会期:2024/09/03~2024/09/07
会場:元映画館[東京都]
公式サイト:https://www.moto-eigakan.com/museum

「Poltergeist」は川原圭汰、岸裕真、小林万葉、清水恵人、戸谷太佑、星加曜、水野幸司の7名による共同制作展であるが、コンセプトからディレクションまでの大きなフレームが水野によって引かれている印象が強い。“poltergeist”。騒がしい幽霊——しかし、ここでは「精神のぼやき」とでも訳し変えてみるのがいいかもしれない。精神はぼやく。明朗な発話ではなく、テレパスのような内言の直接伝達でもなく。ぼそぼそと、とるにたりないスキャットとしてこの世にあらわれる。それはすなわち、耳を傾けることに対するアフォーダンスなのだ。聴こうとすることそのものがそれを音に「する」。そして音に「なった」ものはもはや、聴かれなければならない。

トーマス・エジソンが晩年、霊界通信機の開発に没頭したことはよく知られている。20世紀初頭におけるこうした心霊主義の復権は、ひとつにはテクノロジー環境の変化によるものであり、もうひとつには第一次世界大戦の影響があったとされている。物質と非物質(≒情報)がテクノロジーを介して交換可能になったことは、世界大戦による未曾有の規模の大量死をいかにして受けとめるかという問題系と結びつき、生死の境界を越えた情報交換の可能性を探索するに至る。精神エネルギー/霊的エネルギーという語は、その存在の如何が重要なのではない。精神や霊といったものを宿らせるメディウムとして、エネルギーという物理学の根幹を成す概念が採用されたこと自体が重要なのだ。

展示は大きく3つのエリアに分かれている。分厚いカーテンをめくって空間へと入ると、まず表面にびっしりと文字のようなものが刻まれた直方体のオブジェ《怪形異態智械碑序》が現れる。これは生成AIによって出力された存在しない「漢字」を「文字組み」することでつくられている。読みや文法も存在しないはずの線の群を文字として扱うこと、その行為自体がそれを文字たらしめていく。プログラム生成された膨大な「存在しない図形」の辞典を目指したJannis Maroscheck『Shape Grammars』なども彷彿させるだろうが、漢字自体が夥しい異体字によって常に存在と非存在の間で振動するものであることを踏まえれば、本作はより胡乱な存在感を帯びてあらわれる。

続く空間では、壁一面に映像作品《mirage》が投影される。本作は、上部のカメラによって捉えた鑑賞者の映像から輪郭線を抽出し、半リアルタイムに映像に重ね合わせ続ける、というインタラクティブ性を持っている。幻覚を意味する“mirage”がその語源において“mirror”=鏡へと繋がることを思い起こさせるが、重要なのは鑑賞者が「それが鏡であること」に気づくまでにラグが生じる構成になっていることだろう。つまりそこには、一方的に鏡に映しとられる時間が存在する。自己認識の道具としての鏡がその機能を解体され、誰にも見られることのないイメージを出力する時、それは鏡像の二次性を離れた異質な他者となる。また、本作が映すイメージが線画であるという点も興味深い。すなわちそこに映る鑑賞者は人間と文字の境界的な位相へと導かれているのだ。

最奥の開けた空間では、スクリーンに映し出される《Siralos》を背景に、無数の「ポルターガイスト」を宿した装置たち——《alien bleath》《Plasma》——がめいめいに駆動している。あるものでは、霧吹きをかけられたバスソルトの発泡音が収集される。あるものでは、揺れる蛍光灯が金属フレームにぶつかって音を鳴らす。またあるものでは、回転するターンテーブルが周期的に磁石を引きつけている。一方の《Siralos》は明らかに“Solaris”のアナグラムであり、展示会場内で集められた音をAIが言語として無理矢理「解読」し、それをプロンプトに生成された映像が流れ続けている。つまりここで《Siralos》は、騒ぐ霊たちの声を聴く——そしてそれによって霊たちを存在せしめる——存在としてある。だが面白いのは、この展示会場においてもっとも響き、繰り返されている音とは、在廊する水野本人による解説だということだろう。展示を解説する言葉それ自体によって展示がつくられる、という意味において、本展を貫く文字と声の問題系が絡み合っていく。

さて、“spirit”であれ“psyche”であれ、魂や精神を意味する言葉の多くが「息」と関係している。世界を吹き荒れる神の息によって、あらゆるものは活性化アニメイトされる。だからそれはものを揺らし、声となって響く——ポルターガイストのように。だが、こうした西欧的な魂のイメージから離れていくことは可能だろうか。例えば、水野は本展の作品群を「客体オブジェクトではなく主体サブジェクトとして振る舞い、鑑賞者と同じ地平において会場に存在するもの」だと語る。作品それぞれに霊が宿り、それらが関係する系そのものにもまた霊が宿る。つまり鑑賞者は会場で霊のあらわれを感じる瞬間、自らもまた展示という巨大な霊の一部へと包摂されていく。これはどこか、死者の魂が単一の御霊へと統合されるという神道のあり方を想起させる。異なるのは、統合が不可逆ではなく、常に個と全体のあいだで揺らいでいるということだろう。

もう少し連想を加速させてみよう。本展は3層の鏡によって構成されていると見立てられる。《mirage》は文字通りとして、《Siralos》もまた、展示空間での事象を反映しているという点で鏡たりうる。そして《怪形異態智械碑序》にあらわされたものが漢字なのだとすれば、それは古来、熱された亀の甲羅の表面に浮かんだ皹、あるいはそれを記録した甲骨文字へと繋がる。すなわちこれも、世界を映しとり出力するための鏡として解釈できる。鑑賞者は3度、自らの顔を鏡に映す──「私は、その男の写真を三葉、見たことがある」。それはいわばフォトグラメトリ(写真から立体データを作る技術)だ。ここでは、3つの鏡像の視差にもとづいて仮構されたフォトグラメトリの顔として、霊の3Dモデルをあらわすことができる。かつて精神科医の春日武彦は、人間に魂があるとすれば、それは顔のかたちをしているのではないかと語った。今やありとあらゆる顔がAIに学習され、出力され続けている。文字が、音が、声が、光が紡ぎ出すぼやきが、その魂の相貌をつくりかえていく。ここでわたしたちは、第一次世界大戦がもたらしたもうひとつのテクノロジーが、負傷兵の心身を再建するものとしての美容整形技術であったことを思い出せるだろう。ポルターガイストとは魂の整形技術だ、と誰かが叫び、その声に応じてソラリスの水面が緩慢にのたうつ。

鑑賞日:2024/9/7(土)