会期:2024/06/15
会場:明治学院大学白金キャンパス パレットゾーン白金 2階 アートホール[東京都]
公式サイト:https://www.meijigakuin.ac.jp/event/archive/2024/vTXpJahS.html
会話劇『リリース』(作・演出:FUFUNI)はラッパーで詩人のFUNIと劇作家で俳優の浜辺ふうによる「語りとラップのパフォーマンス」。神奈川・川崎育ちで在日コリアン2.5世のFUNIと京都・東九条育ちで日本人の浜辺。ともに在日コリアン集住地域で育った二人が、コミュニティやアイデンティティをめぐるそれぞれの思いや葛藤を語り合うなかから立ち上がってきたのがこの『リリース』という作品だ。初演は2023年12月。早稲田大学で行なわれた「新しい日韓スタディーズを目指して」と題されたイベントの一環としての上演だった。今回の再演は初演を観た明治学院大学の宮﨑理と中央大学の李里花による企画で、宮﨑・李も登壇するトークセッション「もやもやするアイデンティティの先へ」との二部構成での上演となった。『リリース』というタイトルには二つの意味が込められている。解き放つこと。そして手放すこと。
[撮影:加藤優里]
パフォーマンス冒頭、自己紹介をしつつ二人はお互いに問う。なぜラップを、なぜ演劇をやっているのか。自分が生まれた1993年から「東九条マダン」というおまつりがはじまり、そこで地域住民が出演する「マダン劇」が上演されていたことから演劇は自分にとっては身近な表現だったのだという浜辺と、ラップは何もなくてもできるし日頃思ってる不満とかをぶちまけられるのがよかったのかもしれないというFUNI。ともに「怒り」を原動力に作品をつくっているところがあるという二人だが、一方で浜辺は演劇では怒りをストレートに表わし伝えることがなぜだか難しいのだとも言うのだった。そしてまずは浜辺によるラップが披露される。
[撮影:加藤優里]
浜辺の「怒り」とは何か。幼い浜辺が通っていたのは、着せ替えごっこ遊び用のハンガーラックに浴衣とチョゴリの両方がかかり、日本語と「ウリマル」のバイリンガルで挨拶し歌を歌うような保育園だった。「ウリマル」とは韓国朝鮮語で「私たちの言葉」のこと。だが浜辺は「あんたは日本人やねんから、ウリマルじゃないやろ」と言われてしまう。「ウリハッキョ」(私たちの学校=朝鮮学校)に通えないこと。自分には二つの名前がないこと。民族教育を受けられないこと。それらは幼い浜辺にとって理不尽な線引きでしかなかった。そうして幼い浜辺は自らが生まれ育ったコミュニティの内部にあって疎外され、そのことに対して理解されない怒りを抱えていくことになる。なぜ自分はほかの子と違う扱いを受けなければならないのか。なぜこの怒りは理解されないのか。怒りの原点を吐露するリリックは激烈だ。いまはもうそれほど怒ってはいないという浜辺の、しかしかつて確かに抱いた生々しい感情がそこには刻まれている。
[撮影:加藤優里]
一方のFUNIが披露するリリックはこうだ。「同じコリアンでも色とりどりだ/レッテル貼られるのは懲り懲りだ」。在日コリアンコミュニティの一員でありたいと願う浜辺とコリアンとして括られることに反発するFUNI。一見したところ真逆のように思える両者だが、浜辺の怒りの一端が日本人というだけでひと括りにされることにあったことを考えれば、その怒りはほとんど同型のようでもある。「故郷」たる韓国を訪れた幼いFUNIが「日本人」と呼ばれるという体験をしたことを考えればなおさらだ。「母国で呼ばれてた日本人/そして気づいたどこにもない安息地」。
[撮影:加藤優里]
こうしてパフォーマンスは二人がラップを披露し、互いにコメントし合うかたちで進んでいく。次の場面では浜辺の書いたリリックをFUNIが浜辺としてパフォーマンスしてみせる。あるいはFUNIの話をもとに浜辺がセリフを書き、FUNIを演じてみせる場面もある。ラップを通じて解放された感情は手放され、手渡されることで演劇になる。それらは互いの語りからその背後にあるものを引き出し相手を理解しようとする対話のプロセスであり、同時に自らをある種の呪いから解き放つプロセスでもあるだろう。
パフォーマンスからはその背後にあるもの、歴史的社会的な問題も透けて見えるが、しかし語りはあくまで個人的なものに留まっている。二人の怒りが何に起因するものであるかを思えばその理由は明らかだ。大きな枠組みで語ろうとした途端に見えなくなってしまうものがあるのだ。
パフォーマンスは二人のラップの応酬と観客とのコールアンドレスポンスで締め括られる。「人に話したことがない(ない)/話を話してみたい(たい)/過去から解き放ちたい/独り言じゃ言葉にはならない」。そして場は観客との対話へと、さらにその外へと開かれる。対話は必ずしも完全な理解をもたらすわけではない。二人は互いに多くの共通点を見出したようだが、もちろんそれは二人が異なっていることを大前提としての話である。それでもまずは対話をはじめてみること。いや、話をし、話を聞いてみること。そういえば浜辺は演劇の面白さのひとつとして、演じる人と演じられる人のずれを挙げていたのだった。対話を通して改めてずれを見出してみること。そのずれは時に自分自身を縛る呪いを解くきっかけにもなり得るはずだ。
[撮影:加藤優里]
初演も再演もそれぞれ一回きりの上演だったが、FUNIと浜辺は今後も各地でこの『リリース』という作品の上演を続けていきたいと思っているのだという。一観客としても、大学はもちろんそれ以外の場でも上演が実現することを、そしてこの作品を通してさらに多くの対話が生まれることを願ってやまない。
鑑賞日:2024/06/15(土)