会期:2024/08/28〜2024/09/01
会場:小劇場 楽園[東京都]
公式サイト:https://gekidansport.com/

人生の意味とは一体なんだろうか。無駄に過ごしているように思えるこの時間に、はたして意味などあるのだろうか。無駄を意味するタイトルが冠された劇団スポーツ『徒』(作・演出:内田倭史)は、見知らぬ倉庫のような場所で目覚めた人々がそこから何とか脱出しようとする(?)《不条理誤謬コメディ》として幕を開ける。

舞台は何もかもが赤く塗られた倉庫のような場所。そこかしこに転がっている人々は皆、体のどこかがロープで縛られ、あるいは手錠で他人とつながれた状態である。やがてひとりまたひとりと目が覚めた人々は、自分たちが自らの名前も含めて一切の記憶を失っていること、そしていまいる場所から出られない状態にあることに気づくのだった。なぜここにいるのか。誰の仕業なのか。どうすれば出られるのか。そもそも自分たちは何者なのか。

なにもかもがわからないまま、それでもどうにか脱出しようとジタバタする一行だったが、やがて男の死体と銃が発見されたことをきっかけに少しずつ記憶を取り戻していく(?)ことになる。まず記憶を取り戻したのはFBI捜査官のトム(古賀友樹)。彼は妻・ジュリー(梁瀬えみ)と娘・サニー(百瀬葉)を家に残し、悪の組織・レッドエレファントの捜査に従事していた。同じ頃、地元警察のジャック(静谷篤)とダニー(竹内蓮)もレッドエレファントのアジトである廃倉庫に潜入するが、ボス(二宮正晃)に撃たれ殉職してしまう。一方、FBIからスパイとして送り込まれていたルイーズ(百瀬)はレッドエレファントの情報を持ち出すことに成功する。そのことに気づいたボスはロミ男(戸川優)にルイーズの始末を命じるのだが、密かにルイーズに思いを寄せていたロミ男は逆にボスを撃ち殺してしまうのだった。そこにたまたま居合わせたトム、そしてトムに銃を届けようと追いかけてきていたFBIの清掃員(内田倭史)は流れ弾が当たったボンベから漏れ出たガスでロミ男もろとも気を失い──。

ぐだぐだで辻褄も合わず真偽のほども定かではない再現場面の果てに明らかになるのはしかし、ここがジュリーこと嶋村の夢のなかであり、周囲の人々もまたFBIや悪の組織などではなく、嶋村の勤め先のリサイクルショップ「お宝倶楽部」の店員や客、あるいは向かいのコンビニの店員に過ぎなかったという事実だ。

トムこと春木はお宝倶楽部の常連客の冴えない中学生、サニーこと成田はお宝倶楽部のバイトで、ボスこと大川は感じの悪い店長、ジャックこと横須賀とダニーこと近藤はバディどころかいまいち噛み合わないコンビニ店員同士で、FBIの清掃員こと毛利はお宝倶楽部の清掃を請け負っていた出入りの清掃員に過ぎなかった。劇的なことは何もない現実。そんななか、唯一のドラマらしきものとして嶋村は成田が書いた脚本で一緒に映画を撮ろうという約束を交わしていたのだが、その約束も成田が理由も告げずに突然退職したことによって宙に浮いてしまう。現実の嶋村は「主人公」になり損ねていたのだった。

嶋村の吐露するそんな「真実」とそれを受け入れるほかの大人たちに対し、中学生の春木は「そんなの大人じゃない!」と怒りを爆発させる。それは不甲斐ない自らの現実に対する怒りでもあるだろう。「なんとかできるのは嶋村さんしかいないんですよ! 嶋村さんの夢なんだから! 嶋村さんが主人公です」等々の言葉に背中を押された嶋村は、成田に主人公を演じてほしいと頼まれた日のことを思い出す。「そうだ、私が主人公なんだった。……あの日、私は生まれてきた中で一番嬉しかったんです。なんで忘れてたんだろう、そんな大切なこと」。

嶋村=ジュリーたちは再び妄想=物語=夢の力を借りてボスと対峙し、今度こそサニー=成田の救出に成功する(なぜか人形劇として展開されるこの場面は本作のクライマックスなのだがここでは割愛)。大団円を経てやがて夢から目覚めた嶋村は大川店長に有給休暇を申請し、成田を探しにその故郷である宮崎へと旅立つことになるだろう。

当日パンフレットには「もう一度、物語を信じるための不条理脱出コメディ」という言葉が記されている。この「不条理」は現実と読み替えることができるだろう。チラシやホームページには「わからない…。何がわからないのかもわからない…。」というキャッチコピーもあるが、何もわからないのは人生のデフォルトでもある。そんななかで人生を歩んでいくための指針としての物語=夢を再び信じること。

さて、しかし正直に言ってしまうと私はこの作品にはいまいち納得できないでいるのだった。前2作と同じようなメッセージを発しているだけに、構成にせよ演出にせよ前2作と比較するとあまりに緩い(即興で演じられる場面が多く、よく言えば俳優に委ねられているとも言えるが……)点も気になったのだが、そもそもなぜ嶋村が物語=夢の力を再び信じられるようになったのかが描かれていない点がいただけない。「忘れてたら、思い出せばいい」という言葉は感動的だが、現実を前に挫折した夢を再び信じろというのはなかなか酷なメッセージでもある。だからこそ、なぜ嶋村が再び物語=夢の力を信じられるようになるのかは重要なはずだが、そこは勢いといい感じのセリフで何となく乗り越えられてしまう。

あるいは、人生を歩んでいくのに夢=物語は本当に必要なのだろうか。アフタートークでの内田の話によれば、この作品はもともと、監禁された人々が何もわからないまま右往左往し続けるだけのものになる予定だったのだという。しかしそれでは保たなかったので途中から物語が導入されることになった、という創作の経緯自体がこの作品の物語をなぞるようでもある。だが、徒=無駄に思えても充実した人生だってありえるのではないか。そんなことを思ってしまうのは、即興が多分に導入されたFBI妄想パートでこそ俳優たちがもっとも活き活きしているように見えたからにほかならない。脱出することも意味を知ることも叶わない自らの人生を、それでも活き活きと生きていくこと。それこそが真に自らが自身の人生の主人公であることを引き受けることではないか。なるほどそれもまたタフな道であることは確かだが、俳優たちの姿はそれを体現していたように思うのだ。

鑑賞日:2024/08/29(木)