会期:2024/04/20〜
会場:ポレポレ東中野[東京都]ほか、全国順次公開
公式サイト:https://94sai.jp/
ある人が誰かと交際することも性交渉を持つこともなく、ゲイであることを誰にも打ち明ることもなく90年以上を生きたとき、その人がたしかに生きたはずの、しかし誰とも共有されることのなかったゲイ男性としての人生はどのように語り得るのだろうか。
『94歳のゲイ』は長谷忠という1929年生まれのひとりのゲイ男性が生きる現在を追い、その人生を辿るドキュメンタリーだ。カメラは長谷にその来し方を語らせ、抑圧されてきた思いを表出させることで、なかったことにされてきたゲイ男性としての長谷の人生に改めて輪郭を与え、その生を可視化しようとする。そこにこの映画のひとつの大きな意義があるだろう。
監督の吉川元基は「私たちには想像できない厳しい時代を生き抜いてきた長谷さんの人生を知り、それを掘り下げることでこの国の同性愛者が辿った道筋を知ることができるのでは」と考えたのだという。「長谷さんを通してこの国のLGBTQの歴史を紐解く要素を加えて欲しい」というのはプロデューサーの奥田雅治の提案でもあったそうだ。実際、映画内で長谷の誕生は、日本で同性愛が病気として認識されるようになったのは1920年代のことだったという新ヶ江章友(大阪公立大学人権問題研究センター教授)の解説とともに語られる。誰であれ自らが生きる時代の影響から逃れることはできないが、長谷の人生の歩みは、同性愛が治療可能な病気=異常性欲であるという誤った認識が一般化した時代から、ようやく同性婚の制度化が議論されるまでになった(しかし未だ実現していない)2024年の現在に至るまでの時代の変化と重ね合わせられ語られていく。
だが、映画の内容に踏み込む前にまず指摘しておかなければならないのは、長谷の人生の歩みとその時代背景として語られるものごとを「この国の同性愛者が辿った道筋」や「この国のLGBTQの歴史」と呼ぶべきではないということだろう。それらはあくまでゲイ男性の物語でしかないからだ。映画内で大きなトピックとして取り上げられるのがゲイ雑誌『薔薇族』だということからもそれは明らかだ。ゲイ男性の物語をもって同性愛者やLGBTQのそれを代表させることは、ゲイ男性以上に周縁に追いやられ不可視化されてきたほかの性的マイノリティの物語を改めて不可視化することにほかならない。
さて、映画は現在の長谷の生活を映しながら、その人生を辿っていく。私生児として生まれたこと。小学校の先生を好きになったこと。成績はよかったが私生児だったために旧制中学には進学ができず、14歳で旧満州に働きに出たこと。終戦後は職を転々とし、しかしどこへ行っても異性愛が前提の社会には馴染めなかったこと。同性愛者が身内にいると迷惑をかけると思い、母やきょうだいとも疎遠になっていったこと。詩作を心の拠り所とし、34歳で第4回現代詩手帖賞を受賞したこと。
映画が進み長谷の人生を知っていくうち、しかし私はこの映画の語りに違和感を感じることになる。「ゲイであることを誰にも打ち明けることなく」「孤独の中で生きてきた同性愛者の真実」。映画の公式サイトにも掲げられているこれらの文言は、おそらく間違ってはいないのだろう。だが、長谷は詩作と同じ長谷康雄名義で小説も書いており、そこには同性愛者としての経験も書き込まれている。映画では59歳のときに「ゲイの権利向上を目指すグループに入り、同性愛者に理解を求めるデモに参加」したというエピソードも語られていた。もちろん、小説を書くことは身近な人へのカミングアウトとは違っているかもしれない。若い人ばかりだった「ゲイの権利向上を目指すグループ」に長谷が馴染めなかったという話もあった。それでも「ゲイであることを誰にも打ち明けることなく」「孤独の中で生きてきた同性愛者」というあまりに強い物語の枠組みは、そこにあったはずの複雑な生の経験を平板化してしまってはいないだろうか。
本作の最大の見どころは、オープンリーゲイのケアマネージャーとして活動する梅田政宏との交流を介して長谷がLGBTQコミュニティと改めて出会い、90を超えてなお新たな関係を築いていくその姿にあるだろう。だが、それ以上に私に強い印象を残した場面があった。最後にその場面について触れておきたい。そこには物語の枠に収まりきらない現実が、しかしはっきりと映画のフレームの内部に捉えられていたように思うのだ。
映画の終盤、ボーン・クロイドという人物が長谷を訪れる。ボーンは本作の前身にあたる『93歳のゲイ〜厳しい時代を生き抜いて』がテレビで放映されたのを見て長谷に興味を持ったのだという。そして二人は交流を深め、あるときともに銭湯に行くことになる。それは一度も銭湯に行ったことがないという長谷に対するボーンのサービス(?)なのだが、その話を持ち出された長谷はなぜかふんどしを取り出してみせる。二人でそれを身につけて銭湯に行きたいというのだ。それを聞いてボーンは困惑し、観客である私もまた困惑する。なんなのだそれは。
訪れた銭湯でボーンは長谷の背中を流す。それは一見したところ心温まる交流の場面だ。だが、ふんどしの一件は(結局、ふんどしを着用しているのは長谷ひとりなのだが)そこに性的欲望の気配とでもいうべきものを忍び込ませる。それ以前のパートで、ほとんど何の脈絡もなく「ふんどし飲み会」の様子(それは長谷とは関係のないゲイ男性たちの、言わば「同好の士」たちの集まりなのだが)が挿入されているのも構成としては周到だ。私が困惑したのは「いい話」だと思って見ていたところに予期せぬかたちで欲望が持ち出されたからだ。言い換えれば、私はそこまで映画を見、長谷の人生を辿りながら、そのようなかたちで長谷の欲望を突きつけられることを予想していなかったのだ。だから動揺した。しかしその場面、その欲望の発露にこそ、誰とも共有されてこなかったゲイ男性としての長谷の姿はたしかに映し出されていた。私にはそう思われたのだった。
鑑賞日:2024/04/25(木)