フォーカス

未来に向かって開かれた表現──山城知佳子《土の人》をめぐって

荒木夏実(森美術館キュレーター)

2016年09月15日号

 「あいちトリエンナーレ2016」で発表された山城知佳子の新作《土の人》は、圧倒的な存在感を放っていた。映像のクオリティ、演出、展開、スピード、サウンドなどあらゆる面において鮮烈な印象を与え、これまでの山城の作品から一歩先に進んだ、変化と飛躍を感じさせる仕上がりになっていた。突き抜けたパワーをもつこの作品に至った山城の制作活動について、これまでの彼女の作品を振り返りつつ考察する。


山城知佳子《土の人》 2016
展示風景(あいちトリエンナーレ2016)
© Chikako Yamashiro, Courtesy of Yumiko Chiba Associates

沖縄と済州チェジュ島をつなぐ


 自身の出身地である沖縄の歴史や政治をユニークな視点で捉えた作品を制作してきた山城は、2012年に三面プロジェクションのショート・フィルム《肉屋の女》を発表した。海の中から肉塊が現れ、それが消費されていくという設定がきわめて印象的なこの作品において、山城は沖縄を主軸にしながらも、フィクションの手法を用いてより普遍的なテーマにつながる表現を試みている。


山城知佳子《肉屋の女》 2012
© Chikako Yamashiro, Courtesy of Yumiko Chiba Associates

 同じく三面を用いた今回の《土の人》では、より一層フィクションの要素が強調されている。俳優の顔に塗られた泥に似たペイントや彼らが身につける古布やゴザのような素材を用いた衣装によってストーリーの抽象性が増し、見る人は冒頭から、夢とうつつを行き来するこの神話めいた世界に引き込まれることになる。


山城知佳子《土の人》 2016
© Chikako Yamashiro, Courtesy of Yumiko Chiba Associates

 《土の人》は韓国の済州島と沖縄で撮影され、済州島ロケの登場人物は、韓国人の俳優やエキストラが演じている。さらに、詩の朗読が聞こえてくる場面では、日本語と韓国語が入り混じり、三面スクリーンそれぞれに現れる済州島と沖縄の風景は、一見区別がつきにくい。
 山城が済州島と沖縄をロケ地に選んだのは、二つの島の歴史と政治的背景にある共通項に注目したからだ。済州島がかつては耽羅タンラという王国であったこと、1948年に起こった四・三事件で、反共の名の下に多くの島民が虐殺される悲劇が起きたこと、さらに江汀カンジョン村の韓国海軍基地建設に対して住民による反対運動が続けられてきたことなど、本土やアメリカとの関係に翻弄されてきた沖縄の姿と驚くほどの類似が見られる。
 今回の撮影にあたって山城は、江汀の基地建設反対運動に関するドキュメンタリー映画『クロンビ 風が吹く』(2013)を撮ったチョ・ソンボン監督に韓国ロケのコーディネーターを依頼した。チョとの協働が本作の精度を高める重要な要素となったことは間違いない。

批判精神が導く普遍性


 済州島と沖縄という「確かにある場所」を舞台にし、そこに存在する固有の問題を示唆しながらも、先に述べたフィクションの力(それは言語やロケーションの撹乱によって増幅する)を発揮させることによって、山城は「どこでもない場所」、しかしそれゆえに「どこにでもある場所」の物語を立ち上げる。これは多義的な読み取りを可能にする山城作品の魅力であるが、その土台には、彼女が愛しこだわり続ける故郷沖縄を、批判的に観察する冷静な視点が存在すると筆者は考えている。



「翼があるぞ」
「おどろいたか」、と老人が言った。
「ここのみんなが翼をもっている、だが役に立たないからもぎとれるものなら、そうしたかった」
「なぜ飛んでいかなかったんだ?」とたずねると。
「自分の街から飛んで行かなければいけないのか? ふるさとをすてて。死んだものたちや神々も?」★1



 これは《土の人》が上映された会場で配られた紙に書かれた高橋悠治『カフカノート』からの引用で、カフカの詩の一節である。配布物には、7人の日本と韓国の詩人による詩の抜粋が日韓英3ヶ国語で併記されている。(ただし映像自体には字幕がないため、日韓両方の言葉に通じていない限り、音声的体験としては理解できない言葉が耳に入ってくることになる)
 詩に表現された「翼を持っているのに飛んで行こうとしない人々」は、身を寄せ合って地面の上で眠る「土の人」のイメージに重なる。やがて彼らの顔に泥のような鳥の糞が叩きつけられ、覚醒した男が糞の中から聞こえる種の声(詩)に導かれていく。山城は横たわる人々を「あまりにも長くそこにいるうちに目的を忘れてしまった人」★2と表現する。それは沖縄で米軍基地に反対して座り込みをする人々の姿を想起させる。記憶を喪失するほどの長い間、人々の要求が無視されてきたことへの怒りと、身体を張って土地を守り続けた人々への敬意がそこには感じられる。しかし同時に、抵抗が慣習化することによってその本来の意味が失われ、形骸化することへの警告を見て取ることもできる。
 2004年の映像作品《I Like Okinawa Sweet》には、山城自身が次から次へとソフトクリームを舐める姿が映し出されるが、それについて彼女は「米軍基地のフェンスの前で、渡された〝甘いもの〟を延々と食べつづける。それを演じることには意味があります」★3と語る。そこにはアメリカや日本政府から「舐められている」沖縄への同情以上に、目先の利益のために進んでアイスクリームを「舐める」ことへの批判が感じられる。


山城知佳子《I Like Okinawa Sweet》 2004
© Chikako Yamashiro, Courtesy of Yumiko Chiba Associates

 また、《肉屋の女》の冒頭には海辺の再開発工事に従事する地元の男たちが現れる。彼らは「肉」を求めて肉屋に押し寄せ、飽き足らずに遂には女を集団で襲う。粗野な振る舞いが強調された男たちの描写を通して、利益を求めて平然と自然破壊に(無自覚に)加担する行為や、欲望を満たすために弱者を力でねじ伏せる暴力が浮き彫りになる。そこには沖縄で繰り返されるアメリカ兵による婦女暴行事件のイメージが重なる。
 山城は挑発的ともいえる大胆な表現を通して、敵味方、アメリカと沖縄というような二項対立を撹乱し、より普遍的な問題を見る人に突きつける。そこには「被害者」としての安全地帯は存在せず、「加害者」あるいは「傍観者」として見ないふりをする余地も残されていない。それは結果として沖縄をクリシェに陥らせることを阻み、誰にとっても他人事ではない、切実な問題を顕在化させるのである。

★1──高橋悠治『カフカノート』(みすず書房、2011)p201からの引用であるが、会場配布資料ではおもに会話部分を一部抜粋している。
★2──レクチャー「ル・ラボ vol.12:山城知佳子(映像作家)×ナターシャ・ニジック(映像作家)×䑓丸謙(研究者)」アンスティチュ・フランセ東京(2016年6月16日)
★3──「山城知佳子 自作を語る」『循環する世界:山城知佳子の芸術』(ユミコチバアソシエイツ、2016)p.47

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