(前編から)
7月19日:蜷川実花展 with EiM: 儚くも煌めく境界
会期:2024/04/06〜2024/09/01
会場:弘前れんが倉庫美術館[青森県]
公式サイト:https://www.hirosaki-moca.jp/exhibitions/ninagawa-mika/
AOMORI GOKAN アートフェス 2024に参加する展覧会のひとつ。
数年前より蜷川が活動を共にしているクリエイティブチーム・EiMとのコラボレーションによる展覧会。展示する、という点においてEiMの尽力が大きいのは言うまでもないが、その影響範囲は、空間構成だけでなく、各作品に添えられたキャプション内容にまで及ぶ(弘前れんが倉庫美術館によるテキストは展示冒頭の解説のみで、展示室に現われるキャプションはすべてEiMによるもの)。
最初の展示室では写真の足元から色付きの照明がプリントを照らし、作品によっては手前にネオン管が取り付けられている。二つ目の展示室では額縁じたいがデコレーションされており、暗い展示室をサーチライトのように白色の光が回り続ける。展示の目玉とも言うべきインスタレーションは透過性のある四面の布へのプロジェクションと、囲まれた内に吊るされた巨大な造花の束からなる。徹底して、写真に写るものの前後左右にもイメージが溢れており、鑑賞者の眼は写真に写るものだけを捉えることが難しい。もちろん、そのような意図による展示だろう。
第二展示室の様子。プリントの前後左右にイメージが複数存在している
1階の最後の展示室は、それまでと打って変わって、白く明るい部屋に小さめのプリントが額装されて並んでいる。壁には、父・蜷川幸雄が亡くなる前後の出来事を回想するテキストが添えられている。ここにきて、鑑賞者の眼は写真をついに捉え、何を観るべきなのかが明快に示された。
2階では大きなスクリーンへのシングルプロジェクションが待ち受けるが、そこに写るのはいくつもの光が重ねられたイメージで、最後の展示室で示される「弘前の」ソメイヨシノの写真は、背面に拡大印刷されたソメイヨシノのなかに埋もれている。
展示のシークエンス、つまり亡き父についての作品を焦点のようにした展示構成は明快だ。しかし、その明快さがもたらす経験や感情はすべて既知のもののように思えるのだ。各インスタレーション方法は蜷川がこれまでのキャリアから手応えを得たものだったろうし、写真そのものにも強い一貫性がある。こうした明快さは鑑賞者に感動を与えたかもしれないし、そのように思えるための道筋が用意されていたが、蜷川はこの展示を通じて、自身の作品と出会い直せたのだろうか? イメージの撹乱やドラマチックな経験の演出が明らかであるからこそ、そのほかの道はなかったのかと思わずにはいられない。
見ること・撮ること・観ることの連関が、あまりに軽視されてはいなかったか? あるいは、観ることだけがあまりに重視されてはいなかったろうか。その結果、私はここに存在していたプリントという物質を目撃しただけではなかったろうか。
7月19日:弘前エクスチェンジ#06「白神覗見考」
会期:2024/04/06〜2024/09/01
会場:弘前れんが倉庫美術館[青森県]
公式サイト:https://www.hirosaki-moca.jp/exhibitions/shirakami/
前述の蜷川展から廊下を数秒進むとすぐに本展が始まる。アーティストによる地域調査やリサーチベースドの作品制作が、進行中の活動として示される。
重要だと思われるのは、作家の調査や活動の行なわれる地域が必ずしも白神に限らないことだろう。例えば佐藤朋子は、本年は台湾、韓国での滞在制作を中心としており、弘前での活動は現在オンラインを主としている。佐藤の日記には台湾での様子が綴られているが、作家がその人であることで一連の記述には連続性が残される。
そもそも一般的に白神と呼ばれるエリアは、弘前から近いとは言いがたい。しかし、サイトスペシフィックであることは、対象の立地や作家の空間的な位置だけに依るものではない。滞在制作は、そこについて語るより、そこで語ることに意味があると言ってもよいだろう。美術館の継続的な取り組みとして、今後の展開に期待したい。
7月19日:成田書店
弘前れんが倉庫美術館から徒歩10分ほどに立地する古書店。地域資料の充実はもちろんのこと、弘前に製本職人がいたという「豆本」が大量に残っている。豆本は詩集、エッセイ、写真集、画集と内容もさまざまである。
地域調査だけでなく、各人の関心を刺激する大変よい古書店だった。再訪したい。
7月20日:鴻池朋子展 メディシン・インフラ
会期:2024/07/23〜2024/09/29
会場:青森県立美術館、松丘保養園社会交流会館[青森県]
公式サイト:https://www.aomori-museum.jp/schedule/13464/
鴻池朋子の大規模個展だが、青森への道中にプロジェクトを落とし、散らしてくるような鴻池の共同制作・活動をシェアする展覧会でもある。
他者の語りをテーブルニットとして縫い上げていくプロジェクトに見られるように、本展にはとにかく具体的で実践的な語りや声が溢れている。すべてを読み、聞ききるためには長い時間が必要だろう。
しかし弘前同様にここでもまた、作家の移動や経験の軌跡がそのまま何かを連ね、つなげていくことの可能性が示されているといえる。共同性や連帯、さまざまな取り組みが展示室に並ぶことの豊かさがここには確かにある。
そして同時に、鴻池のそうした取り組みが、剥製や毛皮といった標本的な生々しいモチーフをつねに伴って「作品」として現われてくることに、改めてギョッともするのだ。
別会場の松丘保養園 社会交流会館の外観。松丘の森に囲まれた中に位置する。松丘保養園内で見学可能なのは同館のみ
なお本展は別会場として、県立美術館から車で5分ほどの松丘保養園にも展示がある。ハンセン病の療養施設、つまりかつてはハンセン病隔離政策に基づく隔離施設であった当園では現在も高齢の入所者が生活を続けている。展示には鴻池が近隣の中学生とつくった作品や、施設入所者の作品が混在して展示されている。保養所の歴史を説明する常設のパネル展示も残されている。展覧会はいまここに起きていることではあるが、個々の展示がもつ時間や空間の奥行の存在することがここではよくわかる。県立美術館だけでなく、ここまで足を伸ばすことを強くお勧めしたい(来場者のすべてが書いていないにしても、芳名帳への記帳のあまりの少なさはショックであった)。
7月20日:AOMORI GOKAN アートフェス 2024 後期コレクション展 生誕100年・没後60年 小島一郎 リターンズ
会期:会期:2024/07/06〜2024/09/29
会場:青森県立美術館[青森県]
公式サイト:https://www.aomori-museum.jp/schedule/13937/
表題のとおり、大量の作品を所蔵する青森県立美術館では、コレクション展もAOMORI GOKAN アートフェス 2024の一部として扱われている。後期では、津軽を撮り続けた写真家・小島一郎(1924-64)の作品群が展示されている。
コントラストを極限まで強めた白黒写真のオリジナルプリントそのものも一見に値するものだが、「小島トランプ」と呼ばれる、手のひらサイズの小さなプリント群の展示が今回の注目すべきものだろう(撮影不可のため、ぜひ足を運んでみてほしい)。
大判とする前の検討や見直し、他者からのフィードバックを目的に持ち歩かれたという「小島トランプ」は、似たカットや縦横を変えた撮り直しがいくつも含まれる。その数枚ずつの写真の変化は、小島が確かに移動し、シャッターを切ってきたことを確かに伝えてくる。それらに導かれるようにさまざまな時期のプリントを辿る鑑賞経験は、見ること・撮ること・観ることの重なりを感じさせるし、時間のなかに空間が/空間のなかに時間があるような、写真というメディアがもつある実感を再確認させてくれる。
最後の展示室へ入る手前のスペースで、39歳で亡くなった小島が、一度だけ宮本常一と出会っていたことが示される。根拠資料は、宮本の日記をすべて書き起こした資料からだ。とある一日の1行に小島と断定可能な人物との対話があったことが記されている。その小さなフォントサイズの1行を丁番に、宮本による津軽の調査写真が最後の展示室で展示されている。
現在も続く調査研究が、新たな展示のシークエンスを示しうることは想像に難くない。亡くなった人もまた、あるいは亡くなった後でさえ、展示という形式は、異なる道から出会い直すことを可能にする。
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陸奥、道の奥、本州の北端地域。海を渡り他所へと行くことはまだできる、しかし陸路ではここまでだ。ここから引き返し、何に出会うのか。往路とは異なる復路の道を考える。中心からの距離感ではなく、移動の途上として端や奥を考える。
美術館を中心に巡りはしたが、ここがどこであるかを考えることなく、観るということはできないのだろう。
鑑賞日:2024/07/19(金)、20(土)