翻訳:牧尾晴喜
発行日:2024/11/20
発行所:ビー・エヌ・エヌ
公式サイト:https://bnn.co.jp/products/9784802512473
(前編から)
こうした状況を受け、デザイナーは文化的な職能としてのアイデンティティをいかにして担保するのだろうか。
美学にこだわるのか、あるいは技術的な関心を文化的な関心に転換するのか。その方途がいくつか検討されながら、ルロッソの議論は教育や行政といったより大きな社会スキームへと拡大されていく。だがこうした大局観を示しつつも、著者はその観念性に寄りかかりすぎず、現代のデザイナーが立つ「いま、ここ」に留まりながら議論を展開している点にこそ同書の特色がある。ルロッソはテクノロジーの進歩により変質したデザインの自動化について触れながら、現代では子どもたちでさえSNSに投稿する際には「高性能な編集アプリを駆使して構成を考え、色の補正、タイポグラフィの調整、ステッカーやアニメーションの追加を行っている」★4と述べている。こうした状況は、プロとアマチュアの境界を曖昧にし、デザイナーの社会的な立ち位置に変化をもたらしている。そしてデザイナー自身も、その仕事において、ソフトウェアのプリセット、デフォルトの設定を使い始めていると指摘する。そして「デフォルト・システム・デザイン」とも呼ばれるそれらは、現代にあってはAIの発展に伴い収集、学習したデータをもとにした「進化し続けるデフォルト主義」★5となっていると結論づけるのだ。
かつてデザインに託されていた希望は、今後どのような局面を迎えるのだろうか。畑ユリエがデザインした背の高い帯には、英題である「What Design Can’t Do」が最背面に揺らいでいる。その歪められた図像は、まるでBOTやAIの認識をかいくぐるためのreCAPTCHA(リキャプチャ)のようにも見える。デザイナーという主体に残された可能性は、いまにも消えてなくなってしまいそうなこのタイポグラフィのように儚いものなのだろうか。デザインにまつわる幻滅や隘路を書き連ねてきたルロッソは★6、結論部において「『技術の』知識人から『技能の』知識人」★7へと移行したデザイナーに対して、彼らのデザインの「批評的自律は原因というより結果であり、教室や美術館や会議で語る素敵な物語、目くらましである」★8と断じる。それではどのような態度で、現代のデザイナーは職能をまっとうすれば良いのか。著者はそれについて、次のような精神性を提示し、記述を締めくくっている。
「デザインの妥協」は「批評的自律」の対句である。それは結局のところデザイナーは必然的に「ブリコルール」、つまり自分が置かれた状況のなかにあるものでやりくりできる人だという事実を認めることだ。★9
混沌とした現実に身を置き、そのなかで奮闘すること。ルロッソが正直に告白するように、この「妥協」という回答はハッピーエンドではないし、あまりにも現実的な態度だと言える。著者は「真の希望とは、本の最終ページに『書かれている』ものではなく、本の外側で、著者と読者との間、そして読者たち自身に築かれる親和性や連帯感のなかで見出される」と呼びかけているのだが★10、ここにおいて、これまで語られてきたデザインにまつわる幻滅と絶望は反転するだろう。同書の表紙タイトルには、中央部を横切る打ち消し線があしらわれている。この装丁は、そのような「希望」をネガとして浮かび上がらせるための「デザイン」にほかならない。
★4──シルビオ・ルロッソ『デザインにできないこと』(牧尾晴喜訳、ビー・エヌ・エヌ、2024)p.171
★5──同前、p.185
★6──同書の記述はアートや建築への目配せもあり、かつ内容はクライアントワークにおけるさまざまな軋轢を取り上げているという点においては、デザインのみならず広義の創造性をめぐる議論としても読めるだろう。
★7──前掲(2)、p.282
★8──前掲(2)、p.291
★9──前掲(2)、p.292
★10──前掲(2)、p.298
執筆日:2024/11/24(日)