訳者:岩崎晋也

発行所:早川書房
発行日:2024/7/1

To be, or not to be──「生きるべきか死ぬべきか」あるいは「このままであり続けるべきか」。それはいささか問われすぎた命題だが、本書のタイトルに掲げられた“Ways of being”は「(実際のところ私たちは)どのように存在しているのか」へと視点を誘う。本書を読み終えたとき、先に挙げたハムレットのセリフは単なる独白ではなく、人間以外のものたちにむけた語りかけとして、新たな響きを得るだろう。

ジェームズ・ブライドルはイギリスを拠点とするアーティスト兼作家であり、コンピュータサイエンスと認知科学を専門としている。第一章「ちがう考え方」で紹介されるブライドルの作品は、本書を端的に象徴しているだろう。ブライドルは自動運転車を自作し、それに乗ってパルナッソス山を放浪する。目的地への最短経路を導出し、運転者の意識を移動から切り離すために研究が続けられている自動運転技術を、無為な回り道、積極的な遭難、目的地の忘却へと転用することによって、ブライドルは人工知能の知性の異なる側面を露出させるのだ。最終的にブライドルの自動運転車は、それぞれ進入禁止と進入可能を示す白線で二重に囲まれた円の中に永久に囚われる。

生命・非生命を問わないさまざまな存在が持つ「知性」を概観していくことで、従来、人間の特権的な能力としてみなされてきたそれを解体・再構築する──本書のごく簡潔な説明は上記のようになるだろうが、実際の読み味はやや異なる。ブライドルはまず、今日における支配的な知性とはすでに人間のものではなく、企業のものであると喝破し、人工知能を筆頭とする「超越的」な知性のあり方もその延長線上においてのみ議論されていると述べる。そもそも人間は知性を特権的なものとして独占することなど叶わず、それはすでに手からこぼれ落ちている。問題なのはその零落に対して人間があまりに無自覚であり、それゆえに「こぼれ落ち方」がごく限定的であることなのだ。

ブライドルは一貫して、知性は個体に宿るというよりもむしろ、個体と個体、あるいは個体と世界といった関係性のなかにおいて発揮されるある種の現象である、という立場をとる。もっと言えば、第三章「生命の茂み」において種という概念の曖昧さを指摘してみせるように、ブライドルは個体や種、環境といったものを規定する輪郭もまた、人間の恣意的な解釈に過ぎないと主張する。そこでは、人間以外のさまざまな存在にそれぞれ独自の知性が宿っているわけではない。互いに切断不可能な関係性がまず最初にあり、そのネットワークを巡るそれぞれの流れのなかに存在や知性が浮かび上がってくる、という世界の把握である。

ブライドルの主張は、単に人間以外の知性のあり方を見つめ直しリスペクトを払うべきだ、という点──それは一見妥当に見えるが、実のところ人間が知性を「見出す」という特権性からは逃れられていない──に留まらない。ブライドルの観点において知性とは、あらゆるところにすでに存在している。知性が関係性のなかで紡がれる回路であるならば、それははじめから無数の存在の混淆物としてしかありえない。「人間の」知性などというものはなく、それは人間の脳と身体を超え、動植微生物や環境、機械、電子データやそれを入出力するプロトコルといったものたちとのキメラとなる。伴侶、堆肥、サイボーグ(ダナ・ハラウェイ)……身体が不可避的に混ざり物であるように、知性もまた混ざり物である。知は混濁し、発酵する。

ブライドルは作中で何度か、フェミニズム理論家/物理学者であるカレン・バラードを引用している。先に述べたような「関係性が存在に先立つ」というモデルは、まさしくバラードの「行為体の実在論(Agential realism)」を思い起こさせる。あるいは、非人間的なものたちの知性を浮かび上がらせることで、この世界における唯一の主体としての人間という幻想を転換させるという意味においては、ニューマテリアリズムや思弁的実在論へと接続することもできるだろう。こうした近年の新しい実在論の勃興には、いわゆる人新世的な問題意識が共鳴しているように思われる。科学技術は、量子の世界から数十億光年先の宇宙までの扉を開き、同時に私たちの身体から環境までを操作可能とした。それは同時に、世界の底が抜けるような転換──これまで想像すらしなかった理解不能な存在たちが世界に溢れ、それらとの関係性を意識しなければならない時代の到来でもあった。そんな非人間的なものたちが蠢く世界における認識を確立するためのひとつの回路として、これらの思想が受容されたという面はあるだろう。そしてその接点は主に、アートや建築、デザインの領域において探索されてきたのだ。

後編へ続く)

執筆日:2024/10/31(木)