発行日:2024/05/30
発行所:晶文社
公式サイト:https://www.shobunsha.co.jp/?p=8218

フェミニズムやクィアの視点から「ゲーム」を評する画期的な書。映画や文学批評ではクィア・スタディーズの豊富な蓄積があるが、ゲームを批評の俎上にのせた点に本書の画期性がある。1989年に発売された携帯ゲーム機が「ゲームボーイ」と命名されていたように、ゲームは「男の子文化」として発売・受容・認知されることが強く、本書でも、ミソジニー、セクシュアルマイノリティ差別、人種差別が再生産される男性中心主義的なゲームコミュニティの有害性について指摘される。だが一方で、ZINEのように、フェミニズムやクィアのコミュニティがゲーム文化にも存在すること、そしてゲームをプレイすること自体のクィアな可能性を本書は教えてくれる。大手の資本が投入される大作アクション映画で女性主人公が活躍することが増えてきたように、女性やセクシュアルマイノリティが活躍するゲームや、主人公の性別を女性/男性の二択に限定せずに選べるゲームも少なくない。特に、小規模で開発されるインディーゲームでは、開発者自身の個人的な経験に基づき、フェミニズムやクィアの視点で製作されたゲームも多いことが紹介される。日本語の翻訳を有志が手がけた事例も紹介され、ミソジニーやクィアへの差別が根強いゲームコミュニティとは別の、クィアなコミュニティがゲーム文化にもあることが示される。

本書は、こうした豊富な事例を、個人の能力主義の礼賛が隠蔽する差別の社会的構造、差別の交差性の忘却、「家族との和解」という呪縛、恋愛中心主義など批判すべき点も交えながら紹介する。平易な文体で読みやすく、ゲームに詳しくない人向けの解説や配慮もなされている。(後述するが)本書は「ゲーム批評」であると同時に、読者をクィアな「実践」に向けて開いていくものであり、大手の流通にのらないゲームの購入方法、プレイ可能な機種(PCでも遊べるか)、プレイにあたってのアドバイスといった情報も充実している。著者の近藤銀河は、20世紀初頭の美術とレズビアン的表象を研究する美術史研究者であり、ゲームエンジンやCGを用いた作品を発表するアーティストであり、フェミニスト、パンセクシュアル、車いすユーザーでもある。ゲームにおける障がいの表象とアクセシビリティの進化、空間を自由に歩き回れる「オープンワールド・ゲーム」の意義と限界についても紹介される。

ゲームの批評と実践にとって、フェミニズムやクィアの視点はなぜ重要なのか。異性愛中心主義やシスノーマティブが自然化・規範化された社会においては、規範的でないとされる生/性を生きる人々にとって、日常生活自体がすでに「無理ゲー」である。社会の多数派が決めたルールに沿ってプレイすることの困難さと、娯楽や別の世界への想像を与えてくれるはずのフィクションの世界にも「自分と似た存在」「同一化や感情移入できるキャラクター」を見出し難く、現実世界からもフィクションからも二重に疎外されるという苦痛。フェミニズムやクィアの視点から日本現代文学を研究する岩川ありさは、「ファイナルファンタジー」についての会話が登場するミヤギフトシの小説『ディスタント』論のなかで、クィアの生存可能性とゲームの関係について述べている。ポピュラー・カルチャーとして大きな影響力をもつゲームの登場人物や世界観に「性、身体、欲望の規範的なあり方を問うような物語があれば、クィアな人々は生きのびるための可能性をえることができる。数百万、数千万人の人びとが同時代的に受容するポピュラー・カルチャーこそ、多様性が確保されなければならないのである」。本書の紹介例では、世界的ヒットシリーズ「The Last Of Us」の2作目で、同性との恋愛が「オプションのひとつ」ではなく、レズビアンを主人公に据えた物語であることの重要性が指摘される。

もちろん、「クィアが登場する物語」はゲームに限らない。映画や漫画、アニメ、小説といったフィクションとは異なる、「ゲーム」ならではの意義や可能性はどこにあるのか。ゲーム内の「ルール」「選択肢」が開発者によって予め決められている事態は、本書でも言及されるように、ジェンダー規範やヘテロセクシュアリズムが支配的な社会を生きることと比喩的に重なる。「ゲームのルール」に疑問を持ちつつも、制限のなかで少しだけ、わずかであっても、主人公として行動を主体的に選択すること、主体的な選択が可能であるという意志を持ち続けること、その経験の蓄積の先に見えてくる景色があること。

クィアな人びとの経験や日常を丁寧に描くと同時に、「プレイ体験」それ自体がクィアな批評性をもつ事例として特筆すべきなのが、『If Found…』である。90年代前半のトランス女性の物語が、「日記を消しゴムで消す」という特異な操作によって進行する。記憶が抹消されること、あるいは記憶を自ら抹消しながら生きていかざるをえないことは、マイノリティの存在を歪曲・抹消する歴史を記述する権力の問題であると同時に、性別移行前の人生や名前を自己否定しながら生きるというトランスの個人の生の困難さでもある。過去の記憶を辿ることが、抹消と同時に過去と向き合う想起の作業でもあり、断片化された過去を通して「ありえたかもしれない未来」を再想像/創造すること。「唯一の歴史」として直線的に固定化されたものではなく、綻び、亀裂を抱え、流動的で分岐をはらんだものとして歴史を読み替えること。あるいは、「抹消された過去」の白いページを、「未来を書き込むための余白」に変えること。ゲームの終盤、危機をくぐり抜けた主人公/プレイヤーが、消しゴムを「ペン」に持ち替え、さらに通常はゲーム冒頭にある「キャラメイク」の操作が最後にやってくるという展開は感動的だ。アイデンティティを否定される苦痛をくぐり抜けた後に、「今、そしてこれから、どのような自分で生きるのか」を主人公/プレイヤーは主体的に描き、書き綴ることができる。

もちろん、過去を可塑的なものと捉え、過去の解釈から望むべき未来を作り出すという姿勢は、歴史修正主義に接近する危うさもある。本書では、そうした危険性への自己批判を盛り込んだゲームとして、タロットカードの占いで過去と未来を作り変える魔女たちのシスターフッドを描く『The Cosmic Wheel Sisterhood』が言及される。

クィアな人びとの経験や日常を丁寧に描くインディーゲームがいくつも紹介され、心を打つなか、ファンタジーの世界という緩衝材を置くことで、現実世界の差別やヘイトに対して「フィクションという距離」を取って対峙することができるのが、『Get In The Car, Loser!』だ。トランスジェンダーでレズビアンの主人公と、パンセクシュアル、ノンバイナリーとクィアな登場人物たちがパーティーを組み、「敵」のヘイト集団に「剣と魔法」で戦う。ぶっとんだ設定だが、「現実にはこんなパーティーはいなくても、空想の世界があれば生きのびられる」というクィアの生存可能性とゲームの関係を示す一例だ。

普段ゲームをまったくしない私だが、本書の読書経験自体、ある意味「ゲーム」的だった。ゲームという未知の領域を、著者の近藤銀河という案内役に導かれて探索し、(内面的な)対話を展開し、知名度のある人気作という入口から入って、個人的な経験がより反映されたインディーゲームへという「ダンジョン移動」をし、要所要所で紹介される強化アイテム(=関連文献)を集めていく。そして、ゲームの世界から現実への「帰還」は、実際にゲームをプレイしてみること、さらに「自分でゲームをつくってみること」という未来の実践として示される。フェミニズムやクィアの視点からのゲーム製作も、アクティビズムになりうる。(現実には技術的に困難でも)「こういうゲームがあったら」と空想するだけでも無限の選択肢がある。

「過去を想像しながら未来を編み直すこと」というクィアな実践は、本書の構成にも反映されている。終盤で紹介されるクィアなインディーゲームは、ドット絵や粗いポリゴンなど、あえて80年代、90年代的なレトロなスタイルを取っている。それは、「こういうゲームがあったら」という近藤自身がかつて子ども時代に抱いていた想像をなぞりながら、そうした想像を「ありえたかもしれない過去」として現実化・・・するものでもあることが指摘される。ゲーム(の製作)がクィアな実践となりうることを多角的に語る本書は、「読書」という経験を通して、離れた場所にいる人びとをRPGゲームにおける「旅の仲間」のようにつなげていくだろう。

★──岩川ありさ「問われ語りの回路」(浅沼敬子編『ミヤギフトシ 物語を紡ぐ』、水声社、2023、p.65)

執筆日:2024/06/30(日)