会期:2024/10/18〜2024/10/27
会場:スタジオ空洞[東京都]
公式サイト:https://ungeziefer.site/
長いケーブルなどを絡まないようにまとめる8の字巻きという巻き方がある。順巻きと逆相巻きという二つの巻き方を交互に繰り返すことで捩れが打ち消され、そうして巻いたケーブルは端を持って引っ張るだけでするすると簡単にほどけていくという便利な巻き方だ。だが、現実はそううまくはほどけない。あるいはまとめられないと言うべきだろうか。ウンゲツィーファ『8hのメビウス』(脚本・演出:本橋龍)の舞台はザイルと呼ばれるリボン状の物体のレンタル会社・メビウス。その社員は8時間の勤務の間、ひたすらにザイルを8の字に巻き続けることになる。「都市型安全器具」と呼称されるそれは、上演台本には「『意味があるのかわからない無限の労働』の象徴」と記され、何に使うものなのかが劇中で示されることはない。『8hのメビウス』はメビウスの社員であるコミネ(黒澤多生)とサカヅキ(藤家矢麻刀)、そして古参かつ年長のアルバイトとしてろくに仕事もせず横暴に振る舞うシバタ(近藤強)らの会社での、つまりは労働の様子と、それぞれの生活=人生の光景を描き出していく。生活とそれを支える不毛にも思える労働とは表裏一体となり、メビウスの輪のように抜け出せない繰り返しの日々をかたちづくっている。
[撮影:上原愛]
公演会場に入ると舞台上では二人の男が蛍光グリーンのリボン状の物体=ザイルを巻いている。雑然とした倉庫のようなその場所にはすでに巻かれた大量のザイルと、それ以上に大量のこれから巻かれるべきザイルが置かれている。1本巻き終えたらまた次へ。しかしよく見ると一方の男=コミネは巻き終えたザイルをほどいてはまた巻き直すということを繰り返しているようだ。光のない目と抜け落ちた表情が開演前からその労働の不毛さを、労働者の倦怠を観客に突きつける。
コミネはその不毛さとシバタのパワハラに耐えかね、やがて会社を辞めてしまうのだが、パートナーのサチ(豊島晴香)にはそのことを言い出せない。生活費を稼ぐため、もともとダブルワークで従事していたウーバーイーツに出かけるも、今度は自転車を盗まれてしまう。思い余ったコミネは橋から飛び降りようとするが、そこに現われたワロボロスを名乗るYouTuber(高澤聡美)はシバタへの復讐代行を提案し──。
一方のシバタもまた、もともと50になったら辞めるつもりだったのだと退社を申し出る。自分の会社も畳み(シバタもまたコミネと同じようにダブルワークだったのだ)、貯めた金で買ったキャンピングカーで旅に出るのだという。そのキャンピングカーには家族との関係修復の夢も託されていた。シバタは別れた妻との間の娘・アスナ(百瀬葉)に会いに行くが、まともに口を聞いてももらえない。拒絶されながら何度も会いに行くうち、アスナは恋人との同棲を認めるよう母親を説得してほしいと言い出すのだが──。
[撮影:上原愛]
[撮影:上原愛]
俳優たちはメビウスの倉庫をベースとした空間に、ソファやローテーブルを載せた台車を持ち込むことでコミネ家のリビングを表わしたり、あるいは丸椅子を並べることでシバタの車を表わしたりと演劇ならではのやり方で複数の異なる場所を軽やかに立ち上げていく。サチの母を演じる山田薫を含め、6人の俳優は全員が一人複数役を演じ、例えばシバタを演じていた近藤が次の瞬間にはコミネの幼い息子になっているなど、場面によってその関係性を次々と変えていく。会社においては労働の外にある互いの生活=人生が交わることはないはずだが、ウンゲツィーファの演劇的時空間においてはそれらは別個のものでありながら半ば重なりあうように提示され、それに引きずられるようにしてやがて現実の生活=人生もまたいくつかの出来事を通じて交錯していくことになるだろう。
それが極まるのがシバタがアスナの恋人と対面する場面だ。アスナの恋人として藤家が現われたとき、私は一瞬、ここでも一人複数役が活用されているのかと思った。しかしそこに現われたのは双方にとって気まずいことにサカヅキその人であり、シバタはそこで、サカヅキと交わしたいかにもホモソーシャルな、女性を性欲の対象としてしか見ていない言葉の数々を嫌でも思い出さざるをえない。こうしてシバタは己の「有害な男性性」と直面し、サカヅキはシバタの父親としての側面に触れることになる。恋人、夫、そして父親。会社の外でのそれぞれの姿は、サカヅキとコミネ、そしてシバタを緩やかな連続性のなかに置き直し、そこにある切実さとどうしようもなさを同時に浮かび上がらせるだろう。
[撮影:上原愛]
一方のコミネは会社を辞めたことがサチに露見し、姿を眩ましたかと思いきやYouTuber限界労働ゾンビとなってシバタと対決することを選択する。シバタとの対決もさることながら、特に胸を打つのはコミネがどうしようもなく溜め込んだしんどさを吐露する場面だ。「目標は、ありません! 言いたいこともありません! 死にたくもありません! 生きたくもねー! ていうか、生まれるのを自分で選んだわけでもないのになんでこんなキツいんだって思って、…ていう愚痴を、誰に向けたわけでもない愚痴を、垂れ流したかった俺は!」
弱さを打ち明けられず抱え込んでしまうコミネと抑圧的な態度でしか他人に接することができないシバタ、そしてヘラヘラとすべてを適当にやり過ごそうとするサカヅキ。作中では「有害な男性性」とそれに起因する男性の生きづらさが、ときに目を背けたくなるような解像度の高さで描かれている。それらと正面から向き合い、きわめて演劇的なやり方で解きほぐそうとしたことこそがこの作品の大きな意義だろう。一方、女性の側の困難や生きづらさはほとんど男性側の「問題」に付随するようなかたちでしか描かれていないようにも思える。もちろん、ひとつの作品であらゆる問題を描くことはできない以上、それはこの作品の主題ではないということでいいのだが、しかし同時にそのような描き方自体がホモソーシャルな、互いに共感する男たちの関係性への自閉を示しているようでもある。完全さの象徴であるウロボロスは己の(あるいは互いの)尾を咥えることで完結した輪をかたちづくっているが、必要なのは咥えた尾を離しその輪を開くことだろう。シバタとアスナ、そしてサカヅキが一台のキャンピングカーで旅に出るという、ある種の和解を示すラストシーンにおいても、言葉を交わすのはシバタとサカヅキの二人だけだ。だから、本当の問題はそうして旅に出たその先なのだ。
[撮影:上原愛]
鑑賞日:2024/10/24(木)
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