キュレーターズノート
李禹煥「無限の提示」、ライアン・トラカートゥン「エニィ・エヴァー」
中井康之(国立国際美術館)
2011年09月15日号
この6月〜8月は10月にオープンする担当展の準備を中心としてスケジュールが進行したため、通常のフィールドワークを行なうことはほとんどできなかった。そのようななかでも、来年度に予定されている展覧会の出品交渉も兼ねた作品調査を行なうためにミネアポリスのウォーカー・アート・センターとニューヨーク近代美術館を訪れる機会があった。
特にニューヨークでは半日時間を空けて、グッゲンハイム美術館での李禹煥個展を訪問することができた。同展は、今年の初めに本サイトで2011年の美術にまつわる関心事として取り上げていた展覧会でもあるので実見する機会に恵まれ、正直、少し安心した。ただ、そのときに報告した、当館からの立体作品の搬送は、残念ながらやはり輸送費等の問題で実現しなかった。ただし、その作品《関係項》は再制作されている筈であるので、その状況を確認するためにも実見する必要性を感じていた。
6月のオープニングに参加した人からは、螺旋形状になった展示空間と李禹煥作品との関係を問題視するような意見を聞いていた。もちろん、その二者の関係が難しいことは言うまでもないことで、展示する立場から考えれば、与えられた場所で、自分がいま紹介しなければならないと思う対象を、最高のパフォーマンスによって鑑賞者に提供することを考えるだけであろう。さらには、今回の展覧会の企画者、アレクサンドラ・モンローにとって、このような難しい状況であるからこそ、挑戦する意味があると判断したかもしれないし、なにより、ニューヨークの5番街で優れた東アジアの作家を紹介することに大きな価値を見出していた筈である。
以上のような経緯で、あの白く巨大なカタツムリのような建物に向かったのである。会場は、予想以上に鑑賞者が多く、その多くはフランク・ロイド・ライトの建築物を見に来ているのかもしれないが、円筒の建築物の中央吹き抜けから自然光が降り注ぐような構造となったフロアに、鉄板と石を用いた《対話》という作品が設置され、ごく自然に、この作家の作品世界に入り込めるようにしていたのは、正攻法であり、成功していた。その作品は、中央の鉄板2枚が上のほうで合うような状態で自立しているように見える作品で、結界もないような展示は危険であるようにも感じたが、そのようなものをなにも置かないことによって、作品はこの空間を支配し、フランク・ロイド・ライトの建築物を見に来た鑑賞者に対しても、極めて自然に、この東洋的な世界を具現化した(という形容がおそらくはもっとも相応しい現代の作家だろう)世界へと導いてくれる仕組みになっていた。
展覧会の内容は、大規模な個展であり、代表的な作品を集めているのは言うまでもないが、いくつかの巨大な立体作品を、韓国、ドイツ等から輸送し展示していたことに対しては畏敬の念を抱かざるをえない。冒頭でも述べたように、当館で所有している作品は輸送が適わなかったため再制作が為されていたのであるが、それはやはり同じコンセプトの異なるヴァージョンとなり、なにより、石も鉄も新しいことが、韓国やドイツから運ばれてきた立体作品と比べると、そのエージングされた石と鉄の持つ雰囲気の違いを認めざるをえないのである。
今回の展覧会で、特に注目したのは初期作品の掘り起こしである。「もの派」と呼称されるようになった作家たちと共同歩調をとるようなかたちで発表した作品と、李禹煥という個人の作家の関係性を問うためには、その初期の、特に60年代に制作された作品を精密に研究していく必要があると考えているのだが、その研究対象となるような、貴重な、珍しい作品をいくつか見ることができた。
さらに、私にとって、今回の展示でもっとも衝撃的だったのは、座布団の上に石が置かれたものが展示室に複数個設置された《関係項(元題:言葉)》という作品と出会ったことであった。それは、1971年に東京のピナール画廊で最初に展示された作品で、写真資料では度々目にしていたが、注目することは、正直あまりなかった。李禹煥の立体作品の素材としてよく知られているのは、鉄と石という組み合わせだろう。李自身のエッセーによっても、それは人工物と自然界を表象したもので、その対比はわれわれの現世界を象徴したものであった筈である。あるいは、より初期の作品では、鉄と綿を用いて、比重が軽い綿に、鉄板や石が浮いているような、もの派という運動体がトリッキーな表現を介して現われた(例えば、関根伸夫の《位相》作品シリーズ)名残を留めるものがあった。座布団と石、という組み合わせは、その移行期にあたる中庸な作品と判断して、見過ごしてきたかもしれない。しかし、作品はやはり作品そのものを見たうえで考察を始めなければならないというあまりも当然の事実を、この作品と出会うことによって突き付けられたのである。それでは、その意味はなにかという設問に対して、いま回答を用意できているわけではない。大きな疑問符をともない、その作品が脳裏に焼き付いたという状況を説明するしかないのである。
さて、ニューヨークに滞在した時期に見ることのできた展覧会で記憶に残ったのはニューヨーク近代美術館のPS1分館で開催されていたライアン・トラカートゥンの大規模な個展「エニィ・エヴァー」である。キッチュでポップな色彩の家具に囲まれて、ソファに座りながら、前面に映写される、トラカートゥン自身も演じるビデオ作品を見るというようなタイプのビデオ・インスタレーションが7つの部屋で展開されており、そのビデオの内容は女装したトラカートゥンのどぎつい化粧が次々に変化し、それに呼応するかのように周囲の人物や風景が視覚的な変化を起こすような内容で、室内にはラップ系の音楽が静かに流れているのだが、ソファのそばにヘッドフォンがあり、それを耳にすると聞こえてくるのは、そのビデオの内容に合わせるかのような早口で、それこそタイトルの〈Any Ever〉のような意味のない単語を繰り返すような強烈な音声である。その過剰感は、ロールプレイングゲームを超高速で処理するゲーマーのプレイを体感するような不思議な高揚感をもたらすものだった。