会期:2024/06/09〜2024/06/16(「theirs」)/2024/08/21〜2024/08/25(「ours」)
会場:アトリエ春風舎[東京都](「theirs」)/STスポット[神奈川県](「ours」)
公式サイト:https://www.texissyu.com/fuzzy

『ファジー』はTeXi’sが「男女二元論が生み出してしまっている『加害性』について考える1年間のプロジェクト」。6月に上演された1作目「theirs」では「男性が背負っている加害性を表面化し、その先にある人間として誰もが持ち得る普遍的な加害性を描」くことが、今回上演された2作目「ours」では「女性も背負っている加害性を表面化し、加害を生み出してしまっている社会構造を描」くことが目指されていたのだという。この12月には「theirs」「ours」各作に出演していた俳優全員によって創作される三部作の完結編「yours」の上演が予定されているのだが、完結編に向かう前に、ここまでの2作品で何が描かれていたのかを振り返っておきたい。

TeXi’s『ファジー「ours」』より[撮影:金子愛帆]

TeXi’s『ファジー「theirs」』より[撮影:大橋絵莉花]

「theirs」と「ours」は大まかな筋や構造を共有している。同じ戯曲をベースとしながら出演俳優の個性や性別によって異なる上演として立ち上げられた、いわば双子のような作品だと言っていいだろう。「theirs」と「ours」とでは実のところ出演者の人数が4人と5人で異なっており、セリフや構成はまったく同一の箇所がある一方で相当に違っている部分もあるのだが、そのことによって生じているはずの差異に気づかずにいられる程度には両作の印象は似通っている。だからこそ時折はっきりと浮かび上がる差異が印象に残るのだが、ここではひとまず作品全体の構造や筋を確認しておこう。

これまでのTeXi’s作品のすべてがそうであったように、「theirs」「ours」もまた、三つのレイヤーで構成され、俳優はレイヤーごとに異なる(しかし連続性があるようにも見える)キャラクターを演じていくことになる。今作のそれらは「家族レイヤー」「解体作業レイヤー」「劇場レイヤー」と名づけられており、「家族レイヤー」ではどうやら同じ家に住む(家族ごっこをする?)面々の日々が、「解体作業レイヤー」では家の解体を請け負った作業員たちのやりとりが描かれる。残る「劇場レイヤー」は、例えば俳優が観客に直接話しかけたりするような、言わば現実と地続きのレイヤーである。とはいえ、ひとまずこのように整理してはみたものの、それぞれのレイヤーは観客にとって必ずしも明確に判別可能なわけではない。

TeXi’s作品では複数のレイヤーを行き来しながら場面が目まぐるしく展開するのみならず、複数の俳優が同時に発話する場面も多いため、上演の場で起きていることを観客が一度の観劇で十全に理解することはほとんど不可能なのだが、「theirs」「ours」においてはおおよそ次のような筋が観客に共有されることになるだろう。

TeXi’s『ファジー「ours」』より[撮影:金子愛帆]

「家族レイヤー」では同じ家に住む4人/5人のうちのひとりが部屋に引きこもってしまっている。ほかのメンバーはそのひとりへの対応(好きにさせておくのか、それとも無理矢理にでも部屋から連れ出すのか等々)や家の中での役割、互いの関係についてしばしば揉めている。引きこもっているひとりはどうやら自らの身体に違和があるらしい。

「解体作業レイヤー」では何者かの依頼で作業員が家の解体に臨んでいる。こちらも作業の進め方や仕事への姿勢、互いへの態度などで揉めているのだが、そのうち、作業員のひとりがそこは自分の家だと言い出し、現場はさらに混乱する。このまま作業を進めるべきか否か。そもそも解体を依頼したのは誰なのか。

TeXi’s『ファジー「theirs」』より[撮影:大橋絵莉花]

「解体作業レイヤー」における家がほとんどあからさまに家父長制のメタファーであり、ひとまずのところ解体すべき対象(「加害性」の元凶として?)とされているのに対し、「家族レイヤー」における家は(特に引きこもっているひとりにとっては)シェルターのようなものであり、だからこそ解体作業は停滞することになる。一方、解体作業が「バラすこと」という言葉で情報の開示と結びつけられていること、引きこもっているひとりが自室から無理矢理に外に出されそうになる場面があることを考えると、ここにはクローゼットでいること(=性的指向や性自認などを他人に明かさない状態でいること)とアウティング(=性的指向や性自認などプライバシーに関わる情報を本人の同意なく開示すること)の問題も重ねられていることがわかる。同時に、そこから出ることのできない「家」(あるいは部屋)は違和を感じながらも取り替えることのできない「体」そのものの謂でもあるだろう。特に「theirs」においては引きこもっている「よっちゃん」(松崎義邦)はフリルのついたワンピースのような衣装を着ており、あからさまにトランジェンダー女性を思わせる人物となっている(ちなみに、TeXi’の作品には俳優のひとりが観客に向かって人称や見た目で自分の性別を判断しないでほしいと語りかける[ほとんど物語とは関係ないようにも思える]場面が必ず用意されている)。

TeXi’s『ファジー「theirs」』より[撮影:大橋絵莉花]

TeXi’s『ファジー「ours」』より[撮影:金子愛帆]

二つのレイヤーが半ば溶け合うようにして訪れるひとまずの結末において、家はロケットへと組み換えられ(ここにも複数の意味を読み込むことができるだろう)、宇宙へと発射されることになる。だが、作中でも示唆されているように、それですべてが解決するわけではない。二つのレイヤーはなぜ(半ば無理矢理とも言えるかたちで)重ね合わせられなければならなかったのか。そこから見えてくるものは何か。そもそも「男女二元論が生み出してしまっている『加害性』について考える」プロジェクトの1作目が「男性」キャストのみ、2作目が「女性」キャストのみで(=男女二元論に基づいて)上演されたのはなぜか。家の解体を物語のスタート地点にしてしまったことで、そもそも家の解体など思いもよらないような人々の存在(それはこの日本社会においては未だ多数派なのではないだろうか)が抜け落ちてしまってはいなかったか。掲げられていた「普遍的な加害性」や「社会構造」ははたして本当に描かれていたのか。「theirs」「ours」とは大きく異ならざるを得ないであろう「yours」の上演を待ちながら、考えるべきことは無数にある。

TeXi’s『ファジー「theirs」』より[撮影:大橋絵莉花]

TeXi’s『ファジー「ours」』より[撮影:金子愛帆]

鑑賞日:2024/08/24(土)