キュレーターズノート

古都祝奈良 川俣正「足場の塔」と宮永愛子「雫─story of the droplets」

中井康之(国立国際美術館)

2016年10月15日号

 近年、国内に於けるアートプロジェクトの開催数は確実に増えているようだ。客観的な統計等に基づいて述べている訳ではないので感覚的な物言いになるが、現在近畿圏で実施中のアートプロジェクトを取り上げてみても、「六甲ミーツ・アート 芸術散歩2016」(9/14〜11/23)、「国際芸術祭BIWAKOビエンナーレ2016〜見果てぬ夢〜」(9/17〜11/6)、「奈良・町家の芸術祭 はならぁと 2016」(10/1〜10/31メイン会場)と三つ巴であり、隣接地域に目を向ければ、「岡山芸術交流 OKAYAMA ART SUMMIT 2016」(10/9〜11/27)や「瀬戸内国際芸術祭 2016」の秋会期(10/8〜11/6)等、国際展級のアートプロジェクトも実施されている。

アートプロジェクトを支えるボランティア

 このように、アートプロジェクトが頻繁に行なわれるようになったのは、2000年から実施されている「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」の運営の成功例等が先駆けとなった面があるだろう。同アートプロジェクトが成功を収めたのには様々な理由があると思われるのだが、コンテンポラリー・アートという訳が分からないと一般的に認識されているものを、農家を中心とした越後妻有地域の住民が受け入れ、アーティストがその地で不自由なく制作を遂行し、さらには広域にわたる展示場所での維持運営を行なう等、様々な状況に於いてこへび隊と称されるサポーターが果たした役割がとても大きかった、と伝え聞いている。このようなボランティアの文化というものはかつて日本には無かったと思われるのだが、1995年の阪神・淡路大震災の被災地に於いて自然発生的に生まれたボランティア活動がその発端となってこの国にも広まったようである。そのような災害時に於けるボランティアとアートプロジェクトのサポーターとの直接的な関連性は不明だが、時期的なことを考えると符丁が合うようでもある。いずれにしてもアートを受け入れる側の体制が整うことによって2000年以降、コンテンポラリー・アートという対象を紹介するアートプロジェクトが次第に社会的に受容されることになってきたのであろう。

東アジア文化都市がとった「シルクロードの終着点」というストーリー

 今回、ここで取り上げる2作家の作品も、上述してきたようなアートプロジェクトに参加して発表した作品である。公式には「東アジア文化都市2016奈良市」という枠付けの中で中心となるプロジェクト「古都祝奈良ことほぐなら─時空を越えたアートの祭典─」(9/3〜10/23)で発表された作品である。会場となる地域や会期が前述した「奈良・町家の芸術祭 はならぁと 2016」と重なり紛らわしいのだが、この「東アジア文化都市」というプロジェクトは、2011年の「日中韓文化大臣会合での合意に基づき,日本・中国・韓国の3か国において,文化芸術による発展を目指す都市を選定し,その都市において,現代の芸術文化や伝統文化,また多彩な生活文化に関連する様々な文化芸術イベント等を実施する」(文化庁ホームページ)という官主導の事業である。2014年に横浜市で開催され(中国は泉州市,韓国は光州広域市)、2015年には新潟市で開催されている(中国は青島市,韓国は清州市)。横浜市では「ヨコハマトリエンナーレ2014」の会期とも重なり、独自の他の大規模なアートプロジェクトは開催されなかった。新潟市でも、「水と土の芸術祭2015」(やはりトリエンナーレ展)をサポートするかたちになっていた。先に完全に官主導と記したが、横浜市と新潟市に於いては、既に地元で実施され地元住民に受容されているアートプロジェクトを補助するようなかたちとなり、「東アジア文化都市」という名称が前面に出ることはなかった。よって、今回の奈良市に於ける「東アジア文化都市」のアートプロジェクト「古都祝奈良」は、奈良市にとっても「東アジア文化都市」という事業にとっても、初めての試みということになった訳である。
 もちろん、大規模なアートプロジェクトが容易に開催できる筈もなく、奈良市は、「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」や「瀬戸内国際芸術祭」といった大規模なアートプロジェクトを成功裏に納めてきた北川フラムにその運営を委託している。とはいえ、多くの大規模なアートプロジェクトを見事に運営してきた北川自身にとっても、これまで実施してきた地域と、奈良という歴史的な意味を持つ地域との違いは意識せざるを得なかったことと思われる。奈良市は、1998年に東大寺などの6つの寺社や平城宮跡などの史跡等による「古都奈良の文化財」が「世界遺産」として登録されて以来、より多くの観光客を迎えていたと思われる。その動勢は近年の訪日観光客の増加に伴いより増加しているだろう。要するに、アートプロジェクトによる地域振興の役割は、奈良に於いてはあまり高くないということである。そこで北川はストーリーを設けた。「シルクロードの終着点」としての平城京という1300年前の日本の首都に、その当時に創建された寺社、それらは「世界遺産」として登録された、を舞台に、シルクロードの通過点となった国々、韓国、中国、インド、イラン、シリア、トルコの作家たちに作品を発表させるというフレームである。ここにそのラインナップを記載しておこう。東大寺×蔡國強(中国)、春日大社×紫舟+チームラボ(日本)、興福寺×サハンド・ヘサミヤン(イラン)、元興寺×キムスージャ(韓国)、大安寺×川俣正(日本)、薬師寺×シルパ・グプタ(インド)、唐招提寺×ダイアナ・アルハディド(シリア)、西大寺×アイシャ・エルクメン(トルコ)。それぞれの作家がシルクロードと自らに舞台として与えられた寺社の特徴を捉えようとした作品を発表していた。例えば蔡國強は、《“船をつくる”プロジェクト》というタイトルによって、その当時日本海を往来していた木造の帆船を再現するプロジェクトを実施し、学僧たちが集っていた往事の東大寺を象徴するような作品を実現したのだろう。


左:蔡國強《"船をつくる"プロジェクト》 撮影:平岡雅之
右:キムスージャ《息をつくために—国旗》 撮影:木奥惠三


 しかしながら、その帆船が制作されたのは3月後半ということで(「東アジア文化都市」自体が開幕したのは3月26日)、アートプロジェクトとしての「古都祝奈良」が始まった9月3日の半年近くも前のイベントであったことも加担し、東大寺大仏殿を臨むことができる鏡池に浮かぶ木製の帆船は、残念ながら東大寺の境内の風景の中に埋没し、多くの観光客は、そこにアートプロジェクトによる作品が在るどころか、そう大きくはない池に木製の帆船が浮かんでいる光景に気付くことはなかったであろう。今回のアートプロジェクトに対する観光客の無関心な態度は、鑑賞者参加型のチームラボによる作品はともかくも、総じて低かったと言わざるを得ないだろう。

アートプロジェクトの異相

 もちろん、このアートプロジェクトが低調であったということを言い立てるために本稿をここまで綴ってきたわけではない。逃れようのないフレームによってコンセプトが規定された今回のこのようなプロジェクトにおいても、自らのコンセプトに沿うかたちで、しかも新たな試みを仕掛けた川俣正の作品をまず取り上げたかったからである。これまで川俣が連綿と続けてきた仕事が、このような形で展開する余地があったことに正直驚いたのである。


左:川俣正《足場の塔》
撮影:木奥惠三


 川俣が舞台とした大安寺の創建は藤原京の時代にまで遡り、平城京遷都に伴って移転した当時は大伽藍の中に東西に七重の塔が建つ、東大寺や興福寺に並ぶ大寺院であった。しかしながら平安時代末期の火災等によってその多くが失われ、現在残っているお堂は近世に再建されたもので規模も著しく縮小しているという。しかしながら、現在の境内から離れた場所となった東西の塔跡地周辺は国の史跡として存在している。川俣はその東塔跡に隣接する空き地に、かつてそびえ立っていた七重塔を建てていた当時の状況を再現するかのように、「大陸から寺院建築が伝わった当時から現在まで使われている丸太足場の技術を用い、奈良県産材の丸太を使用」して、22メートルにも及ぶ足場を作り上げたのである。我々は過去の川俣の仕事が、平城京の時代に中国から伝わった技術に由来するものであるかもしれないことに気づき密やかな悦びを覚えると共に、川俣の今回の仕事が、極めて自然に、中国へと繋がるシルクロードと称される文化伝播の流れに思いを馳せることになるのである。


左:川俣正《足場の塔》(真下から)
撮影:木奥惠三


 北川の仕掛けたプロジェクトは、以上の様な大寺院で展開されたプロジェクトのみならず、異なるレベルの作品群も用意してあった。それは、奈良の人々の日常的な暮らしを偲ばせる民家を舞台としたインスタレーションである。そのような構成は「古都祝奈良」アートプロジェクトだけで考えるならばバランスの取れたものと受け止めることができたかもしれないが、先に述べたように、奈良県内の隣接した地域で、同時期に地域振興タイプの同様のアートイベント「奈良・町家の芸術祭 はならぁと 2016」が開催されているためにその効果は半減していたと言わざるを得ないだろう。
 しかしながら、そのような状況の中でも、川俣と同様に、自らの作品コンセプトを維持しながら、奈良の人々の日常的な暮らしを偲ばせる場所を見事に活用しながら、新しいスタイルを獲得していったのが宮永愛子によるインスタレーションであった。


北風呂町の倉庫
撮影:木奥惠三


 宮永の作品コンセプトは当初から一貫して時間をテーマとしている。我々の多くが認識している時間の概念は、直線的で不可逆的なものではないだろうか。だが、宮永の作品が表し出す時間の概念は、円環を描くような独自な解釈に基づくものなのである。例えば、宮永の初期作品に、ナフタリンによって作られた靴の作品《まどろみがはじまるとき》(2003)がある。白い半透明な靴はシンデレラのガラスの靴をイメージさせる。アクリルケースに入れられたナフタリンの靴は、靴の形態は崩れながらも、ケース内にナフタリンの結晶が付着して美しく光るのである。その変容した姿は、汚い身なりをした娘が、魔女の魔法によって美しく着飾った姿を象徴するだろう。そして、時が経つと共に消えた衣服とは対象的に魔女から与えられたガラスの靴が残り、それを介在して王子と結ばれるという物語なのであるが、宮永のガラスの靴は崩れ、それが美しい姿へと変容しているのである……。


宮永愛子《雫—story of the droplets−》
撮影:木奥惠三


 上記の様に、常温で個体から気体に昇華する特性を持ったナフタリンの様な、物質を用いて時間を自由に操るような表現を行なってきた宮永が、今回の奈良の町中で表現する場所として用意されていたのが、ほとんど廃屋のようになっていた染物屋の倉庫であった。蔦に覆われ尽くした倉庫の内部はさまざまな道具で埋め尽くされていたという。宮永は、大正から昭和初期まで染め物を乾燥させるために使われていたその倉庫から、当時、その作業に使われていたであろう木製の道具や、染料を定着させるための溶液が入った大瓶等を残して取り出した。宮永は、この場所に閉じ込められた時間を表わし出すために、露わになった土の床に白い反物を敷き、水滴を落とし、土の床に封じ込められていた染料を掬い取るような作業を行なった。さまざまな色素が仄かに染まった反物を天井に干して、この場所で封じ込められていた時間を解き放ったのである。

 川俣と宮永の扱う時間は異なるものの、奈良という土地に於いて、歴史的な時間の流れと、人々の暮らしの中で刻まれてきた時間が、どちらも芸術作品として見事に形象化されていた。アートプロジェクトで体験する作品がともすると一過性のものとして捉えられる面があるかもしれないが、地域振興という目的が最上位には出てこないであろう、奈良市のような歴史的資産に富んだ土地に於いては、川俣や宮永のような深い思索を導き出すような作品が相応しいと思った。

★──「古都祝奈良コンセプトブック」東アジア文化都市2016奈良市 実行委員会 発行

古都祝奈良 川俣正「足場の塔」

会期:2016年 9月3日(土)〜10月23日(日)
会場:大安寺
奈良市大安寺2-18-1/Tel. 0742-61-6312

古都祝奈良 宮永愛子「雫−story of the droplets」

会期:2016年 9月3日(土)〜10月23日(日)
会場:北風呂町の倉庫(奈良市北風呂町)