アート・アーカイブ探求

東洲斎写楽《三代目大谷鬼次の江戸兵衛》哀感にじむアンバランスな魅力──「浅野秀剛」

影山幸一

2009年10月15日号

能役者が描く歌舞伎役者

 写楽が先人の絵師たちの誰に師事したかはわからないと浅野氏は言った。しかし写楽が参考にしたと思われる作品は、勝川派の役者絵をベースに、最も影響を受けているのは上方の個性の強い絵だろうと言う。例えば流光斎如圭(りゅうこうさいじょけい)の《旦生言語備(やくしゃものいわい)》、耳鳥斎(にちょうさい)の《別世界巻》、翠釜亭(すいふてい)の《翠釜亭戯画譜》などを見て、写楽は「これでいいのか。自分なりのデフォルメをすればいい」と思ったのではないかと浅野氏。写楽はユニークな絵を描くことで、ベラスケス、レンブラントと並び、世界三大肖像画家のひとりとうたわれたこともある。
 また、写楽は誰か。この問題は長い間議論されてきたようだが、現在は研究者の9割が斎藤十郎兵衛(1763〜1820)と考えているそうだ。もし写楽が、斎藤十郎兵衛ということであれば、阿波徳島藩の蜂須賀侯お抱えの江戸住まいの能役者であり、身分が武士にあたる。この身分を保持し、隠しながら浮世絵を描いていたと推測する。徳島藩から禄をもらい生活するか、写楽として絵を描いていくかの選択のときに、浮世絵が実際売れなくなったこともあり、十郎兵衛は写楽を捨てた。こうして一気に写楽は消えたと浅野氏は見ている。
 能役者が、歌舞伎役者を描くことで謎は生まれていた。歌舞伎役者を美化しない能役者の心情が働いて、唯一無二の浮世絵を残した。それにしても、素人同然の絵描きを仕掛けた版元の蔦屋重三郎(1750〜97)の眼力、プロデュース力はお見事。

【三代目大谷鬼次の江戸兵衛の見方】

(1)モチーフ

歌舞伎役者。

(2)題名

《三代目大谷鬼次の江戸兵衛》。役者絵(歌舞伎役者の演技や日常を描いた絵)の題名は、役者名の次に役名がくる。従来「奴江戸兵衛」と表記してきたが、歌舞伎の番付(役割、辻、絵本)には「江戸兵衛」とあり、また江戸兵衛は鷲塚八平次の家来ではなく、八平次に臨時に頼まれ、奴一平を襲った盗賊の頭であるため家来を意味する「奴」ではない。

(3)構図

大首絵(上半身を大きく描いた絵)。大きなすさまじい形相の顔と、下手にデフォルメされた小さな手のアンバランスな対比が魅力的である。

(4)手

デッサンが乱れた下手な両手は、驚異的なエネルギーを放ち、悪の異様な力感を強調している。この絵の人気の秘密は、何割かがこの手の表現にあると思われる。(図「手」参照)

「手」《三代目大谷鬼次の江戸兵衛》(部分)
「手」《三代目大谷鬼次の江戸兵衛》(部分)

(5)線と色

線描は、彫師がぎりぎり最小限まで整理しており、色板は5〜8枚に抑えているなど、彫摺(ほりすり)の手間を省く工夫が見られる。また写楽の顔の輪郭線は、他の浮世絵師に比べ、個性化を図り、凹凸が多く、類型化せず、美化していない特徴がある。

(6)摺り

黒雲母摺(くろきらずり)。写楽のデビュー作であり、雲母の粉末を用いて摺った異例の豪華な摺りもの。

(7)サイズ

大判(36.8×23.6cm)。錦絵(多色刷浮世絵版画)では標準的な寸法。

(8)制作年

1794(寛政6)年。5月に河原崎座で上演した歌舞伎「恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)」を取材。

(9)落款

東洲斎写楽画。浮世絵を刊行するときに、検閲の証として「極」の1字を捺す極印(きわめいん)と、版元の蔦屋重三郎の屋号「蔦屋」印の判もある。落款は絵が完成した最後に指定箇所でなくとも自由に押印した。(図「落款」参照)

「落款」《三代目大谷鬼次の江戸兵衛》(部分)
「落款」《三代目大谷鬼次の江戸兵衛》(部分)

(10)価格

当時の標準価格では版画1枚20文。現代に換算すると約500円。乱暴に計算すると、5杯(1,000枚:1杯=200枚)制作したとして50万円の売上。利益が少なく結構大変である。

(11)鑑賞

《市川男女蔵の奴一平》と左右一対として鑑賞できるように配慮されている。しかもこの作品を含むデビュー時の28図は、1枚ずつブロマイドを見るように独立性も強い。安いものなので掛け軸にすることはなかった。重要文化財であるが、鑑賞者にはより主体的になって、作品を自由に見てもらいたい。

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