2017年12月15日号
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フォーカス

デリケートな協働──3.11を契機として制作された映画・映像の、その後

阪本裕文(映像研究/稚内北星学園大学情報メディア学部情報メディア学科准教授)

2016年03月15日号

 私は2014年に、「映像の交換性──3.11を契機として制作された映画・映像について」と題した文章をここに寄せて、「震災以後の映画・映像は、作品を作品として完結させることよりも、さまざまな行為や出来事を媒介する方向──言い換えるならばアーカイブ的な方向においてこそ開かれていると言えるだろう」と結んだ。そして震災から5年目をむかえる2016年。原発事故などなかったかのように再稼働は進められ、丸山眞男が「無責任の体系」と呼んだものは、今なおこの社会に根深く存在しているようにみえる。このような状況の推移のなかで、その後、映像表現の変化はどのように表われたのだろうか。今回、私は3.11を契機として制作された映画・映像のその後について、思うところを論じてみたいと思う。

濱口竜介監督『ハッピーアワー』

 酒井耕とともに東北記録映画三部作『なみのおと』(2011)、『なみのこえ 気仙沼』(2013)、『なみのこえ 新地町』(2013)、『うたうひと』(2013)を監督した濱口竜介は、その後、劇映画の制作に回帰してゆき、『不気味なものの肌に触れる』(2013)に続いて、2015年に、317分に及ぶ長編劇映画『ハッピーアワー』(2015)を監督した。なぜ本稿が震災・原発事故とは無関係な物語を描いた劇映画に言及するのかといえば、本作の制作過程に、被災者(『なみのおと』、『なみのこえ』)および民話の語り部(『うたうひと』)へのインタビューを積み重ねた、東北記録映画三部作と繋がる要素が存在しているように思えるからである。
 この映画で私が印象的だったのは、30代後半の4人の女性の人生の岐路を描いた物語よりも、俳優たちの話し言葉の、表情や微妙なニュアンスを含めたコミュニケーションの豊かさであった。特に、劇映画的な編集による説明的なシークエンスではなく、物語の本筋とは関わりのない会話が引き伸ばされてゆくシークエンスほど、それは際立っていた。例えば物語中盤の、バスで温泉地を出発する主人公の一人と、偶然バスに乗り合わせた女性のあいだで起こる会話のシークエンスなどは、アドリブ演技による会話劇を思わせる。しかし、作家本人の発言によって明らかにされているように、このような俳優の演技は即興によるものではなく、本作には通常の劇映画と同じく脚本が存在している。
 本作は、2013年9月から翌年2月まで行なわれたKIITOアーティスト・イン・レジデンス2013「濱口竜介 即興演技ワークショップ in Kobe」の参加者(基本的に彼女らは非職業俳優である)によって演じられており、映画の制作過程それ自体をこのワークショップと結びつけて考える必要がある。濱口の著書★1 によれば、脚本グループ「はたのこうぼう(濱口、野原位、高橋知由)」は脚本の執筆・改稿に際して、本編の脚本以外にも役柄ごとのサブテキスト(役柄を掘り下げるために作成された、本編外のシナリオ)を準備し、役者から役柄についての違和感を極力なくすことによって、彼女らから魅力的な発話を聞き出す工夫をしたとされる。これを単に素人を役者として起用するブレッソン的な演出テクニックと見なしてしまうと、本作の制作過程にある重要な可能性を見落としてしまうことになるだろう。東北記録映画三部作のインタビューが、つねに話し手と聞き手の対話によって成立していたことを思い返そう。そこでの相互インタビューは、互いの豊かな発話を引き出すための協働作業となっていた。そして本作における非職業俳優たちと脚本グループの発話をめぐる協働作業もまた、この相互性に類似しているように思う。言うまでもなく、そもそも映画はスタッフと俳優の協働作業によって成立するものである。そのなかでも本作は、この発話をめぐる協働の部分が中心化されていたといえるのではないか。



©神戸ワークショップシネマプロジェクト 『ハッピーアワー』より

「田中功起 共にいることの可能性、その試み」

 このような協働の過程それ自体を映像によって取り出した近年の試みとしては、水戸芸術館で開催された田中功起の個展における新作《一時的なスタディ:ワークショップ#4 共にいることの可能性、その配置》(2015)がある。これは作品化を前提として参加者を募って、6日間の共同生活によるワークショップを開催し、その記録映像をインスタレーションとして展示したものである。
 よく知られるように、田中の初期作品は、物自体あるいは人と物の関係をコンセプトとしたものであったが、《9人の美容師でひとりの髪を切る》(2010)の辺りから、人間同士の関係において生じる協働を主題とした映像作品を手がけるようになる。そして、自らがコラボレーション(協働作業)とコレクティブ・アクト(集団行為)に分類した作品群を、2013年の第55回ヴェネチア・ビエンナーレ日本館にて「抽象的に話すこと 不確かなものの共有とコレクティブ・アクト」と題して展示した。今回の個展にも、日本館に展示された作品のなかから、ひとつの作業を複数の専門家によって集団的に遂行させる作品として、《5人のピアニストで1台のピアノを弾く(最初の試み)》(2012)と《ひとつの陶器を5人の陶芸家が作る(沈黙による試み)》(2013)が出品されている。
 新作《共にいることの可能性、その配置》でも、このコンセプトは引き継がれているのだが、そこで行なわれたワークショップ(「陶芸」、「朗読」★2、「料理」、「ナイトウォーク」、「ディスカッション」)は、行為としての中立性を保ったままに、社会化されているという印象を受けた。それは「社会運動」のワークショップで参加者に読み上げられたテクストが、生活の社会化を主題とするものであったからにほかならない。この10本のテクストは、ファシリテーターの狩野愛によって準備されたものであり、1:平塚らいてう、2:ブルーストッキングス・ソサイエティ、3:ジャンヌ・ドロワンの選挙立候補、4:ハルハウス、5:富山の女一揆米騒動、6:日本生活協同組合連合会、7:第五福竜丸事件をうけて杉並で始まった原水爆禁止署名運動、8:グリーナムコモン基地の包囲行動、9:小平市住民投票におけるどんぐりの会、10:3.11以降の脱原発社会運動を取り上げたものであり、各テクストの朗読の際に掲げられた参照図版が刷られた布は、無数の日用品とともに展示会場内の至る所に掲示され、各ワークショップを撮影した映像作品と結びつけられる。そして、社会的なメタファーとしての一連のワークショップは、参加者・ファシリテーター・学芸員・撮影者(藤井光)・作家本人に対して行なわれた「インタビュー」のセクションによって、その短期的な共同体において発生した参加者間の齟齬の背景にある、内部的な複雑性をあらわにする。



《一時的なスタディ:ワークショップ#4 共にいることの可能性、その配置》 2015-2016 制作風景
6日間の共同生活、ワークショップ、記録映像

社会的なメタファーとしての協働

 「共同作業のプロセスを記録する、ということは「結果」のみを称揚することへのひとつの抵抗でもある」★3 という田中のノートの通り、このような協働の映像記録とは、プロセス自体を分析対象として主題化するものであり、1970年前後の、初期のヴィデオ・アートやフィルムにおけるパフォーマンス記録の背景にあった問題意識、すなわち制作実践の自立化に通底しているともいえる★4
 初期のヴィデオ・アートにおけるパフォーマンス作品の場合、ヴィデオとは長回しによって行為の実時間を取り出して作品化する──あるいは連鎖的な実践を媒介させるための──批評的な道具であった。しかし、そのような過去の美術家のヴィデオ作品と田中の映像作品を比較するならば、大きな違いが浮かび上がる。その違いとは、田中の映像作品に編集の要素が強く介在していることである。田中の映像作品では、ヴィデオの批評的な使用についての関心が示されることはなく、本作でも一般的なドキュメンタリーのような、習慣化★5 された映像編集のテクニックがそのまま踏襲される。このようなスタンスは撮影の段階より明確であり、被写体となるワークショップは複数台のカメラを用いて、異なるサイズとアングルによって、あくまで編集素材として撮影される(時折フレームに入り込む撮影クルーの様子は、まさにテレビ番組の収録か、小規模なドキュメンタリーの撮影のようである)。
 このような田中のスタンスは、映像メディアを記録媒体として捉えたシンプルなものであり、ヴィデオを批評的に用いようとした過去の試みとは切断されている。しかし、習慣化された映像表現は、メディウムとしての映像が観客に意識されないがゆえに限りなく透明な状態に接近してゆき、内容=協働作業のプロセスに観客の注意を集中させるという効果を持つ。このような効果を備えた総計240分以上におよぶ映像を、多数のモニターやプロジェクションによって視聴することになる観客は、一連のワークショップが多義的な読解に向けて、まさに眼前に開示されているように受け止めるだろう。


《一時的なスタディ:ワークショップ#4 共にいることの可能性、その配置》 2015-2016 制作風景
6日間の共同生活、ワークショップ、記録映像

 『ハッピーアワー』と《共にいることの可能性、その配置》は、いずれも社会的なメタファーとしての協働に関わる作品であったと言えるだろう(前者にはそのような意図はなかったかもしれないが)。それらは震災・原発事故を直接語ることを迂回しながらも、抽象化された社会を映像作品のなかで表わす。このようなデリケートな協働によって完成された作品もまた、震災・原発事故以降の映像表現のひとつの傾向と見なすことができるだろう。

付記:だが、そのような傾向は、筆者が冒頭で述べたような映像の交換性とは異なるものである。おそらく映像の交換性とは、首相官邸前での反原発抗議活動やSEALDsのような社会運動の渦中で、インターネットを介して共有される映像によって、芸術的な制度とは無関係に、加速度的に展開されてゆくのが現在の趨勢なのかもしれない。そのように考えるならば、社会学者の小熊英二の監督による、動画共有サイト等の引用映像によって成り立ったドキュメンタリー『首相官邸の前で』(2015)も、一例として挙げることができるだろう。社会運動の只中にある映像の交換の早さに対して、映画や現代美術における映像の交換は遅すぎる。しかし遅いが故に、映画や現代美術が、映像によって社会を抽象化されたモデルとして示すという役割を担っていることも、また可能性のひとつである。


★1──濱口竜介・野原位・高橋知由『カメラの前で演じること 映画「ハッピーアワー」テキスト集成』(左右社、2015)
★2──粟田大輔をファシリテーターとする、この朗読のワークショップのなかで読まれた音声詩については、展覧会場にある解説だけでは全体像が掴みにくいと思われるので、下記のCDを参照のこと。
松井茂『時の声』(engine books、2016)
★3──a piano played by 5 pianist at once (first attempt) アーティストノートを参照のこと。
http://2013.veneziabiennale-japanpavilion.jp/projects/project_04.html
★4──そのような作品の多くは、造形作品を手がける美術家によって制作された(例えば堀浩哉、菅木志雄など)。このような美術家の仕事は、峯村敏明によって、造形媒体を用いた制作に回帰するための一過程として見なされている。
峯村敏明「芸術の自覚」(『美術手帖』1978年8月号増刊、美術出版社、1978)
★5──私はここで「習慣化」という言葉を、三浦哲哉の用法において使用している。
三浦哲哉「二つのリアリズムと三つの自動性 新しいシネフィリーのために」(『現代思想』2016年1月号、青土社、2016)

『ハッピーアワー』

監督:濱口竜介
脚本:はたのこうぼう(濱口竜介、野原位、高橋知由)
製作・配給:神戸ワークショップシネマプロジェクト(NEOPA, fictive
2015/日本/カラー/317分/16:9/HD

田中功起 共にいることの可能性、その試み

会場:水戸芸術館
茨城県水戸市五軒町1-6-8/Tel. 029-227-8120
会期:2016年2月20日(土)〜5月15日(日)

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