アート・アーカイブ探求

狩野元信《四季花鳥図》和漢兼帯の型──「山本英男」

影山幸一

2011年09月15日号

本物をよく見る

 日本の中世及び近世の絵画史が専門である山本氏は、1957年岡山県倉敷市に生まれた。1981年大阪大学文学部を卒業後、4月より山口県立美術館の学芸員となり、1987年より京都国立博物館に勤務し、現在に至っている。大学の卒業論文は、湿潤な大気をも見事に表現している元信を含む《瀟湘(しょうしょう)八景図》についてだった。
 子どもの頃、骨董趣味をもつ祖父が床の間に絵を掛けたりする環境に育ち、また当時切手収集が流行っており、国宝シリーズや国際文通週間シリーズに採用された絵、例えば雪舟の《秋冬山水図》などに影響を受け、年賀状に描き写していたそうだ。色がある絵よりもモノクロの水墨画に魅力を感じ、今もそれは変わらない。大学入学後は、日本絵画史の武田恒夫先生から「本物をよく見ろ。よいものに触れる機会をいっぱいつくれ」と教えられ、いいものを見るよう努めたと言う。3回生の夏休みに実家に帰ったとき、亡祖父が遺した絵を見て「あかん」と思い、まだ注意深くものを見るようになってから日が浅かったが目が少し肥えたことを実感した。
 また美術史の授業で面白いと思ったのは、画家の署名もない絵がこの時代のこの画家の絵だとなぜわかるのか、それが不思議で魅力だったそうだ。初めて《四季花鳥図》を見たのも学生時代で「ダイナミックできれい。すごいなあ。何だこれは」と感じ、重要文化財であるが、これだけの規模を誇る絵は国宝に違いないと思い込んでいたと言う。
 山本氏は2012年1月28日、岡山県立美術館で「等伯、雪舟五代を名乗る」という水墨画の巨匠をテーマにした講演を行なう予定である。

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 狩野派の始祖となる父の狩野正信を継ぎ狩野派の基盤を築いていった元信は、奈良押上に1477(文明9)年に生まれた。幼名は四郎二郎、大炊助(おおいのすけ)、越前守、法眼と変わり、土佐光信(1434?〜1525?)の娘・千代を妻にしたと伝えられているが、元信の人間性を記述した資料は少ない。1559(永禄2)年に83歳で他界した。正信も97歳で没したから長寿の家系である。
 元信の時代は雪舟の画業の後で、次の方向性を模索していた時代であった。山本氏は時代背景と元信の特徴を3つにまとめて語った。「一つ目は、万人受けする整然とした明るい画風をつくり上げたこと。その背景には絵画の需要が社寺や武士から公家、上層町衆まで増えていったという時代の要請もあった。二つ目は弟子を養成し組織作りをしたこと。多種多様な筆法を身につけ、手本となる“型”を示し影武者をつくり、短時間で同質の仕事ができるようにした。単に職人のトップではなく、組織のトップという意識を持っていた。三つ目はレパートリーを拡大したこと。山水・人物・花鳥の画題を扱い、水墨画を基に金壁画(金箔押地濃彩画)、絵巻、風俗画など、大和絵系の画風も採用していった。しかも単に大和絵を真似るのではなく、大和絵に漢画のエッセンスを盛り込んだ和漢兼帯の画面構成で、狩野派風の大和絵をつくり上げた。斬新で旺盛な作画活動に意欲を見せながらも、顧客獲得への商売人の顔がのぞいている」。絵を学習しながら人生を学び、積極的に狩野派を発展させ、日本の絵画史の基幹を形成していった。

「型」の確立

 漢画を学んできた室町時代の画家たちは、自然を見て写生してきたわけではなく、手本となる中国の絵を模写して、絵の描き方をマスターしてきた。当時は幾通りもの有名画家を描き分けられることが一流画家のステイタスだったという。「雪舟などは、宋元時代の著名な画家、馬遠(ばえん)、夏珪(かけい)、梁楷(りょうかい)、牧谿(もっけい)、玉澗(ぎょくかん)などの画法を規範として勉強した。これを筆様(ひつよう)もしくは画様と呼び、絵を求める側は○○様(○内には画家名が入る)という言葉で大まかな好みを画家に伝え、画家もそれを目安に注文を取っていた。元信はそれを真体・行体・草体という画体に整理した。書道でかっちりと書くもの、崩すもの、その中間的なもの、それを絵画に当てはめたのだという。つまりタッチなどは違っても、空間構成やモチーフの形態を同じようにしていった。誰が見ても一人の画家が描いたとわかる画風、言い換えれば“型”を示した。弟子にしてみれば、手本となる“型”が明瞭であれば体得しやすい。真体は馬遠と夏珪、行体は牧谿と梁楷、草体は玉澗の画風を基にしている」と山本氏は語った。
 京都・大徳寺の塔頭・大仙院の方丈(本堂)には、同院の開祖である古嶽宗亘(こがくそうこう, 1465〜1548)の要請で室中に相阿弥(?〜1525)が、茫洋とした雰囲気の柔らかな牧谿様の筆使いで《瀟湘八景図》を描き、その室中に隣接する檀那の間(だんなのま, 2間×3間)の襖に元信が《四季花鳥図》を描いた(大仙院間取図参照)。方丈内で最も格式の高い室中に相阿弥が揮毫(きごう)していることから察せられるように、この画事の主役は元信ではなく相阿弥である。山本氏は「元信は、相阿弥に敬意を表し、相阿弥の牧谿様と重ならないように、馬遠様のカチッとした真体画を選択した」と推測している。全部で八幅ある《四季花鳥図》をつなげると約9.5メートル。現在、大仙院には秋と冬の場面の複製襖絵が展示されている。実物は保存のため掛幅に改装され、京都国立博物館が保管している。


大仙院間取図

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