フォーカス
ようこそ、藤森王国へ
──「藤森照信展 自然を生かした建築と路上観察」
岡啓輔(建築家)/井関悠(水戸芸術館現代美術センター学芸員)
2017年04月15日号
対象美術館
藤森照信は建築史家として日本近代建築を研究するかたわら、80年代に赤瀬川原平らと路上観察学会
、縄文建築団 を結成し、自由な発想とユーモア、現場の行動力とで「建築」の間口を世にひろく開いた。建築家としてデビューしたのは44歳のとき。それから今日まで、奇想天外な風貌、なおかつ周囲の環境との調和、そして自然素材を斬新に取り入れる手法で、比類なき建築家として40余りの作品を生み出してきた。現在、水戸芸術館で卒業設計から近作《ラ コリーナ近江八幡》、路上観察学会の活動を網羅する展覧会が開催中だ。セルフビルドで鉄筋コンクリートの自邸《蟻鱒鳶ル》 を10年以上かけてつくっている岡啓輔さんといっしょにこの展覧会に乗り込んだ。担当学芸員の井関悠さんに案内していただきながら見た藤森照信展をレポートする。(artscape編集部)藤森建築の嘘つきな「自然」
───第1室は公共建築がテーマですね。
井関──これは《神長官守矢史料館》で、1991年の処女作ですね。
岡──この壁面に板を割ったのを使っているのがすごい……。
井関──これはのこぎりで挽いたものではなくて、全部昔の杮葺きの方法でつくられています。
岡──木の防水性を高めるには、ノコで切っちゃダメなんです。繊維に沿って割ると一番水を吸わなくなるから。杮葺きだと腐らない。藤森さんはやはり学者さんとして日本中を見て回っていて、こういうことを知ってらっしゃるから、するっと使われるんですよね。しかもこの技術を持つ職人さんがギリギリ生きておられた。いいなあ。
井関──もともと杮葺きは板を薄く割って積層させる屋根材ですが、ここでは壁でその技術を使われている。もともと杮葺きはコストがかかるので普通の家では使われなくて、だいたい茅葺きなんです。それをさらにこんな長い板にしてしまうというのは非常に贅沢なつくりなんです。
岡──こういう階段を藤森さんがデザインされてびっくりしました。土を土として使っていない。これは接着剤まぜまくりです。
井関──じつはこれはコンクリートなんです。土色のモルタルに藁を混ぜ、固まる前にその上に土をふきかけて、土っぽさを出しているんです。
岡──何か別の方法で「土っぽさ」を出すことに全力ですよね。偽物っぽい技術だなあと思うんですが、これを見るとしっくりきますね。
井関──藤森さんって結構、一見自然素材を使っているように見えて、そうではないところがある。
岡──そこがびびりました。赤瀬川さんの家(《ニラハウス》1997)もそうですね。鉄骨でつくっておいて外側を木で張る。そこで発想がジャンプできてるのがすごいと思う。
井関──じつは近代的な建築の技術を普通に使っているんですよね。
藤森さんの言う「自然との調和」とは環境に優しいとかそういうことではなく、いかに環境の中に建築をとけ込ませるかということに意識を向けているかという気がします。
岡──《空飛ぶ泥舟》(2010)も、宙に浮いてて動くほうの下の部分に土を塗ってて、藤森さんは平気でそういうことをやっちゃうんですよね。
説明しない模型
───第3室は木彫の模型がありますね。
岡──これは藤森さん自身がつくったんですか?
井関──今回は藤森さん自身がつくられたものをお借りしてきています。そうでないものもあるんですけど。藤森さんは、設計の段階で施主に模型を見せてどういうものをつくろうとしているかという説明はいっさいしないんです。模型は展覧会によばれた時に仕方なくあとからつくるとおっしゃっていました。すでに建っているものの模型をつくる。スケールとかプロポーションはまったく関係ないんです。ほとんどチェーンソーとのみとでつくっていますね。
岡──僕はまだチェーンソー使い慣れていないんです。羨ましいなあ。
井関──だいたいが一木でつくられているので、つくり方は彫刻と同じでしょうね。
岡──なんだか藤森さんの作品見てるとニヤニヤしちゃいますよね。藤森さんはそこを正確に狙っていますよね。みんなが共有して、このフォルムにはニヤッとしちゃうし、「かわいい」と思っちゃうのを分かってやってる。
井関──でも以前どこかに藤森さんが書いていたんですけど、「かわいい」と言われると腹が立つと(笑)。
岡──(笑)でもこれは狙ってやってますよ。でも同時に、やはりある種の不気味さとか、怖いなとも感じますね。「かわいい」のギリギリのところで踏みとどまっているのかもしれない。
文明の終わりからの視点
───第5室は「未来の都市」とありますが……。
岡──何ですか? この怖い模型は。東京タワー倒れてるし。
井関──これは東京オペラシティアートギャラリーで開催された「藤森建築と路上観察」展(2007) のときに展示されたものです。地球温暖化で陸側からは砂漠が押し寄せて、海側は海面が上昇して東京が沈没してしまった。人間が生存できる環境がどんどん狭まっていくという状況を考えた都市模型ですね。
藤森先生は人類が建てた最初の建築はスタンディング・ストーンだとよくおっしゃっていますが、まさにこの模型のなかにある建造物はそれですよね。スタンディング・ストーンは死者の魂を太陽に送るための発射台だと。藤森さんの故郷の諏訪神社の御柱もそういうものですよね。
井関──別室のスケッチを見たあとでこの卒業設計を見ると、同じ人が描いたとは思えない細かさですよね。このころ藤森さんは磯崎新さんやアーキグラムの影響を受けていたようです。まさに《ウォーキング・シティ》(アーキグラム、1964)ですね。
藤森さんは東北大学の学生時代は広瀬川の近くに住んでたようです。そのころは四日市ぜんそくや水俣病などが公害問題として取り上げられても、まだみんな川の汚染についてはそんなに意識していなかった。でも、そのときに藤森さんは汚れていく広瀬川を見て、自然環境をどう回復させていくことができるかを考えていた。この二枚目の図面を見ると、仙台の街が廃墟になっているんです。これは廃墟のあと、自然の回復が訪れるまでのあいだの建築なんですよ。
岡──藤森さんは歴史家としてずっと先まで見通しているんですね。このままいくと地球温暖化がすすんで、いま、エラそうにしている文明が滅んで、だいたいこんなふうになるんじゃないか。その反省からの視点がある。
井関──この卒業制作から現在まで通底しているものがありますね。
岡──これは《空飛ぶ泥船》(2010)と同じ、下からワイヤーで持ち上げる構造ですね。
井関──同じ構造ですよね。卒業設計が1971年、その40年後に実現したことになります。