2017年11月15日号
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キュレーターズノート

太田市美術館・図書館「平田晃久建築展」、「加藤アキラ 孤高のブリコルール」

住友文彦(アーツ前橋)2017年04月01日号

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 建築家がつくる美術館、芸術家がつくる美術館、行政がつくる美術館、学芸員がつくる美術館。さらに開館した時代や社会など周辺環境の影響を受け、それらの度合いが混じりあい、異なる個性が加えられる。一口に美術館と言えども、まるで環境によって形を変える植物のように多様な種類がある。美術館かくあるべしと思いたい気持ちは分からないでもないが、実際は絶えず変化し続けているのが現実で、もし理想とするモデルがあったとしても、よく見るとそれ自体すでに変わっているはずだ。もし変わらない美術館があるとすれば、それは植物園で生育されているのに近い、周辺環境と断絶しているケースだろう。

利用者の自由な身振りを承認するデザイン──《太田市美術館・図書館》


 新設の《太田市美術館・図書館》が正式オープンを前に、建築設計をおこなった平田晃久の展覧会が開催された。私が仕事をしているアーツ前橋も同じ群馬県で3年前に開館した。折に触れ、市民や関係者から準備の様子を聞いていただけに待ちに待った開館だ。しかも、図書館と美術館の複合施設である。これまでも、仙台市、富山市、山口市などに類似の例はあるが、それらと比べた場合、コンパクトさや2つの施設の密接度に《太田市美術館・図書館》の独自性があるかもしれない。むしろこの2つを分ける必要性を感じない、公共複合施設の「新種」を思わせるような印象であった。



《太田市美術館・図書館》 外観
写真=阿野太一


 図書館に限らず劇場や博物館と、美術館を併設した複合施設は少なくないが、たいがいは専門性や担当の縦割りによって両者が横断的に事業を行なうところは多くない印象がある。併設する理由を施設運営の合理性や集客効果にのみ求める限り、それ以上の成果は求められていないのだろう。また、各分野のコアな利用者ほど「かくあるべし」という姿を求め、領域の混じりあいに否定的な傾向がある。それを乗り越えて、複合施設の利点を発揮するには、運営する者が感性や知性の面で好奇心を持ち、互いの利用者を引き入れようとする旺盛な意欲がないと難しい。コンパクトな施設であれば、互いの活動が目に入りやすいし、同じ利用者を対象にした事業も実施しやすい。今後、新種がつける実りを待つひとつの楽しみ方かもしれない。


 建物が立っている場所は駅の構内かと思うほど隣接していて、それゆえに敷地や外観がコンパクトに見えるのかもしれないが、内部に入ると空間は比較的広く感じる。直線で続く壁がほとんどなく、廊下やホワイエを区切らず、ぐるぐると回りながらスロープを登っていく一体化した空間になっているためだろう。その動線のあちこちにほかの空間がのぞける開口部があるのはアーツ前橋と似ている。ただ、《太田市美術館・図書館》は大部分が図書館であるため、書棚や椅子などの家具がさらにバリエーション豊かな変化を生み出している。配架されている本は、総合図書館と比べるとけっして多くはないが、芸術やデザイン、あるいは地域社会などに分野を絞っているため、利用者の関心に十分応えることができるように見えた。かつ、昨今の本屋の店舗デザインの潮流に見られるようにゆったりと寛いで過ごせるような場所がそこかしこに用意され、調べものというよりも日常の延長として過ごすのに向いている。


平田晃久建築展 展示風景
写真=阿野太一


 近年の公共建築のデザインでは、利用者がそれぞれの時間を過ごせるように空間を多層的に設計する例が目立つ。かつてのように建築が記号的なメッセージを発するのではなく、そこを行き交う人たちの舞台のような役割を担うため、利用者は自分自身が主人公としてふるまっているように見える。特に入り口や上下移動の動線が複数あり、ガラス面に囲まれたこの施設のデザインは、利用者が自分の感覚をもとに自由にふるまう様子を他者に承認してもらっているように感じさせるだろう。変化に富んだ有機的な形も、利用者が自由な感覚をおぼえるうえで効果的だ。つまり、いくつもの機能を束ねなければならない文化施設をデザインするうえで、この美術館・図書館がもっとも優先しているように見えるのは利用者の自由な身振りを承認するデザインである。そのために設備や倉庫、あるいはバックヤードといった運営のための機能は最小限に抑える選択をしているかもしれない。


 文化施設の在り方を決めていく選択は、空間のデザインにも大いに託されている。その選択がデザインと運営を担う両者のあいだで食い違っている不幸もしばしば耳にするが、何を優先して何を捨てるのか、を選択していくプロセスは建築を生態系の一部としてみなすうえできわめて重要ではないだろうか。建築デザインは、要望のすべてを網羅できないし、かえってそれを目指して個性を欠いてしまった例が幾多もある。それ以外にも、図書館と美術館の大きさの配分や、運営スタッフの配置の仕方など、数多くの重要な選択が開館後も継承されていくことで、デザインと運営は美しく噛み合うだろう。

「生きている建築」とはなにか


 「生きている建築」とは何だろうか──。私が平田晃久の展示を見ながら考えたのはそのようなことだ。フレデリック・キースラーやメタボリズムなどを思い浮かべるような言葉だが、冷たく動かない建築を「生きている」ように見せたい建築家の欲望の底にあるものは何だろうか。屋上で成長する植物のことであれば、すでに藤森照信が大胆に実践している。平田はこのテーマを示すうえで、自然/人工、発酵、みち、ひだ、巨樹、動物的本能、360°という7つのキーワードを会場で示していた。もちろん建築は自然発生するものではなく、この公共建築をつくるためのエネルギーや資金の力、社会的なさまざまな交渉の場面を想像してみれば、大きな人為的な意思の力が働いていることは明白である。では、豊かな関係性の結びつきに満ちた静かな日常的な営みと、大きな人為的な意志の力はどのように折り合いをつけることができるのだろうか。その接点が有機的な関係性となるようにあらかじめデザインによって実現しておくこと。本展で展示された模型や言葉の背後に、平田の考えがうかがえるような気がした。


平田晃久建築展 展示写真
写真=阿野太一


 こうした考え方に大いに共感しつつも、そもそも人工と自然のように異なるものを結びつける発想はけっして新しくない。少なくとも人類が農耕技術を手にした頃からいつも両者は混じりあってきた。それらを並べて個々の特徴を探し出すため熱心な観察を行ない、近代科学は分類という手法で丁寧に個別の特徴が生まれた理由を見つけ出してきた。こうした見方はかなり根強く私たちのなかに埋め込まれている。しかし、資本や情報メディア等によって個別化や分断化がかつてなく進行している現代の私たちが見たいものは、むしろ異なると思われてきたものが有機的なつながりや連続性を持っていることではないだろうか。すなわち、すでに私たち自身はすでに異なるもののハイブリッドであるにも関わらず、その全体的な像を獲得しそびれている。だから自然に触れ、身体を使い、旅に出ることで、記憶や感覚の断片をつなぎ合わせ、ひとつのまとまりを持った「自分」と出遭うことを望む。そのとき、まとまりを持ったひとつの総体を疑似的につくりあげるのか、異物どうしのあいだの齟齬はそのままに滑らかな連続性を見出すのか。異物どうしの構築物である建築も単独では存在できない。形態が自然を模しているだけでなく、資金や運営を支える地域共同体と結びつき、建築の外側と接触する経験によって「生きている建築」になる。


 一昨年、アーツ前橋で「ここに棲む──地域社会へのまなざし」展を行なったとき、建築デザインが共生の実践に向かう例をいくつも知った。外部との接触において、人間であれば触覚的な経験と脳が結びつく瞬間がとても重要な契機をもたらしているであろう。それが、文化施設や建築に置き換えられた場合、どのようにして感覚や分野の断絶を乗り越えて滑らかな連続性を獲得するのだろうか。建築や美術館は連続している有機体から一部を取り出し細かく分析をしたあとに、再び生の有機体に戻す。地域社会という個人の生が見えやすい場所で、図書館と美術館という近代の文化装置がハイブリッドな調査と展示の試みを深化させていくのをぜひ見たい。


平田晃久建築展(終了)

会期:2017年2月7日(火)〜2017年3月5日(日)
会場:太田市美術館・図書館
群馬県太田市東本町16番地30/Tel. 0276-55-3036

学芸員レポート

 アーツ前橋では春に個展を継続的に行なっている。これまでの個展はいずれも地域にゆかりのある作家だったが、もちろんそう限定しているわけではない。今回の加藤アキラは隣の高崎市在住で、彼が1965年に加入した群馬NOMOグループが前橋市内に拠点となる画廊を持っていた。アーツ前橋の開館記念展「カゼイロノハナ 未来への対話」では、地下の中心となる吹き抜けがある展示室に砂鉄と竹ひごがダイナミックに円環運動を見せる作品を展示してもらった。


 人口30万強の地方都市でも光を当てるべき作家が数多くいるのは事実だ。名前が知られていなくても、回顧展によって全貌が明らかになることで独自性や同時代性が浮き彫りになれば美術史の記述に大きな意味を持つ。地域ゆかりの作家は日々の研究や調査のなかでもっとも資料や情報が集まりやすいのは間違いなく、個展のための調査に結びつくのは自然の成りゆきとも言える。

「加藤アキラ 孤高のブリコルール」展


 加藤アキラは、専門的な美術教育を受けたわけではなかったが、群馬NOMOグループ加入後間もなく、第10回シェル美術賞(1966)における佳作入選を皮切りに、「現代美術の動向」展(京都国立近代美術館、1969)への出品、第4回ジャパン・アート・フェスティバル(東京国立近代美術館、1969)で優秀賞を受賞する目覚ましい活躍を見せる。30歳前後で全国的な評価を手にした作家だった。しかし、その後政治の季節を経験したあと、沈黙の年月を過ごし、「ぐんまアートセンター」の活動に参加することで作品発表を再開する。華々しい活動を見せていた時期も含めて、現在に至るまで地元を離れず活動を続けていたため、いまでは彼の名前を記憶する人は多くないかもしれない。私が彼の名前を知ったのは、残念ながら故人となった浅井俊裕氏から「日本の夏1960-64 こうなったらやけくそだ!」展(水戸芸術館、1997)のために群馬の前衛美術運動の調査を依頼された吉田富久一氏がまとめた「群馬における戦後、前衛美術運動の軌跡と行方」(群馬県立女子大学特別研究調査報告書、2000)だった。美術館の準備にあたり、この報告書を手にしたのは大きな意味を持っている。地域の美術家たちの活動がいかに多彩で豊かなものか、確信を持って記された見事な調査であり、その意義を多くの関係者に知っておいてもらいたい。その後、私は群馬県立近代美術館の田中龍也学芸員と加藤アキラのインタビューを行ない、その内容は日本美術オーラルヒストリーアーカイヴに掲載されている。その後加藤の自宅に残されている作品の調査が行なわれ、その一部を美術館で収蔵することから今回の個展が実現している。


 加藤は1960年代には高度成長期の基幹産業である自動車の整備工をしていた。その後、群馬アンデパンダン(群馬県スポーツセンター、1965)を企画するなど、NOMOグループを芸術論によって牽引していた金子英彦に大きな影響を受ける。金子は、見ているものの自明性を疑う、端的に言えば批評性を持たなくてはならない、ということを強調していた。見るものをただ描くのではない美術は、加藤の感性を大いに刺激し、「Report」シリーズが生まれる。仕事で日々扱っていた金属板やワイヤーブラシを、いくつもの回転運動をする作品として構成したものだ。新しい素材を使った商品が大量に消費されていく時代にあって、商品に使われている素材に独自の相貌を与えたのだ。幾何学的な形がさまざまなパターンによって組み合わせられることで、物質が自律的な運動を行なっているようにも見える。激しい変化に晒される同時代の社会を濃厚に映し出しながらも、毎日の労働と結びついた素材や技術が投入された作品であるため、社会批評的なメッセージは抽象的には見えない。批評性と技術の2つが重ね合わされ、独自の魅力となっているシリーズである。マルセル・デュシャンの永久機関やジャスパー・ジョーンズの乾いた批評性と比較しても、日々手にして特徴を熟知した素材を扱っていることによって生み出された表現の独自性は色褪せないだろう。


加藤アキラ《REPORT-EA9》1966年 アーツ前橋所蔵
撮影=木暮伸也


 続いて発表された「Space Compression」シリーズは、その独自性をさらに効果的に示している。これは三次元の立体空間を二次元に圧縮し、金属の輝きと空の青の対比が美しいハードエッジの作品群である。「トリックス・アンド・ヴィジョン」展(東京画廊/村松画廊、1968)で展示された作品などと相通じる視覚の遠近感を惑わせる効果が一見して特徴的だが、金属部分の肌理を作り出している加工が特に際立つ。これも加藤が仕事で扱い慣れている素材だったためで、その輝きが物質感を全体的に希薄にしていることに注目してほしい。大量生産や情報メディアの影響により物質感の希薄化や遠近感の変化を敏感に嗅ぎとった数々の作品のなかでも秀逸なこのシリーズで、加藤は「現代美術の動向」展(京都国立近代美術館、1969)に参加した。


 沈黙期を経て再開したあとの作品は、竹や皮などの有機的な素材、あるいはブリキでも丸みを帯びたフォルムが目立つようになる。本展では、展示室に生き物を思わせる作品があちこちに点在している。かつての物質の非在性を示すようなクールな印象から、作品によっては野生の衝動を感じさせるようなものもある。このように前期と後期が変化している点から見るのも、あるいは共通している点から見るのもどちらも加藤アキラを知るうえで必要な視点になる。担当の吉田学芸員が「孤高」と呼びたくなるように、寡黙に作品を作り続ける姿からは器用にスタイルを変えるようには見えない。加藤の作品に一貫しているものがあるとすれば、回転運動のような動きだろう。「Report」シリーズは平面だが円にエアブラシの跡が付けられ、砂鉄を敷き詰めた《環》(2017)も加藤自身が運動の軌跡を残している。後期の作品には強く身体的な運動が見いだせ、丸いフォルムが繰り返し現われる。固定された場に留まらずに揺れ動く感覚は、「Space Compression」シリーズを見るときの眩暈のような経験にも通じる。あるいは、水面を震わせる振動や空間に弧を描く竹ひごの作品も同様に円環運動を生み出している。


加藤アキラ《天と地の間で》(2017)と「Space Compression」シリーズ 展示風景


 口数がけっして多くない加藤が、自分の価値観を表わすいくつかの言葉のなかに「同位体」という物理学の言葉がある。不思議な言葉を使うなと思っていたことがあるのだが、どうも「異なるものを等価に見る」というのが含意らしい。価値の変化、不平等、権威主義などを醒めた諦観さえ感じさせるような眼で見つめながら、自分の手によって上も下もない循環的な円環運動を生み出している。それは、国家間でも地域間でも、あるいは個人の生としても戦後社会が経験してきたさまざまな分断や不平等に対して、あくまで直接的に材料を自分の手で扱うことで循環運動を生み出そうとしている私的な実践行為のように見える。今回初めて一望できる加藤の仕事からは、会期中にまだきっと多くの発見があるだろう。一人の作家が人生を通して生み出してきた作品の数々を、身近に何度も何度も見直すことができる個展である。


 同時開催の「Art Meets 04 田幡浩一/三宅砂織」については、次回の連載で詳しく報告する予定。

加藤アキラ 孤高のブリコルール

会期:2017年3月18日(土)〜2017年5月30日(火)

Art Meets 04 田幡浩一/三宅砂織

会期:2017年3月18日(土)〜2017年5月30日(火)
いずれも会場:アーツ前橋
群馬県前橋市千代田町5-1-16/Tel. 027-230-1144

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住友文彦

1971年生まれ。アーツ前橋館長。あいちトリエンナーレ2013、メディア・シティ・ソウル2010(ソウル市美術館)の共同キュレーター。NPO...

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