キュレーターズノート
国立美術館巡回展/FLAT LAND──絵画の力/實松亮+安部貴住「循環と置換」
中井康之(国立国際美術館)
2010年12月15日号
対象美術館
その昔、アーノルド・ハウザーの『芸術と文学の社会史』という著作によって、西洋美術の大きな流れを社会構造の変化から説明し、経済・社会という下部構造の反映として上部構造の文化・芸術をとらえるという考え方が示されたことがあった。同書が著された20世紀中葉においては、そのようなマルクス主義的な「弁証法的唯物論」によって芸術史を解き明かすことができるのは近代以前の下部構造が盤石なものとして認識されていた時代までで、生産力の増大によって下部構造にさまざまなレベルで矛盾が露呈して上部構造が変革され、20世紀後半にはそのような旧体制的な思考は無化されてしまうといった言説が、特に文化人といわれる層を中心に真剣に論じられていた。
突然にそのような昔話を始めたのは、いつまでたっても晴れやかにならない此の国の文化状況を憂えいてということもあるのだが、此の国の政治が変調をきたす遙か以前から、おそらくは第2次大戦以降、この日本において明確な文化的政策目標が立てられたことはほとんどどなく、何らの指針も示されぬまま浮遊してきたことにいまさらながらに気づかされる機会をもったからである。ひとつには他国の文化行政を見聞することがあり、翻って此の国のことを考えたのである。そのことは後述する。もうひとつは、とても卑近な例なのだが、今年の前半に国立美術館の美術作品収集に対しても事業仕分けが行なわれ、その結果は「国からの負担をふやさない形での拡充を図る」ということであった筈であった。要するに自分たちで稼いだものは購入費に充てられるという導線が引かれた訳であったのだが、年度末が近づき、それはなかったかのようにされそうな気配である……。
さて、先に触れた他国とは欧米列強諸国ではない。隣国韓国の話である。先月、業務で韓国国立現代美術館を訪れた際に、同館学芸員から聞いた話である。同国は、李明博大統領の強いリーダーシップの下、経済的なアドヴァンテージが極めて著しいが、文化行政に対しても積極的な動きをみせている。李大統領の強い意志の下、2013年に首都ソウル中心部に国立現代美術館の分館がオープンするという話である。軍施設の跡地を利用するようだが、景福宮という李氏朝鮮の王宮に隣接し、観光客を呼び込むための施設としてはっきりと位置づけられている。まさに、冒頭で述べた、下部構造が上昇気流に乗り、同時に上部構造が整えられているような構図に見えるが、それだけではない。同館の現在の館長は元経済人で、李大統領の知人だという。彼の口癖に、まず目標とすべきことは、自館を世界の五大美術館にすることだ、というのである。そのための具体的な業務の内容にまではここでは触れないが、それを単に夢物語と笑い飛ばすか、経済人の発想方のひとつとして高い目標を掲げ、そのロードマップを描いたものと考えるかなのだが、この答えは述べる必要もないだろう。いずれにしても、このような話を国内で聞くことは絶えてないような気がする。とにかく、ここ非西欧諸国においては、文化的な基盤はいまだ20世紀初頭以前のレベルにあるのだが、隣国韓国はそこから早くも脱しようとしているように見えるのである。
今期も業務などで十分に関西圏のフィールドワークを果すことができなかった。ただ、その業務のなかでも上記したことに繋げて言えば、国立美術館では、おそらくは戦後直ぐから続いている「国立美術館巡回展」という役回りがあり、その実務を行なっていたことを少し記しておきたい。同展は国立美術館のコレクションを多くの人々に共有してもらうような意図で続けられているのだが、これまでは東京国立近代美術館所蔵の日本近代美術の洋画を中心としたセレクションか、あるいは京都国立近代美術館が所蔵する京都画壇の日本画の名品を陳列するか、どちらかの選択と言っていいような状況が続いてきたのだが(ほかにも花、人、風景のようなテーマ展もあったが)、今年はじめて、国立国際美術館のコレクションによって20世紀美術を紹介して欲しいというオーダーが複数館からあり、実施する運びになったのである。展覧会を担当する学芸員の世代交代ととらえるならば、自然な成行と受け止めることもできるが、受容する立場である、観衆の嗜好も新しい文化領域に対して興味を持ちはじめたことを反映したものであると、希望的観測を持っている。