今年2月、神奈川県、座間市役所庁舎のロビーと展望回廊に鈴木康広の作品が展示されていた。展覧会を企画したのは生活困窮者を支援するひとりの市役所職員。たった一週間の短い期間だったが、作品制作のワークショップに参加した人からも、作品に接した市民からも、そして市役所の職員からも、大きな反響が寄せられたという。アートライターの白坂由里氏に、会期終了後、鈴木康広、企画した地域福祉課(当時)の武藤清哉両氏にこの展覧会の経緯や稔りなどを取材いただいた。(artscape編集部)

《空気の人》展示風景 座間市役所1階ロビー[撮影:鈴木康広]

座間市地域福祉課では、「断らない相談支援」として、生活の困りごとを受け付けています。「普通にできない」ことで社会との距離が生まれ、孤独・孤立を感じている方がいます。それでも、困りごとと向き合う相談者の個性は、支援を行う立場からとても美しく感じることがあります。一方で、通常とは異なる価値観や視点から生まれるアートの世界では、むしろ個性は正当な評価を受けるのでは、と思ったことが、本展の始まりでした。

展覧会のあいさつ文の最後には「座間市地域福祉課 武藤清哉」と個人名が記されていた。同展は、このひとりの職員の思いから始まり、内閣官房の「地方版孤独・孤立対策官民連携プラットフォーム推進事業」を活用して行なわれた。地域福祉課での展覧会開催は初のため、展覧会制作は鈴木を中心としたチームで受託し、市職員や市民も協力する形で実現したプロジェクトでもあった。主催した座間市地域福祉課は、うつ病や雇い止めなどで生活に困窮した人々と定期的にコミュニケーションをとり、地域の社会福祉団体などと連携して自立支援を行なっている。篠原匡『誰も断らない こちら神奈川県座間市生活援護課』(朝日新聞出版、2022[生活援護課は出版時の課名])などを通じて全国的に知られる存在だ。

「分光する庭」会場風景 座間市役所7階展望回廊[撮影:鈴木康広]

《足元の展望台》展示風景 座間市役所7階展望回廊[撮影:鈴木康広]

1階の吹き抜けロビーには、約6メートル大の《空気の人》がのんびりと浮かぶ。7階展望回廊は「分光する庭」というテーマで、《足元の展望台》《軽さを測る天秤》などものごとの視点を変える過去作品や、地域の人々とのワークショップを通じて共同制作した新作などで構成した空間となった。そこは「個性」についての認識が変わる場でもあった。美術に関心がある人、孤独・孤立対策に関心がある人、市役所で用事を終えて立ち寄った人など来場者は1,000人を超えた。「少し優しい気持ちになれた」「市役所にこの取り組みを続けてほしい」など、集まったアンケートの厚みは約10センチにもなった。会期終了後、「《空気の人》がいなくなって寂しいね」と話す職員もいた。展覧会作りに関わった人や鑑賞者などにはどんなことが起こっていたのだろうか。

生きづらい人々への市職員の思いから始まった展覧会

鈴木の提案であいさつ文に名を入れ、トークイベントにも登壇した武藤。その経歴は同展への縁を感じさせる。法学系の学部で市民権や国境、難民などについて研究していた大学院生の頃、セバスチャン・サルガドの写真展に衝撃を受け、「写真なら誰にでも伝えられる」と写真家に転向。報道カメラマンは狭き門だったため、結婚式場に専属カメラマンとして勤務。その頃「瀬戸内国際芸術祭2010」で鈴木の作品《ファスナーの船》を見て、航跡が海原を切り開く様子に勇気を得る。2012年、座間市役所に転職し広報課で働いていた頃から、座間市で鈴木の展覧会を開催できないかと思っていた。

《ファスナーの船》 瀬戸内国際芸術祭2010[撮影:鈴木康広]

現在40代の武藤と鈴木は「年齢を重ねたタイミングで出会えてよかった」と話す。2001年に東京造形大学を卒業した鈴木康広は、水・空気・重力や身近な工業製品を媒介として、人間と自然を新たな視点から接続する作品を制作してきた。東京大学先端科学技術研究センター客員研究員も務め、社会包摂や子ども教育をテーマにした実験的なプロジェクトにも携わっている。ただ、武藤が鈴木に白羽の矢を立てたのは、社会課題に取り組んでいたからではなく、人・もの・ことにフラットに向き合う鈴木の眼差しに温かさを感じたからだった。武藤にとっては「福祉」と「アート」にそれほど違いはなく、「結婚式場の撮影で、笑顔だけが2人らしい魅力なのかと考えながら撮っていたこと」と「市役所に相談に来られた方にどんな困り事があるのか、なりたい自分になるためにはどんな支援をしたらいいのか話し合っていくこと」は似ているという。鈴木なら、社会問題を可視化するために当事者が引きずり出されるような作品にはならないだろうと思えた。

武藤が鈴木に依頼したのは《空気の人》の大規模な展示、7階展望フロアの展示、地域の人々とのワークショップの3点だ。ワークショップは鈴木の提案のなかから《2人の境界線を引く》と《好きと嫌いの詩(うた)》に決まった。

武藤清哉氏 座間市役所7階展望回廊《好きと嫌いの詩》の展示の前で[写真提供:武藤清哉]

「分光する庭」が、個性はひとつじゃないと励ましてくれる

展覧会タイトルは「空気の人|分光する庭」。どちらも作品名でもありテーマでもあり、「と」を表わす「|」で結びついている。「個性は、人だけじゃなくて、ものや現象にもある」という鈴木は、人間関係といった方向からではなく、《空気の人》という「もの」を作ることで「人」について考えてきた。さらに今回は「分光する庭」というテーマで、白く均一に見える自然光のなかにはさまざまな波長の光が混ざっており、プリズムによる分光(光線の空間的なズレ)によってそれらが見える現象から、見えない個性を発見するという意味を見出した。「白色光は人に気づかれない存在だけれど、紫外線や赤外線など有害な光線も併せてすべてが含まれている光の状態。分光は、いろいろな人がいるという意味に留まらず、ひとりの人のなかにもさまざまな波長があるという意味を表わしているんです。例えば1分前の私と2分前の私は別人。景色を見ているときの私、家族といる私など、自分自身のなかにも多様な私がいる」。

《分光する窓》(奥の壁面は《好きと嫌いの詩》)展示風景 座間市役所7階展望回廊[撮影:鈴木康広]

《白の消息(理想の色鉛筆)》展示風景 座間市役所7階展望回廊[撮影:鈴木康広]

「分光する庭」には《好きと嫌いの詩》《2人の境界線を引く》という2つのワークショップからできた作品がある。《好きと嫌いの詩》では、参加者に「好きなもの」と「嫌いなもの」を1枚の紙に5つずつ書いて朗読してもらった。さらに展示では、そこから抽出した言葉をカッティングシートに転写して、7階展望回廊の窓に貼るという初の試みを行なった。風景に言葉が重なり、街に住む人々から声が聞こえてくるようだ。窓に貼ったプリズムにより、太陽の動きとともに虹が移動してその文字に重なることもある。「明朝体にしてシートで貼ると、その言葉を発した本人の気配が残りつつ、観客のものにもなる」と鈴木。会期中、鑑賞者も参加し、「好き」と「嫌い」を書いた紙が増えていった。誰かの「嫌い」が誰かの「好き」にもなる。

《好きと嫌いの詩》展示風景 座間市役所7階展望回廊[撮影:鈴木康広]

《好きと嫌いの詩》展示風景 座間市役所7階展望回廊[撮影:鈴木康広]

なお、カッティングシートに転写した文字を窓に貼る作業ではちょっとしたハプニングもあった。ワークショップ参加者や市役所職員に自分が書いた言葉だけを貼ってもらおうとしたが、武藤が「(ほかの人の分も)全部貼ってもらいましょう」と声をかけてしまったのだ。鈴木は心配しながらも「一つひとつの言葉を尊重するように距離感を保って貼ってください」とだけ言って、時々レイアウトをチェックした。「僕だったらやらないなという貼り方もあって、センスが出ていました。いつもは業者にお願いするのですが、プロが短時間で行なう仕事のなかにも我々が個性を発見する余白が残っていたんです」。

《好きと嫌いの詩》設営風景 座間市役所7階展望回廊[撮影:武藤清哉]

もうひとつのワークショップ《2人の境界線を引く》には、地域福祉課に関わりのある相談者、市役所職員、視察に来ていた野村総合研究所や内閣官房の事業担当者も、ほかの一般参加者と同じ立場で参加した。座間から連想する「色」の鉛筆を1人1本選び、絵を描いた後、その色を選んだ理由や描いたものについてなどを話す。黄色の鉛筆でひまわりを描いた人。青と赤の2色鉛筆で芯がなくなるまで塗り潰し、紙半分で止めた人。「海と空」の話をしたその人に、鈴木は「方向を変えると雨にもなりますし空にもなりますね」と付け加えた。

《2人の境界線を引く》展示風景 座間市役所7階展望回廊[撮影:鈴木康広]

《2人の境界線を引く》展示風景 座間市役所7階展望回廊[撮影:Timothée Lambrecq]

その後、ペアで かんな を用いて色鉛筆を半分に削り、その半分ずつを貼り合わせて1本の鉛筆を作り、画用紙に境界線を引いた。「ここでの境界線は分ける線ではなく、持ちにくい半分の鉛筆を補い合った1本の鉛筆で引いた線なんですね。ぴったり寄り添っている線」。武藤さんも「境界線には、実はほかの人のものが混ざっている。足りない部分に誰かが入ってひとつになると感じました。鉛筆はちょっとズレていたり、不格好だったりして、そのなかにも面白さがある。ほかの人とのズレでコミュニケーションがうまくいかないと思っている人たちも、実は人間的で愛らしかったりするかもしれない」と解釈を広げていた。

「アートの視点では、支援者が支援しやすい個性ではなく、その人の良いか悪いかわからない個性も尊重される。同じテーマでもみな違う色を選び、違う表現をすることを体験して、いろいろな感性があっていいと思ったのではないか。これまでに見たことのない生き生きとした表情も見られました」。翌日には、参加した事業担当者から武藤にメールがあった。「引きこもりのような人を想定していたけれど、一見普通に働いている人のなかにも孤独を抱えている人がいて、そういう人も対象としないといけないのだと気づきました」。周りの認識が変われば、その人の個性も活きるかもしれない。

作品もまた「見る人によって変幻自在に変わるもの」と鈴木は捉えている。「展示すること自体が作品の見え方を変える場なのかなと思います。作者が答えをもっているのではなくて、見る人のなかに何が起こっていたのか。それは僕にとっても作品の変化に繋がるヒントにもなります」。さまざま人が介在するあいだに、ワークショップと展覧会の境界もなくなっていた。

《2人の境界線を引く》ワークショップ風景[撮影:武藤清哉]

《2人の境界線を引く》ワークショップ風景[撮影:鈴木康広]

展覧会は一人ひとりのためにある

半分ずつ補い合う鉛筆、色の混ざった境界線は示唆的だ。例えば監視スタッフには、ワークショップに参加した相談者も、鈴木が教鞭を執る武蔵野美術大学空間演出デザイン学科の学生もいた。初対面の人と話すことに慣れていなかったり、得意ではないからこそ丁寧に案内や説明をする。あるとき遠方から訪れた鈴木の知人が、監視スタッフをしていた相談者ととても楽しそうに話していたという。後日、鈴木はその人から「実家が隣町にあり、あまりいい思い出がなかったけれど、改めてこのエリアをフラットに見ることができて、行ってよかった」というメールを受け取った。「美術館のスタッフに丁寧に作品を説明していただくのとも違うやり取りがあったのではないかな。そんな想像をして嬉しくなりました」と鈴木。

また、武藤のほかに、調整や言語化に長けた谷田亮という担当がおり、ほかの市役所職員も時間を見つけては手を貸してくれた。撤収作業で《好きと嫌いの詩》の文字を剥がす際には、名残惜しさから、濁点だけを取る言葉遊びが始まるなど断片的に消えていく時間があったという。鈴木は「展示中にこんなことがあったねと振り返りながら片付けができた。展覧会は本当に関わった一人ひとりのためにあるんだなと実感しました」と手応えを語った。

座間市役所 現代美術展「空気の人|分光する庭 鈴木康広」 from Yasuhiro Suzuki on Vimeo.

福祉とアート、行政とアーティストなど、境界にはいつの間にかいろいろな人が混じり合っていた。プロジェクトを進めるなかで「足りないものがあれば助け合えばいいという空気があった。それが、生きづらさを抱えている人にも不安定なままでもいい、それも魅力なんだよというテーマと合っていたのかもしれない」と武藤は振り返る。展覧会終了後も「鈴木さんと過ごしたひとときは、今でも立ち戻る場所として刻み込まれている。自分がいてもいい、心地よい空間があったことで少し考えが変わったと話す人もいました」。鈴木は「あったものを思い出すことで何かが動き出す、仮設のパブリックアートのような展覧会だったのではないか」と語る。武藤は今年4月から都市整備課に異動しているが、「違う立場、違う視点から、今後は近隣市(4自治体)と同種のイベントができないか検討中です。今回の美術展のような気づきや啓発については、ひとつの自治体の事業に留めず広域的な取り組みにすることで、相乗効果も期待できると思っています」と語っていた。課題を抱える市民にとって現実の課題解決は容易なことではないかもしれないが、光が見つかるよう事業の継続を願う。

鈴木康広氏 東京大学先端科学技術研究センターにて[撮影:artscape編集部]

鈴木康広「空気の人|分光する庭」
会期:2024年2月20日(火)~2月26日(月)
会場:座間市役所1階ロビー、7階展望回廊(神奈川県座間市緑ケ丘1-1-1)
公式サイト:https://www.city.zama.kanagawa.jp/shisei/photonews/r5/r602/1009867.html