キュレーターズノート

冨井大裕(MOTアニュアル2011:Nearest Faraway|世界の深さのはかり方)

住友文彦(キュレーター)

2011年07月01日号

 ここ数年のあいだ、冨井大裕はおそらくもっとも多くの人の目に付く活動をしているアーティストではないだろうか。ほとんど場所を選ばないと言っていいくらい、自由自在に素材と空間を使いこなしているように見える。しかし、この癖のないホワイトキューブ的な空間を使ったグループ展でも、彼の作品は際立っていた。むしろ、展示する空間や鑑賞者の視点とのあいだに作り上げられる緊張感が感じられ、それは以下のような彼の作品の特徴に眼を向けさせた。


「MOTアニュアル2011:Nearest Faraway|世界の深さのはかり方」
(東京都現代美術館)展示風景

 まず彼の作品は、使われている素材が日常のありふれた物であるため、〈自然〉ではなく〈文化〉を扱う20世紀後半の美術史における大きな転換以降の文脈にすぐ結びつけられる。もちろん、美術の歴史的な経緯を無視したとしても、それが特別な素材ではなく、どこでも手に入る大衆的なもの、という直感は誰でもおぼえるはずだ。その大きな流れは、ポップ・アートから、マッピングやドキュメント制作的な手法を多用するアーティストの民族誌家的な身ぶりへと展開してきた。そうした1990年代以降の多文化主義的傾向において強調される「日常」は、インスタレーションによる作品展示に結実することが多い。しかし、日本で冨井の作品に関心が向けられる理由は、作品を構成する素材が「日常」に位置するものであるにもかかわらず、モダニズムの形式主義が亡霊のようにまとわりついた彫刻を想起させてくれるからではないだろうか。シュルレアリスムの最盛期に他者性よりも「物(オブジェ)」を重視し、行為や知覚との関係から「もの」の概念を掘り起こし、ニューウェーブによって「日常」と結びついた日本の戦後美術の歩みを引き継いでくれるような存在として受容されているようにも見受けられるのだ。
 とっくの昔にメディア=スペシフィックな作品からディスコース=スペシフィックな作品へ移行してしまった同時代的な美術の動向に同調しきれない国内の美術関係者にとって、ある意味で中庸作用を持つ対象と見なすこともできるが、はたしてそれでいいのだろうか。むしろあえて、「彫刻的」な作品として解釈することを積極的に回避することを考えてみたい気がするのである。その理由は、今回の展示を見たときに、冨井の作品には決まった大きさがないように感じたからである。正確に配置の規則を決められた素材は、その規則を反復することで自由に大きさを変えていくことができる。目の前に現われるものは「ひとつの」形を持っているが、反復の回数によって大きさは可変に違いないと思わせる。この積極的に示されるわけではなく暗示されるようなモデュール性は、コンピュータ・グラフィックに大きさがないことを参照すれば理解してもらえるように、私たちの生を管理統制する情報システムの特徴と同じものである。もはや、反復が始まる出発点を問うのが無意味なように、オリジナルを欠いたまま増殖することが可能な情報、そして「日常」の物たち。それが与える印象は、有機的な形と不安定さを感じる点が異なるが、サラ・ジーやタチアナ・トゥルーヴェなどの作品にも相通じるような、正確な配置とおそらくそれゆえの軽やかさが感じられる。
 それを過剰に増殖させることで身体や技術が強調されるのではもちろんない。しかし、平易な技術とありふれた物を使うことで、それを見る誰にとっても実践可能な行為であると示唆することで、作者と鑑賞者が部分的に入れ替えも可能かと思えてしまう。この時点で、すでに冨井の作品はコンセプチュアル・アートにむしろ近いという感覚を強く持つ。つまり、その軽やかさは、作者という特権性をはぎとったフルクサス以降の系譜に由来するものではないだろうか。 


冨井大裕《ball pipe ball (2 stories)》2010
硬式野球ボール、単管パイプ、単管クランプ
220×356×356cm


冨井大裕《ball sheet ball》2006
スーパーボール、アルミ板
87×60×30cm
すべて撮影=柳場大

 現代へと至る芸術の歴史はアートをテクネー(技術)と切り離し、自然や神を描き出す技術や新しい技術を重視するのではなく、固有な考え方の交換を重視する。そのために芸術に自立的な場を用意したのがモダニズムだったが、それを批判的に乗り越えてきた現在のアートは写真や映像を使って生を直接的に扱おうとする傾向が圧倒的に強い。そこには、ハル・フォスターが論文「民族誌家としてのアーティスト」(1996)で指摘したように、アート・ツーズムとの親和性や、対象への過度な同一化などの問題点が存在する。そのとき、フォスターは旧来の専門領域の記憶を霞ませないようにと警告をするのだが、冨井はメディウム間に生まれる距離や、生が基盤を置く日常と芸術との距離を独自の方法で獲得することで、歴史的に積み上げられてきた言説(ディスコース)にも居場所を持ちえているように思える。
 もちろん、こうした欧米で積み上げられてきた言説に対応した美術のあり方を拒否して地域に固有の表現を称揚する傾向が、国内には強くあり、また多文化主義の名のもとで欧米にも存在する。それは、伝統芸術に通じる細かい手仕事的なテクネー、あるいは「メディア芸術」と呼ばれているもののことだが、それが美しいとか、凝っている、面白い、と感じることは私も含めておおいにありえても、ファインアートが出発点においてアート=テクネーとは切り離されたことと、その後の言説の積み重ねに背を向けることはできないはずである。なぜなら私たちはそこに西欧の芸術固有の問題を見いだすだけではなく、芸術の感性的な媒介作用を通じて他者との共存に向けた人類の挑戦を見いだすことができるからであり、それゆえに同時代の美術作家の実践をそのなかへと差し向けることには大きな意味がある。

 メディアや美術の歴史といったコンテクストに冨井の作品を置き直す可能性をここでは挙げてみたが、批評はもっと別の方向へ彼の作品を誘うことも可能だろう。冨井の作品をどのようなコンテクストに置くと考えるかは、当然語り手が自覚的にせよ、無自覚にせよ、自分の立場に引きつけることになりがちである。そのときに、共有しえる議論の基盤として、こうした内外の言説の積み重ねがある。しかし、現在は圧倒的にその力が失われてきているように思う。その貧弱さには致命的な問題を感じることがあり、理由はおそらくジャーナリズムの問題だけでなく、批評すべき人がみな、美術館や大学で働いているためとも考えられ、そうすると関係者の多くが公的機関に属して議論が起きづらくなった原子力村と同じ構造にみえてくる。冨井をはじめ、多くの人が関心を持つ作品が、こうした閉塞的な状況を打ち破り、多様な解釈の重ね合わせを産み出していくことに期待したい。

MOTアニュアル2011:Nearest Faraway|世界の深さのはかり方

会期:2011年2月26日(土)〜5月8日(日)
会場:東京都現代美術館
東京都江東区三好4-1-1(木場公園内)/Tel. 03-5245-4111

学芸員レポート

 前回の記事でお伝えしたように、照屋勇賢が震災を報じた新聞紙面から雑草の芽が立ち上がってくる作品を前橋市のアーティスト・イン・レジデンスで制作したが、それをきちんと展示できることになった。また、同時に冨井大裕にも、美術館建設予定地である百貨店の跡地で作品展示をしてもらう。どちらも、ギャラリーの展示空間ではない場所を使うことになる。
 また、nichido contemporary artでは6月24日から木村太陽、豊嶋康子、橋本聡、ブラッドレー・マッカラム&ジャクリーヌ・タリーによる企画展を行なう。それぞれが異なるタイプの作家だが、正確さと堅固さが貫かれつつも私たちの考え方や認識をひっくり返すような転覆力を持っている。震災前から準備されてきた企画ではあるが、あらためて芸術が持つ力について3.11以降に考えたことを、敬愛するイタロ・カルヴィーノの言葉を借りながら短文にしたので、4組のアーティストの作品と一緒にぜひ鑑賞していただけたらと思っている。

前橋市における美術館構想

URL=http://www.artsmaebashi.jp

identityVII:ゆっくり急げ|Festina Lente

会期:2011年6月24日(金)〜7月23日(土)
会場:nca | nichido contemporary art
東京都中央区八丁堀4-3-3 B1/Tel. 03-3555-2140