体的には後述)。