キュレーターズノート

東日本大震災復興祈念公園は誰のためのものか?

山内宏泰(リアス・アーク美術館)

2020年10月15日号

東日本大震災において甚大な被害を受けた岩手、宮城、福島の3県には国費によって国営震災復興祈念公園が整備されている。また、被災した各市町村にも小規模な復興祈念公園が整備されつつある。
本稿では他市町村の復興祈念公園とは一線を画する気仙沼市復興祈念公園の独特な設置理念、場所性などをレポートする。比較対象として、岩手県陸前高田市ですでにオープンしている高田松原津波復興祈念公園と、私の生まれ故郷、宮城県石巻市に整備が進められている石巻南浜津波復興祈念公園並びに、私が展示監修アドバイザーを務めている同公園中核的施設について若干のレポートをさせていただく。


気仙沼市復興祈念公園


東日本大震災の発生から約1年半後の2012年10月、国は同震災犠牲者への追悼と鎮魂、そして日本の再生に向けた復興への強い意志を国内外に向けて表明する復興の象徴として、国営復興祈念公園(追悼・祈念施設を含む)を岩手、宮城、福島の各県に1か所、各県との連携のもと国費によって設置することを閣議決定した。

この事業は震災発生直後の2011年夏頃に立ち上げられ、岩手県では、犠牲者が最も多かった陸前高田市への設置が即決された。一方の宮城県では候補地の最終決定までに3年程を要した。

気仙沼市でも2011年には第18共徳丸の遺構を含む鹿折ししおり地区の国営復興祈念公園化が検討され、石巻市などとともに候補地申請した。しかし、そもそも共徳丸の遺構保存について地域住民の合意形成ができなかったこと、公園の維持管理に関する将来像がイメージできなかったことなど、さまざまな理由によって気仙沼市は落選した。

2014年10月末、宮城県の国営復興祈念公園は、同県内で最も犠牲者の多かった石巻市に設置されることが決定された。しかしながら宮城県の場合、三陸のリアス海岸から仙南平野に至る広範囲での津波被災のため、各被災市町村の地形や生活文化、産業形態による被災状況等の差異が顕著であり、県内1か所のみの復興祈念公園設置という方針では不十分と考えられるようになった。

次第に被災各地の地域住民からは犠牲者への追悼と鎮魂の場、祈りの場として個別の公園整備を求める声が大きくなる。そのような状況を受けて、国は国営公園とは別に、各市町村で1か所までの公的な復興祈念公園(追悼・祈念施設を含まない)設置に国費を負担する方針を固めた。これによって各地で地域の必要性に応じた復興祈念公園の整備が行なわれることになった。

公園設置の現状と開園予定

現在、国によって設置された国営復興祈念公園については、すでに岩手県の高田松原津波復興祈念公園が開園している。同公園には道の駅高田松原東日本大震災津波伝承館が含まれており、この2つの施設は完全開館している。しかし公園については造成工事中の場所も多く、立ち入り規制をしながら一部開園としている。宮城県の場合は、石巻南浜津波復興祈念公園が造成中であり、近く開園となる見通しである。なお、福島県については双葉町と浪江町にまたがる区域に公園が整備される予定である。

9月15日、すでに稼働している岩手県高田松原津波復興祈念公園を訪れ、その状況を利用者の立場から客観的に見てみた。

来園者たちは犠牲者への追悼と鎮魂を胸にその場を訪れるのだろうか。見たところ、そうでもない利用者が多いように感じられた。彼らは伝承施設で東日本大震災の概要を見聞きし、苦難を乗り越えた被災地の復興を知る。そして現実離れした広大な公園をなんとなく歩き、防潮堤の上に設置された献花台から海を眺め、松原の再生現場を見降ろし、何の感想も漏らさずに振り返って公園をあとにする。駐車場まで戻った彼らは、その足で道の駅に立ち寄り、観光客らしく買い物をし、被災地に少しのお金を落として帰路につく。

短時間での被災地ツアーをオールインワンで成立させる復興祈念公園の仕組みは、地域外から訪れる者にとっては非常に便利でわかりやすく、追悼と被災地支援を体感できる施設と言える。しかし被災した地元民にとって、あの何もない、広大な芝生の空間はどのように見えているのか。同じく被災した身である私にはこの世の風景とは違う、賽の河原のようなイメージが見え隠れした。そして、そこが復興を祈念する公園であることに違和感を覚えた。



高田松原復興祈念公園、防潮堤へと続く通路



高田松原復興祈念公園、防潮堤上の献花台



高田松原復興祈念公園、防潮堤側から園内を望む

祈念公園候補地の選定


気仙沼市での復興祈念公園候補地選定は、東日本大震災において津波浸水被害を受けていない高台等から探すことが絶対条件とされていた。これは市長の方針であり、手を合わせ冥福を祈る場が2度と津波に晒されるべきではないという信念による。

2015年度、市内10箇所に絞り込まれた候補地から、四方を被災地域に囲まれ、一方で将来的にも津波浸水の恐れがなく、海を望むことができ、地域再興が実感できる場として陣山じんやまが選定された。

陣山は同市の中心部に位置する安波山あんばさんの中腹から内湾へと突き出す半島状の丘陵であり、戦国時代末期、当地で発生した乱の際に陣が敷かれた山である。頂部の標高は約60mで内湾と周辺の陸地が見渡せる。1991年に行なわれた調査では遺構や建物跡などが確認されており、かつて軍事上の要塞だったことがわかっている。

昭和30年代の写真記録などによれば、陣山はかつて畑として利用されていたことがわかる。また地元高齢者などの話から、幼少期の遊び場、春には花見を行なったなど、周辺住民にとっての憩いの場であったことも知られている。そして2011年の震災当時、陣山は住宅街の裏手に佇む雑木の丘、物言わぬ裏山となっていた。



昭和35年頃、畑として利用される陣山の様子

復興祈念公園の場所性

2011年の平成三陸津波被災地では、一部、沿岸の低地に対し、将来にわたって宅地利用を禁じる等の土地利用制限が設けられた。そういった土地は、適切なかさ上げを施すことで産業用地等に用いられる場合もあるが、より大きな地形的条件から判断し、防潮堤設置やかさ上げを経てもなお、津波被害を免れえず、再利用困難とされた土地も多く存在する。とはいえ、代々その土地に暮らす者たちは、その場の風景から離れ難い深い愛着を持っている。復興祈念公園整備地の多くがそういった被災者の思いを宿す土地なのである。ゆえに、地域住民にとってその場所は「震災被災者への追悼、鎮魂、復興の象徴」というだけではない、その向こう側にかつての暮らしを透過、投影してしまう追憶の場所でもある。

一方、そもそも津波被災を免れた高台であり、もともとその地域にとって特別な意味と歴史を持つ場所が、改めて復興祈念公園化されるとしたら、どんなことが起こるのか。

2011年3月11日、大津波が遡上、浸水し第18共徳丸が打ち上げられ、さらに大規模な津波火災が発生したことで世界的に知られる鹿折地区と、古くから気仙沼市の中心地とされてきた内湾地区の双方を眼下に望む陣山は、被災した気仙沼市のその後を自らの目で見ることができる最良の場である。また復興する街並みとともに、その向こうに美しい海を望むロケーションは「海と生きる」ことを宣言した同市が、愛すべき海との和解を願う場にふさわしい。さらに、故人の冥福を祈る場としても、震災によって大切な人を亡くした者に悲しみを乗り越える力を与えてくれる晴れやかで健全な場と言える。



安波山から見下ろす気仙沼市復興祈念公園と内湾



気仙沼市復興祈念公園 犠牲者銘板設置基礎

陣山には場所性としての悲しみがない。古い時代から、その場所は人々が集い、地域を見渡しながら晴れやかな気持ちを共有してきた場所である。そういう場所が復興を祈念する公園になるのだから、これはとても正しいことだと言えよう。「復興を祈念する」とは明るい未来をイメージすることにほかならない。ただし、未来をイメージするためには過去を学ばなければならない。いわゆる「温故知新」を体現する場所、それが復興祈念公園なのである。



気仙沼市復興祈念公園内モニュメント

誰のための、何のための祈念公園なのか

陸前高田市と石巻市の復興祈念公園には伝承施設が整備されている。陸前高田市の場合、「東日本大震災津波伝承館」と明記しており、その内容も間違いなく伝承館である。一方、石巻市のそれについては現在でも「復興祈念公園の中核的施設」と表現されており、明確に伝承施設とは定義されていない。国営の公園ということで、それが石巻市に整備されているものであろうと、やはりさまざまな意思決定は国によって行なわれており、地元住民の思いや意識がそのまま反映された施設とは言えない。県の依頼で同施設の展示アドバイザーを務めるなかで、「誰のための、何のための施設なのか」と、憤りを覚える場面が何度かあったが、私のなかでその答えはすでに出ている。



石巻南浜津波復興祈念公園、中核施設(奥に門脇小学校遺構)



石巻南浜津波復興祈念公園完成計画図



東日本大震災津波伝承館(陸前高田市)



東日本大震災津波伝承館(陸前高田市)施設内


気仙沼市復興祈念公園の敷地は本当に狭い。愛情をこめて「猫の額ほど」と表現するが、陸前高田市や石巻市の比較対象にはならない極小公園である。駐車場も狭く、アクセス道路もか細く頼りない。そして公園内には伝承施設も整備されていない。しかしながら、この公園は間違いなく気仙沼市民のために、確固たる使命感と責任感を持つ者たちが、長い時間をかけ、愛情を注ぎながら造り上げている公園である。

気仙沼市では震災遺構と伝承館をすでに整備している。またリアス・アーク美術館には「東日本大震災の記録と津波の災害史常設展示」がある。そこで復興祈念公園には無粋な震災情報伝承パネルのようなものは設置しないこととし、それに代わるものとして彫刻作品を設置することとしている。この「伝承彫刻」は、来園者が自身の震災の記憶を引き出す、あるいは未知の震災経験を身体的にイメージするための「呼び水」となるものであり、来園者同士の語り合いの場を創出する、言わばコミュニケーションツールである。

作品制作は秋田県在住の彫刻家、皆川嘉博みながわよしひろ氏に依頼し、多大なるご協力のもと、市長以下、われわれが共有する震災被災のイメージを可視化していただいている。現在、オープン時に設置する3体を制作中であるが、すでに各像につき6体ほどの作り直しを経ている。「こんなことは、普通はできないこと」、それを知りながら作家に細かい直しをお願いし、作家もまたそれに応えてくれている。そんな作業を今後も続け、「伝承彫刻」は数年をかけてその数を増やしていく計画である。

コロナ禍によって気仙沼市復興祈念公園整備事業は若干遅れているものの、2021年2月11日には開園する予定である。その際には「伝承彫刻」も3体設置されている。本号において、その詳細をお伝えすることはできないのだが、次回3月号では、東日本大震災発生から10年の現状とともに、同公園と「伝承彫刻」の独創性について、その詳細を紹介させていただく予定である。

★──筆者を含む一部研究者らは、1896年「明治三陸津波」、1933年「昭和三陸津波」との関連で呼称が定められていない2011年東北地方太平洋沖地震による津波を「平成三陸津波」と呼称することを提唱している。

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