会期:2024/06/28〜2024/07/01
会場:クマ財団ギャラリー[東京都]
公式サイト:https://kuma-foundation.org/gallery/event/01251997/

アーティストの「筒 | tsu-tsu」(以下、筒と略記)による「ドキュメンタリーアクティング『01-25-1997』」は、単一の身体に私とあなた、あるいは私たちの経験を交差させ、小さな物語に緩やかな繋がりをもたらす試みであった。

「ドキュメンタリーアクティング」と称して筒が実践する独自の方法論は、実在する人物や周囲の人物への取材に基づいて演じる、一連の体系化された行為の連続体を指す。事実に基づいて構成・記録されるドキュメンタリーと、役者の身体を通して演技として引き受けられるアクティングという概念が掛け合わさるように、異なる人物の経験を自身の身体と解釈を通して代入する、そのような媒介として筒は機能する★1

同一の生年月日をもつ人は統計上、世界中に約20万人ほどいるというが、本展では筒の誕生日(1997年1月25日)に生まれた約20万人に及ぶ人々に向けられた想像力から出発している。ドキュメンタリーアクティングでは一連の過程──取材、アクリプト(作家独自の概念で、「演じるための地図」を意味する)の作成、稽古、演技、対話──に同等の価値が見出され、彼・彼女らと出会うための捜索過程のプロセスも作品の一部に含まれる。そのアプローチは公共の場での呼びかけ、誕生日を描いたグラフィックTシャツの制作・配布、SNSでの検索など、多岐にわたりユニークであった。そうして出会った人々への取材を通じて人となりや仕草、日常の一風景がアクリプトとして記録される。

[撮影:加藤優里]

4日間の展示期間中、同じアクリプトが一日6回、合計24回も上演された。今回演じられたものは、カフェでの取材の会話から始まって次第に相手の発話を擬態していき、断片的な日常の風景に入り込む没入的な体験へと移り変わるというものだった。特徴的なのは同じアクリプトが繰り返し演じられることで対象が反芻される点にある。微妙な動作の違いや言い淀み、環境との相互作用によって少しずつ異なる対象像が絶えず更新される。いわば印象を再構築し続けることで複合的な解釈が束ねられ、「私」と「あなた」、あるいは「私たち」が交差するパフォーマンスが組み立てられる。役者の身体を半透明な養生シートを隔てて鑑賞させることで、より曖昧な存在として描いている点も効果的だった。

このような主体の遷移を通じて「私」でも「あなた」でもない間主観的な存在が筒の身体のかたちで表象される。そこでの肉体はオブジェクティブに存在しながらも、ある種の模倣された主体を中継する地帯としても機能する。それは主客の二元論に揺らぎを与え、自身の存在すらも仮設的な存在として引き受けようとする姿勢であるように感じた。身体的な基底に根ざしながらも、触れ合えそうな関係性の彼方に拡がる公共圏を想像すること。ひとつの主体や身体からラディカルに逸脱するあり方がそこにあった★2

本作品で筒が出会った23名の同一の誕生日に生まれた人物たちのうち、セントラル・パークで遭遇したZane Zovakは、以下のように話す。

「私たちは数時間しか居合わせず、また違う人生を歩んでいく。それは外の世界があるってことに気がつく瞬間なんだ」

隣接する世界への想像力を喚起し、詩的な経験の巻き戻しによって再生された時間が再び日常へと還元されることを示唆する言葉である。個人と社会の関係性の輪が再構成されることで大きな物語から逃れた微細な物語を紡ぎ出す──複数の存在による抵抗の姿がドキュメンタリーアクティングという虚実のあわいの語りにあった。

鑑賞日:2024/06/30(日)

★1──筒というアーティストネームは、「あらゆる人間存在が共有するもの」を表わす概念として築かれたパフォーマンス上の主体の名称であるという。
★2──筒は現在、山梨県富士河口湖町にあるアーティスト“ラン”レジデンス「6okken」も主宰しており、公共圏の想像はひとつの作品を超えた実践のなかで日々育まれている。6okkenでは、アーティストという存在を「自らが手放せばこの世から消えてしまう視点や動機に、つくることを通じて向き合い続ける態度を持つひとびと」と定義し、ストラクチャの構築から生命活動の連帯を実践する活動を行なっているという。