2017年06月15日号
次回7月3日更新予定

キュレーターズノート

岡本光博「UFO after / 未確認墜落物体 その後」、島本了多「生前葬」、天神洋画劇場 伊藤隆介の「フィルム・スタディーズ」

工藤健志(青森県立美術館)2016年07月01日号

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「個」に縛られた現代人を解き放つ

 続いて東京。神楽坂のeitoeikoで行なわれた島本了多の「生前葬」。もちろん個展の名称である。初日のパフォーマンスには残念ながら参加することは出来なかったが、会場で流されている記録映像には破天荒な行為を行なう島本の姿が映し出されていた。陰毛を含め体毛をすべてそり落とした自らの身体を約2000枚の絆創膏で覆い尽して白い敷布に横たわり、僧侶が供養を行なう。その後、多くの人達の手で絆創膏の殻が剥ぎ取られ、見事復活を遂げるという祭儀的パフォーマンスである。


島本了多《絆創膏の男》(「生前葬」展)パフォーマンス風景
画像提供:eitoeiko


 もちろん展示も葬儀の場を連想させるもので、パフォーマンス終了後の死床には《ネバイバー》という涅槃像が横たわる。その正面には祭壇が設けられ、島本自身の顔から型取られた骨壺や、体の一部をモチーフにした陶器が並ぶ。香炉の中には島本の10年分の切られた爪(しかも丁寧に両手足分の4つに分けられている)が収められている。下の写真にあるように、壁面には掛け軸が何本か吊られており、山水風の自画像(?)や「自分以外じゃないから自分」という言葉、一番左のようなもはや解読すら不可能な記号が記された、お世辞にも上手いとは言えない、むしろ「ヘタ」としか言いようのない書が並ぶ。その脇には筆そのもの展示されていて、なるほどこの筆を使ったのかとよく見てみると、それぞれ「毛髪」、「鼻ノ毛」、「上口髭」、「下口髭」、「顎髭」、「右脇毛」、「乳ノ毛」、「陰毛」、「尻毛」と記されている。左脇毛はパイパンなのか? という素朴な疑問はさておき、「意外と乳の毛長いなあ」とか、「陰毛ってそんなにカールしてないのね」とかどうでもいいことばかりをつい考えてしまう。そして極めつけは《俺の汚染水》。某清涼飲料水のペットボトルに入れられたものは予想どおり、島本の尿である。自らの身体とそこから生じるもの、さらに自らの身体が生み出す老廃物に対する島本の異常な固執ぶりがヒシヒシと伝わってくる作品群である。


島本了多「生前葬」展示風景(eitoeiko)
画像提供:eitoeiko


 島本は葬儀をすればそれ以降死を考える必要がないという想いから今回の展示を構想したと言うが、絆創膏にくるまれた島本の亡骸は、即身仏でもミイラでもなく、仮死状態の「蛹」のように感じられた。それは「個」という制度をいったん解体(葬送)し、「人類」という共同体の中へ自らを溶解させていく試みではなかったか。われわれは、かつて生を営んだ無数の死者たちの生の体験、記憶を継承して存在する。その意味で人は死んだ後も永遠に生き続けている。《ネバイバー》は本展のための新作ではないものの、もともと「生」の限界を乗り越え、島本が言うところの「超現実世界」に生きるための装置であり、「生前葬」というコンセプトとも合致する作品である(寝転がって壁付けのモニターを見ているという不遜さ! そのモニターには島本の口内炎が生成/生〜消滅/死を無限に繰り返す映像作品《点滅》が映し出されている)。今回の島本の死と再生のパフォーマンスは、自らの精神にベタリと張り付いた身体とそこから生じる欲望を、過去から現在に連なる人間の営みへ結びつけていくこと、すなわち客観化することにその重要な意味があったように思う。個的なものを社会へと登録していくことを「個の死」と捉え、それと引き換えに普遍性、永遠性を得ていくための儀式。考えてみれば、ナルシズムもフェティシズムもその裏には常に死の影がつきまとう。切られた爪や剃られた体毛、そして排出された尿……、生の側から分断された死せるオブジェへの偏愛は、性的倒錯ではなく、常に死を意識しながら生を送る我々の意識の奥底に眠るネクロフィリアの現出である。ゆえに、島本はそれらを「死なない」ためのフェイズへ移行させようとするのだ。「自分以外じゃないから自分」という書もその表現の優劣を問うべきではなく、「個」というものに縛られた「自ら」と「現代人」に対する「自戒」と「警告」の言葉として解釈すべきであろう。こうした発想はある面で仏教的(伝統的)と言えるし、ある面では非常に現代的でもある。そもそも個的なものに深く根ざした作品は、外的な変化を受けても揺らがない高い自立性を持つ。それを死に追いやることで普遍化した「俺」は、まさに島本が言うところの「無敵状態」へと到達したのである。
 島本の地頭の良さは彼と一言言葉を交わせばすぐに分かることだが、ひとつの問いに対するその直感的で素早い反応は、常に非論理的ながらも常に魅力的である。この思考の飛躍こそが作品の妙味にもつながっていると思うので、参考までに会場内でのエピソードを披露しておこう。 
 僕は島本から会葬御礼として1/144「ボール」を受け取った。え? なぜにガンプラ? さらに同じものをどうして3個も?? しかも、これ1980年代に発売された旧キットじゃん! そして、渡された直後の言葉は、「俺の本質ってレズだと思うんすよ!」。……島本了多、行く末恐ろしい作家である。

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工藤健志

1967年生まれ。青森県立美術館学芸員。企画展=「縄文と現代──2つの時代をつなぐ〈かたち〉と〈こころ〉」「ラブラブショー」「ロボットと美術...

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