2017年12月15日号
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キュレーターズノート

「アール・ブリュット」を通して考えるアートと人と社会の関係性

田中みゆき(キュレーター)

2017年05月15日号

 2017年3月20日まで滋賀県の近江八幡にあるボーダレス・アートミュージアムNO-MAで開催した「大いなる日常」展。障害のある人とない人による表現を同じ地平で扱うだけでなく、より広く人間の在り方そのものを相対的に考えるため、動物や植物、機械にも対象を広げた。そして、さまざまな命や知性が持ちうる創造性や、それらを通した世界との向き合い方に目を向けた展覧会とした。本稿では、企画の経緯と制作の背景について、企画者の立場から振り返りたい。

作品ではなく、人への興味から始まった



ボーダレス・アートミュージアムNO-MA
撮影:Takuya Matsumi


 はじまりは、NO-MAで企画公募があったことだった。それまで筆者は、障害のある人とパフォーマンスをつくったり、展覧会で義足を扱ったりしたことはあったが、いわゆる「アール・ブリュット」を扱ったことはなかった(後述するが、これまでやってきたことも広義の「アール・ブリュット」と自分では考えている)。それは、「アール・ブリュット」という美術史やアートマーケットとはかけ離れたところから生まれたはずのものが、アートの文脈に引き寄せられ評価されることへの違和感だった。障害のある人や彼らがどのように世界を捉え接しているかには俄然興味はあったものの、彼らの作品を切り離してアートとしての良し悪しを評価することには特に面白さを感じてはいなかった。
 筆者はもともとデザインを出発点として、展覧会やパフォーマンス、イベントの企画に携わってきた。根底にあるのは、作品として認知される前の、日常に潜む創造性や創意工夫、それを介して生まれるコミュニケーションへの興味だ。「デザイン」というと問題解決の手法と思われがちだが、時代や集団の無意識を浮かび上がらせることこそがデザインの本質だと筆者は思っている。アートのためのアートや、閉ざされたルールに則って鑑賞・評価される作品よりも、果たして「作品」と呼べるかさえ曖昧な、生理的な行為や個性の発露でしかないとも捉えられる「作品以前」のものに最も惹かれる。
 障害のある人の表現において、行為―表現―作品の関係性は、一般的なアーティストによるものとは別の意味合いを持っている。障害のある人が自分の気持ちを解放したり、安らげるための「行為」を、他者が見て「表現」と捉え、さらにそれが他者を介して見られることを前提に世の中に出されるときに「作品」となる、という区別をここではしたいと思う。
 これまでにいくつか福祉施設を訪ねるなかで、心に引っかかる瞬間があった。それは、障害のある人たちが何にも影響されずに同じ行為を淡々と続ける姿勢であったり、狙いやゴールはないはずなのに美しく洗練された仕草だったりした。片時も離さずインスタントラーメンの袋を見つめる人もいれば、起きているあいだ中ずっと紐を振っている人もいる。ただ、知的障害や精神障害のある人の場合、言葉によるコミュニケーションが難しい場合が多い。言葉はその状況にある曖昧さや他者との認識の齟齬を覆い隠し、共有したつもりになるのに便利な道具だ。それが通用しない相手と面と向かうとき、接点やきっかけが見つけられないこともあるだろう。しかし、“表現”を介すことで、何かが解けて別の関係性が生まれるような感触があった。
 彼らの表現は、わたしたちが普段当たり前としている合理的であることの正当性や意味の必要性などの価値観や固定概念への批評性を内包している。当の本人は無自覚だが、わかりやすいことや耳当りのいいことに流される社会で生きる健常者が彼らや彼らの表現に最も惹かれる理由はそこだろう。同時に、理解し合わずとも互いがそのままで存在することを受け入れるための媒介として表現が機能するなら、それはまさにアートの本質的な在り方ではないかと思った。

障害/健常から、人間/動物/植物の知性へ


 本展では斎藤環の言葉を借り、扱う表現の主体を「表現者を演ずる訓練を得ていない表現者」とした。障害のある人の作品は作者一人では成立しない。まずその行為や痕跡に価値を見出す人が周囲にいて、それを社会に伝えていく人たちがいなければ、人目に触れることすらない。しかし、今の時代に、完全に一人で成り立っている物事など存在するだろうか。特にテクノロジーやメディアの発達により、わたしたちは自らの身体を擬似的に拡張し、時には外在化させながら生活を便利にしてきた。表現においては、行為の主体(及び作家性)が曖昧になり、背景やプロセス、関係性自体が重要な要素となることを意味する。メディア・アートやバイオアートもそういった側面が少なからずあるだろう。そこで、障害のある人による表現と、障害のない人が他者や道具との協働で成立している表現を扱うことにした。
 「障害のある人とない人の割合を同程度にする」というのはこれまでのNO-MAの展示方針であり、公募でも課された条件のひとつだった。それを踏まえ企画を考えるにあたり、まず中心に据えたのは、同じ素材やモチーフで制作する二人の作家を1Fと2Fの展示室の中央に配置することだった。そこで、糸と布を扱うAKI INOMATAと吉本篤史、文字から派生した模様を描く戸來貴規とyang02をそれぞれ対になる形で展示した。それらを中心に、導入として蜂と協働しながら造形するトーマス・リバティニー、動植物の生態を通して自然と人間との関係性を問う銅金裕司、そしてポスターなどのメインビジュアルにも使わせてもらった杉浦篤を象徴的に扱い、構成した。

 AKI INOMATAと吉本篤史は、糸と布が共通項だが、全く異なった関係性で成立している。INOMATAはこれまで生き物との協働を軸としてきたが、INOMATAの思い描くイメージの輪郭を、生き物がその性質を利用して満たすことで制作が行なわれる。今回は過去作品の中から、ミノムシが周りに撒かれた洋服の端切れを自らの糸で身体にかがってつくられた作品を展示した。一方で吉本篤史は、鹿児島のしょうぶ学園のnui projectという縫う行為を扱う工房にいながら、一人だけ製品をつくるのとは真逆な行為をしている。8畳ほどの空間全体を使って、自分でつくった小さな布のパーツと糸をつなぎながら独特の世界を構築しているのだ。INOMATAの作品はミノムシの防寒や生命維持の活動を鑑賞者が人間に見立てることを含め作品化しているのに対し、吉本の表現においては生物としての生存本能を遥かに超え、必ずしも機能を持たない環境そのものを自ら創造していく、人間の根源的な欲求が垣間見える。


「大いなる日常」展展示風景 左:AKI INOMATA《girl, girl, girl...》 右:吉本篤史《無題》
撮影:Takuya Matsumi


 戸來貴規は「アール・ブリュット」の世界でよく知られる作者の一人で、暗号のような模様を用いて《にっき》を書く。B5用紙の両面を使った日記の表面には必ず日付と天気、気温や名前が描かれるが、気温は日付に1を足しただけというアルゴリズムがあり、裏面は必ず同じ文章が緻密な暗号のように描かれるなど、メディア・アートとの相性の良さを感じさせる表現だと思っていた。そこで、yang02には戸來と対になるものとして、コンクリートブロックに水を使って人工知能がグラフィティを描くという新作を制作してもらった。障害のある人の表現という行為における刹那的な快楽や喜びと絶妙に重なる作品となった。戸來の展示については、実家を訪ねたところ日記が6つの段階で書き上げられていくことが判明し、それぞれの段階を1週間単位で1枚ずつ天井から吊るし、プロセスを解放するような見せ方をした。


「大いなる日常」展展示風景 左:戸來貴規《にっき》(上)とyang02《落書きの原理について》(下) 右:yang02《落書きの原理について》
撮影:Takuya Matsumi


 離れにある蔵に展示した杉浦は、自ら写真を撮ることはなく、家族や施設職員が撮った写真をひたすら触る。その行為は何かをつくるためではまったくない。自室で行なわれるため、毎日なのか、どれくらいの時間続けられているのかも誰にもわからない。ただただ触られ、手垢や涎などで変色した写真は物質化し、杉浦の頭の中にしかない記憶とともに存在している。言ってみれば単純な行為の反復に過ぎないのだが、杉浦を通して変化した写真は、もはや写真というメディアに収まらない人間の執着や情念を伝えており、見過ごせないものがある。それは一人の人間のなかで循環しているファウンド・フォトのようでもあり、不用意に表現と呼ぶのも躊躇わせるような重さを帯びている。


「大いなる日常」展展示風景 杉浦篤《無題》
撮影:Takuya Matsumi


 リサーチを進めるなかで、障害/健常の区別は、集団としての発展のために極めて限定された知性や意識の基準に基づいてなされてきたものではないかと考えるに至った。それは、他の動植物を区別し搾取する優越感や驕りとも関連している。そこから離れ、知性や意識を捉え直すことで、人間誰もが同じ自然の一部として他の生とともに生きる感性に目を向けられるのではないかと考えた。そこで、銅金裕司に依頼し、意識と最も遠い存在と通常考えられている植物の生体電位を音に変換する「プラントロン」を使った作品を本館の最後に展示した。本展における銅金の作品は、「社会内存在」であることと同時に「宇宙内存在」であることを思い起こさせるというレビュー記事もあった。


「大いなる日常」展展示風景 左:銅金裕司《驚異の部屋2017@NO-MA》 右:Tomas Libertiny《The Honeycomb Vase》
撮影:Takuya Matsumi


関係性ごと引き受ける


 健常者のアーティストのなかには、目指そうとしても困難な無私の状態を予め獲得している障害のある作者に対して、羨望を覚える人もいるだろう。しかし、果たして本人が満足しているかもわからない、作品としてつくられたものかすらわからないものに誰かが“表現”としての魅力を見出し、そういった人たちの連なりによって「作品」として世に出て行く。素晴らしい作品は多くの人に見られるべき、というのが表現を仕事にする者の主張だろう。金銭と交換で作品が社会に出て行くことが、普段社会から隔離されて暮らしている人たちにとって社会とつながる手段になる、という考え方もある。確かに、作品が展示される機会を持ったことで、作者の表情が柔らかくなったりコミュニケーションが増えたりというよい例も聞く。しかし、そもそも社会と関わることを是とすること自体、健常者のエゴではないだろうか。これは実際に、今回出展してもらった作者の一人が所属する施設の職員に問われたことだ。
 このように、何かが生み出され、表現と認識され、作品として世の中に出ていくに至る過程すべてにおいて自立しているとは言い難い、その曖昧な関係性も含めた「アール・ブリュット」の周辺が、筆者は何より面白いと思う。作品単体よりもそれらの関係性を丸ごとひっくるめて相対化させる展覧会を目指したつもりだが、そのような場がどうしたら成立するかは今後も考えていきたいと思っている。

 アートが社会の中で果たしうる役割や可能性を考えるときに、それが必ずしも作品のクオリティの高さとは一致しないという意味で、「アール・ブリュット」はコミュニティ・アートとも重なる側面がある。両者とも、何を作品として評価するのか、そもそもその状況が作品として評価され、取り扱われることが必要なのかという疑問がつきまとう。コミュニティ・デザインの観点からすれば、そこで発生している状況や関係性そのものに価値を見出せれば、作品として扱われる必要はないという結論だってあるだろう。ただ、アートの文脈に置く場合、何かしらの表現を行なえば、作品として評価されることからは逃れられない。それは、「アール・ブリュット」を療法や教育の産物と捉えるか、アートと捉えるかの狭間で揺れ動く日本の複雑な現状においても注意深く見守っていく必要がある問題だろう。

誰が「アール・ブリュット」の価値を決めるのか?


 これまでの「アール・ブリュット」作品のなかには、絵画や陶芸、彫刻など、伝統的なアートのカテゴリーでつくられたものが多い。それはやはり、費用や職員側の美術教育の影響と同時に、周囲のアートへの固定観念からそういった素材や手法が与えられてきたことが大きく影響している。ただ、最近では東京大学のDO-IT Japanプログラムのように障害のある子どもたちにITや電子機器で教育支援を行なう動きもあり、今後テクノロジーの発達や普及に伴い、そういったテクノロジーを用いた表現も増えてしかるべきだろう。「アール・ブリュット」=「障害者アート」ではないが、正規の美術教育を受けていない者による表現がすべて「アール・ブリュット」というわけでもない。何を「アール・ブリュット」とするかは、名付け親であるジャン・デュビュッフェから始まり、従来の西洋美術から逃れられない第三者による価値づけを伴ってきた。ある意味その第三者が「アール・ブリュット」に何を期待しているかを如実に映すとも言える。個人的には、同時代のメディアを用いた表現や身体表現など、これまで「アール・ブリュット」と捉えられてこなかった領域への広がりを期待しているし、そういった機会をつくりたいと考えている。

 「アール・ブリュット」は、作品に対する向き合い方や、鑑賞・評価の方法を変える可能性を持っている。参加型アートプロジェクトも一巡し、本質的な意味で鑑賞者を巻き込んでいくことを迫られるアート業界において、「アール・ブリュット」が包含するさまざまな問いは、これまでにないオルタナティブな視点を提起するだろう。ただ筆者は、「アール・ブリュット」を扱うことはアートという狭い範疇を問い直すだけの話ではなく、人間の在り方を再考することだと考えている。それは、自分たちがこれまで疑問を持つこともなかった欲やエゴ、偽善、驕りなどと向き合うことだ。見せるためにつくられていない表現を公開する。果たしてそれは誰のためか。社会とつながるとは何を意味するのか。そこで言う社会とは何なのか。私たちは他者の何かを代弁することなどできるのか。それらの大いなる矛盾にぶつかる度に、自分がどう生きてきたのか、どう他者と向き合っていけるのかを考えさせられ、ゾクゾクするのだ。それはアートだけで拾うには壮大すぎる問いかもしれない。しかし、これまで集団として当然と捉えられてきた価値観と距離を置き、見過ごしてきた世界や他者との接し方に一人ひとりが目を向けるべき時は、既に訪れている。そして、それぞれがその方法を自分の方に手繰り寄せようと模索するなかで、アートの新しい役割も見出されるような気がしてならないのだ。


「大いなる日常」展カタログ(アール・ブリュット魅力発信事業実行委員会発行 2017


「大いなる日常」展

会期:2017年2月18日(土)〜3月20日(月・祝)
会場:ボーダレス・アートミュージアムNO-MA
滋賀県近江八幡市永原町上16/Tel. 0748-46-8100

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