会期:2024/12/07~2024/12/08

会場:WHITEHOUSE[東京都]

がらんとした空間の中に蠢く肉体が配置されている。その動きはどのように表現できるだろうか──跪き、這いつくばり、寝転がり、俯せ、逆立ち、反り返る──いずれも間違いではない。しかしそれらが決定的に不適切なのは「直立する人間の身体からの変位によって成り立つ形容」であるからだ。この部屋でのたうつ肉体とは、私たちが見慣れたニュートラルな身体ではない。それらはこう呼ばれる──キメラと。

「技術的嵌合地帯–CHIMERIA」公演風景[撮影:太田琢人][提供:花形槙]

この嵌合検査は、アーティストの花形槙によるプロジェクト《技術的嵌合地帯──CHIMERIA》の一環として、新宿・WHITEHOUSEにて開催された。花形はテクノロジーを通じた身体感覚の変容とそれによる世界との関係性の再構築に関心を向けており、それは電気的な筋肉刺激によって他者の実在感を腕に宿らせる初期作《Paralogue》から、有機/無機を問わないオブジェクトたちと身体を接合することで主客の関係を捻転させる近作《A Garden of Prosthesis》まで一貫している。本プロジェクトはとりわけ、小型カメラとそれに接続されたヘッドマウントディスプレイによって人間の視点を顔部から解放する過去作《still human》と関係が深く、同様の〈嵌合装置〉によって目をつくりかえられた被験者──キメラ──たちによる長期間の集団生活を通じて、その身体に適合した新たな生活環境を構築することが試みられる予定だ。今回の検査は、このキメラ化施術を受ける被験者を選定するためのプログラムとして位置付けられており、インターネット上にばらまかれた電話番号に連絡し所定の質問に回答することではじめて参加資格が得られる、という極めてクローズドなかたちでとり行なわれた。それは公開と非公開、展示と準備、鑑賞と観察のあいだに位置するおぼろげな催しなのだが、それゆえに、単なる本番のプロトタイプには還元しえない手触りが現われている。

空間に足を踏み入れると、中央に二脚の椅子が置かれているのが目に入る。その一方には花形が腰掛けており、被験者が席に着くと間も無く問診が開始される。もっとも古い記憶は? 今日人類が絶滅するとしたら悲しい? この世界に存在していてはいけないと感じる瞬間は? グロテスクな心理テストのような質問がポツポツと繰り返され、やがて花形は〈嵌合装置〉を取り出す。爪先、膝、股間、臍、背中、頭頂部など、目を移動させられる部位は被験者によってさまざまだ。それゆえにキメラたちの動きもまた無数のパターンを見せる。足先に目を持つキメラがその肉体に順応していく過程の一例を、人間の視点から見てみよう。片脚立ちの姿勢でなんとか周囲を見ようとしていた肉体は、やがてその不安定さから四つん這いに移行し、そのまま俯せに寝転がる。膝を曲げ、足首をひねりながらその視野の範囲を探るが、歩行器官として発達した脚部の関節はその可動域が前後方向に強く規定されているため、上手く「首を回す」ことができないと気づく。であれば肉体全体を回してしまえばいい、というわけで、俯せから仰向けに姿勢が移行する。しばらく環境とのフィードバックループを続けると、肉体は俯せと仰向けを滑らかにスイッチしながら空間中に「目を泳がせる」ことが可能になる。そのさまは体内を進むファイバースコープや成長する植物のつる、あるいは悶えるナマコなどを思わせるが、そのいずれとも異なる。不恰好に張り出した残りの手足や鈍重な頭部、対称形から大きく崩れた骨格。それらがぎくしゃくと連動し、硬直した筋肉を震わせながらかろうじて目を掲げている。それは新たな可能性に晒される肉体のよるべなさである。

とりわけ、キメラの実在性を強く感じられたのは最後の被験者だった。足先に目を移したそのキメラは、椅子からゆっくりと雪崩れ落ちると、その輪郭を至近距離から凝視しはじめた。透明なプラスチックの背もたれと座面のあいだを視線が行き来し、その動きはほとんど足先で椅子を愛撫するようにも感じられる。見ることと触れることが合一した知覚。それは単に身体構造をズラしただけでは獲得しえないものだ。多くの人間は、外界からの情報のほとんどを視覚によって得ている。だからこそ、視覚をつくりかえることは世界をつくりかえることに等しい。視覚は対象との距離を保つことで成立し、触覚は対象との距離を減らすことで成立する。相反する知覚が結びつくところに生まれる官能。それはまさに、世界と新しく出会い直す歓びであろう。

「技術的嵌合地帯–CHIMERIA」公演風景[撮影:太田琢人][提供:花形槙]

「技術的嵌合地帯–CHIMERIA」公演風景[撮影:太田琢人][提供:花形槙]

さて、人間の視覚にまつわる近年の刺激的な見解を概観するのであれば、マーク・チャンギージー『ヒトの目、驚異の進化──視覚革命が文明を生んだ』を挙げられるだろう。中でも第2章「透視する力」では、まさに人間の目とその位置関係に焦点が当たる。チャンギージーは、人間の両目が顔の前方に位置している──つまり両目の視野の重なる範囲が大きい──ことの利点とは、視差を脳内補正し、自分の鼻や生い茂った葉といった障害物を透過した視界を手に入れられることだと述べる。そのうえで、巨大な人工物に満たされた現代の都市生活においては両目の視差はほとんど意味をなさず、人間はその透視能力を死蔵していると指摘する。また、自動車をはじめとしたモビリティによって身体のスケールが拡張しているにもかかわらず両目の位置が変化しないのは、体内に目を埋め込んでいるようなものである、とも。すなわち都市においては、ウシやウマのような顔の両側に目が位置する視界か、あるいはカタツムリのように顔の幅よりも極端に目が飛び出ている視界のほうがよほど有利に働く可能性があるというわけだ。

花形は、高度化する資本主義社会があらゆるものを最適化していくなかで、「正常な身体」に対する規範意識もまた強化されていったと述べ、それらに対するオルタナティブを模索するための試みとして《still human》を位置付けていた。しかしそもそも、私たちが思い描いてきた正常な身体──ダ・ヴィンチのウィトルウィウス的人体図やコルビジェのモデュロールに代表される──はもはや、資本主義社会の進化スピードにまったくついていけていない。釘を打っているときハンマーは疑いようもなく道具だが、ひとたび壊れてしまうと、そこにはこれまで認識していなかった無数の性質が湧き上がってくる。現代において私たちがはじめから壊れたハンマーであるならば、今必要とされているのはそこにどれだけの異なる質を見出せるかなのだ。

ところで検査中、会場にはナトリウムランプが設置されていた。演色性の低い黄色の光で満たされた空間のなかでは、人間の肌をはじめほとんどのものがモノクロームに見える。これは異質な空間を演出するためのひとつのギミックに過ぎないとも言えるのだが、先に挙げたチャンギージーの著作から面白いアイディアを引き出すことができる。第1章「感情を読むテレパシーの力」でチャンギージーは、人間が他の哺乳類に比べて色覚を発達させたのは、互いの肌の色の微細な変化を認識することでコミュニケーションを図るためだったという仮説を提示している。すなわち奇しくもこの空間においてキメラたちは、色覚という非言語的なコミュニケーションの能力をも剥ぎ取られていたと言えるだろう。人間から、世界から切り離されたキメラたちに新たに宿るもの、それはなんなのだろうか。

床に横たわり、空間をまさぐるように目を伸ばすキメラを見たとき、私は春暮康一によるSF短編「主観者」を思い出していた。この作品では、地球から10光年に位置する惑星ヴェルヌに到着した太陽系の住人たちが、その海中に棲息する生命体・ルミナスとコンタクトを図る様子が描かれる。ルミナスは柱状の身体とその上下端から生えるそれぞれ7本の触腕を持ったコロニー生物なのだが、特徴的なのはその全身が肉眼では認識できないほどに細かなパタンで発光を繰り返していること、およびそれぞれの触腕の先端にその発光パタンを捕捉・認識できるガラス状の組織が嵌め込まれていることだ。終盤、ルミナスの発光はいわば意識そのものであり、ルミナスたちはコロニーのネットワーク間で意識を交換し合うことによって、個が融けあったひとつの巨大な主観を形成していた可能性が示唆される。それはいわゆる群知能ではなく、脳神経系という個の知能を光学的な手法によって連結・拡張していることを意味する。ルミナスたちにとって他者の発話は内言として響き、他者の目を通じて得られた視覚はそのまま内的なイメージとなる。通常、私たちは言語や身振り、表情、声色といった信号を通じて部分的・擬似的に意識を交換している(あるいはできてしまっている)ために、意識や個が流出・融合するということを上手く捉えられない。しかし、このネットワークから完全に切り離された存在として生まれたキメラたちにとって既存の脳における意識に意味はなく、むしろ世界との関わりを探索する肉体の蠢きそのもののほうが意識と呼ぶにふさわしい。それは直感的には、まだ中枢化する前の脳にも近いだろう。その意味において、キメラたちはルミナスと同じく可視的な意識を持つ存在たりうるのかもしれない。キメラになっているあいだ、被験者たちは皆一様に声を発さない。茫洋とした光に包まれた空間のなか、沈黙とともに検査は進む。だがそこで蠢く肉体は常に叫びを──あるいは光を、もしくは手触りを?──発している。それを「目にする」ときは、それほど遠い未来ではないかもしれない。

鑑賞日:2024/12/7(土)、12/8(日)